23 名誉の勲章
南方の采配で、局員はいくつかのグループに分けられた。
園内の地図をグループごとに割り振り、市を一周したらまた合流する。
簡単な指示に皆が合意し、僕は三鷹について西側のエリアに向かうことになった。
古本市が初めての城之を連れた南方は北へ、伊達は一人で東を引き受けた。残った安藤と馬場は南に向かうらしい。
南方がよく懐いた後輩を携えて、意気揚々と自分の持ち場に向かった。そちらには子供向けの絵本やレシピなどの中古本を扱う、比較的ライトなエリアらしい。
僕はメモの本がどのようなジャンルなのかも聞いていないことを思い出したが、三鷹は事も無げに「自分も知らない」と告げた。
「こんな本を見つけるなんて、不可能なんだよ」
西の方角に目を向けたが、三鷹は心地のいい日陰から出ようともしない。
彼の断言は、僕が持つ悪筆のメモを真っ向から否定するものだった。
広い市で本を見つけることが難しいのではない。南方が探している本は、この世に存在しないものだった。
現代、多くの店が商品管理にコンピューターを使う時代だ。
また自店の商品を紹介するために目録を作成する古書店の営業形態において、店主も知らない本が出店に紛れているというのはあまり考えにくい。つまり、多くの場合タイトルと装丁までわかっている本を市で探すのは、そう難しいことではないはずだ。
実際、過去に全ての店で店主に聞き込みをし、各店から扱いがないことを断言されたことがあるらしい。
だが、南方はあくまで店をひとつひとつ回り、探すように僕たちに指示をした。
誰も知らない本を目指して。
だから店主も「幻の本」と呼んだのだろう。
「見つからないのがわかっていて、探しているんですか?」
「そう。真面目にやっているのは伊達くらいだけど」
「じゃあ、なんで先輩達は集まってるんですか」
「暇だからかな。あと単純に、自分たちの買い物」
三鷹が少し離れたところにある出店を示す。
軒先には、明らかに指定されたエリアの外で宝の山に対峙している安藤の姿があった。
隣に馬場もいて、真剣に本を眺める横顔は真面目に見えるが、胸に抱えた本が増えていくのは明らかに買い物の光景だ。
「どんなに探しても南方のいう本は印刷された記憶がないし、出版された過去もない。でも、南方が探すというから、付き合っている。友達だからね」
彼らは図書局に属するだけあって、本の知識なら多少なりとも持ち合わせている。
また、手元にない本や、新刊書籍以外の本を見つけ出す術も知っていた。そこで、彼らは協力して、徹底的に南方の探す本を大捜索をしたことがあるらしい。
しかし、誰の力を借りても件の本は見つからなかった。
出版された記録がない以上、存在しないと考える方が自然だろう。彼らがアクセスしたという国の機関の名前を聞いて、僕も納得せざるを得ない。
三鷹も、真面目に市を回る気はないようだ。
彼が二人に近づくのに習って、僕も先輩達の隣に並ぶ。
木箱を覗きこんでいる馬場は、もう先ほどの指示など頭にないように、真剣に本を見比べていた。
胸元のボタンがあけられ、普段は布で覆われてる肌が覗いている。彼のキャラクターより浅黒く感じるのは、元々スポーツ少年であったという刷り込みによるものだろうか。
横に並ぶ安藤の方がよっぽど色白で、惜しみ無く日に晒された腕は大理石のように木漏れ日を映している。
なんてことのないシャツに身を包む安藤は普段から薄着の印象が強く、校外でも雰囲気があまり変わらない人であった。
影に気づいた安藤が、こちらを見上げる。
珍しく子供のように歯を見せて笑った先輩は、僕に「共犯」という称号をくれた。
「椿くんにも言ったんだね」
「ええ。知るなら早い方がいいでしょう」
「こういうの、時間の無駄って思うかな」
優しい先輩は僕の意見も尋ねる。
実際、いまここにいない紅一点はその意見のようだ。
合理的で現実的な佐羽は、移動にも時間がかかる矢車までくるのは平日だけでいいと考えているらしい。ましてや好意をよせる南方に嘘をつくのを嫌がり、彼女は集まりに参加しないようだ。
僕は見えてきた先輩達の関係に満足して、正直に思いの端を告げた。
「いいえ。むしろ、少しほっとしました」
図書局員は、南方を少々神格化しすぎているように思っていた。
体育祭で部活動対抗リレーに出て以来、僕が図書局員であることは学年に広まりつつあった。
当時、唯一の一年だったということもあり、教師や、先輩から話を聞いた生徒からは随分と揶揄われたものだ。
あんな男の下によくつけるな。
面と向かって言われた回数も一度や二度ではなく、そのたびに下に着いた覚えはないと反論してきた。
僕はあくまで、南方に興味があるだけだ。
従ったり、こびへつらったりするつもりは微塵もない。
そんな僕のスタイルは、図書局内では異端のように感じていた。
しかし、皆も南方の目が届かないところでは、それぞれ手を抜く習慣があるらしい。
三鷹はすでに目当ての買い物が済んでいるようだ。
僕も彼の横で、安藤と馬場の買い物を見守ることにする。
「名著復刻全集ですか」
「全何巻あるのか誰も知らないやつ」
彼らが吟味しているシリーズは、二河原高校図書館にも数冊存在するものだった。
貸し出し用の本ではない。
歴代の図書局員が集め、コレクションにしているものだ。
書庫の一角に並んだ青い背表紙は、小説をあまり読まない僕にとっても見慣れたものとなりつつある。
新刊の中古屋では絶対に見かけないが、組合に所属する古書店ならば比較的安価で取引されているものだ。
軒先で投げ売り同然に置かれているのをよく見るが、古い文学作品が好きな者にとっては夢のようなシリーズである。名の通り作家が出した本を当時の表紙や巻末なども含めて復刻したもので、教科書に載っている本が手に入るというのにロマンを覚えるものが図書局員には多いらしい。
「『檸檬』が存在するはずなんだけど、なかなか見つからない」
「でも、箱に入った『野菊の墓』を見つけたから、図書館に加えとくよ」
馬場が恋をするかのような遠い目をして、安藤が戦利品を僕たちに見せる。
彼らが表示させている画面には、図書館のコレクションがメモされてあった。伊藤左千夫の一冊はすでにメモの中にあったが、箱が見つかったのは初めてらしい。裸のものは安藤が引き取ると言い、僕はあの一角がどう増殖していくのかを学ぶ。
全集は、歴代の局員たちの小遣いで収集されている。
自由に入れ替えることができると聞いて、僕も今度倉庫を確認してみようと決意した。
「『羅生門』はもうありましたっけ」
馬場が安藤に尋ねながら、腕を伸ばす。
少し高い場所にあった本を取る左腕から、さらりとした生地の袖が落ちた。その下の肌がむき出しになって、僕は思わずはっとする。
本に夢中な馬場は、気づいた様子がない。
だが、咄嗟に飲んだ息は、安藤の耳に入ったようだ。こちらを咎めるように見上げる目がいつになく冷たく光る。
馬場の腕を、初めて見た。
どんなときでも長袖を纏う彼の左腕には、いまだ残る傷跡が無数に刻まれていた。
「……『羅生門』は外箱もあるね。でもこの一冊に入っている短編はどれも完成度が高いから、手元に置くのはいいと思う」
安藤が冷静に答え、中身を確認する馬場に寄り添う。
馬場が慎重に開けた青と茶の外箱の中には、黄色の上質そうな箱が入っていた。作品の印象とは異なる鮮やかな色に、僕は思わず目を細める。
「彼の勲章だぞ」
ふいに聞こえた声に、思わず飛び上がる。
驚いたのは、僕だけではなかった。
いつの間にか僕の横には南方の姿があって、その後ろになんとも言えない表情をした城之も立っていた。
他の場所を見ていた三鷹も目を丸くしていて、彼の登場が予想外であることを物語っていた。
まだ、待ち合わせた時間には随分と早い。
サボりが見つかった罪悪感に、局員たちは口を噤んだ。部下たちを見回してなんとも言えない表情をした南方は、馬場の腕に視線を落とした。
「目を逸らす必要はない。そうだろ、ジャン」
馬場は語り掛けられてはじめて、袖がめくれていたことに気づいたようだ。
手首までシャツを戻した彼は、固まったままの表情でぎこちなく頷いた。
「まあ。見られて楽しいものでないけれど」
「ジャンは勇敢にも仲間を守った。それで得た勲章を恥じる必要はない。もっと堂々としていればいいといつも言っているだろう」
南方は、まるで事故の様子を見ていたような口調で告げた。
部外者が口を出すのにはあまりにも軽く、彼が抱えている問題を考えればあまりにも無責任だ。
だが、当の馬場がどこかはにかむように俯くのを見て、南方のカリスマ性の一端を実感した。
出口のない苦しみを味わう者にとって、時に希望と肯定の言葉は救いになる。少なくとも、彼らの関係ではそれらが正しく響き合っているようだ。
「周りからあれこれ言われるのも面倒だろ。南方がとやかく言うこともないよ」
三鷹が独り言のように理解を示す。
安藤がさりげなく立ち上がって、手にした戦利品を清算しに行く。
遅れて立ち上がった馬場は、いまはシャツで覆われた左腕を軽く振った。
「腕、もげなかっただけよかったと思ってるから」
「もげ……」
「椿も、あんまり気にしなくていい」
短い言葉で満足したように、馬場も安藤を追いかけた。
聞けば、城之が荷物を預けていることを聞いた南方が、一度顔を出しに来たらしい。
店主と南方も顔見知りのようで、挨拶を交わす姿はやはりどこにでもいる好青年に見えた。
また改めて捜索を始めたが、そのあとの本探しも有耶無耶なまま終わった。
そうしている間に伊達も合流し、戦果がないことを確認し合う。
隙を見て伊達にも尋ねたが、妙なところで真面目な彼は、担当エリアを一周してきたらしい。
それで南方が満足ならいい。
伊達らしい回答に目を丸くしていると、何故か城之が感激し、妙に伊達に懐きだした。
僕もいくつか本を入手し、最後にラムネの出店で休憩することになった。
「私にも名誉の勲章があるぞ」
南方がふいにそんなことを言い、サンダルを履いた足を僕に見せたのは、皆が汗を乾かし、解散も間近という空気が流れた頃だった。
見れば、彼の足首には、うっすらと白く皮膚が盛り上がっている箇所があった。
曰く、幼少期に犬に噛まれた傷痕らしい。
「出た、南方の武勇伝」
三鷹が茶化し、城之が話の続きをせがむ。
「当時の私は、家の近くに住んでいた娘に恋をしていた。彼女の家に通う日々、はじめて彼女の部屋に案内してもらった日のことだった」
彼が語ることには、彼女の部屋は広く、大きなベッドが置かれてあった。
少年少女が小さかったのか、彼女の両親がキングサイズのベッドを娘に与えるような人間だったのかは不明だ。そもそも幼少期に自分だけの部屋を持つ少女は、恵まれている生い立ちなのだろう。
広い家に、広い部屋。童話の中でしか見たことのない贅沢なベッド。
南方はその光景に感動し、一生の思い出として脳裏に刻んだという。
彼女は、犬を飼っていた。
愛犬である小柄なパグは、その巨大なベッドに眠っていた。
時折散歩をしている姿は知ってい。その日、はじめて間近で見ることになったパグを、南方は抱きかかえようとした。
眠りを邪魔された番犬は、突然の侵入者に腹を立てた。
「彼女を護る従順なナイトは、私の足をガブリと噛んだ。何、狂犬病のワクチンを済ませた安全な犬とわかっていたからな。さほど恐怖は感じなかった」
しかし、子供の柔らかい皮膚に犬歯は凶器となる。
傷は病院に担ぎ込まれる騒ぎとなったようだ。
「私より、彼女の方が泣いていたよ。優しい娘だ。私はこの傷を撫でるたびに心優しい少女を思い出して傷よりも胸が痛むものだ」
うっとりと思い出話を終えた彼は、足首を愛しいもののように撫でる。
いい加減、彼に慣れてきた僕には、話のオチが見えかけていた。
幼い彼が好きな女の子の前で強がったのは、本当かもしれない。しかし、最終的には大声で泣いて周囲に心配をかけたのだろう。いざ治療が済むと、大げさに話を作って周囲に言いふらし、美談として記憶した。
南方らしい武勇伝らしい。
「その初恋の子とは、そのあとどうなったんですか」
試しに聞いてみると、南方は待っていたとばかりに芝居がかった遠い目をしてみせた。
「あの子は、そのすぐあとに遠くに引っ越してしまったのだ。私に泣いて謝って、最後まで痕が残ることを気にしていたな。美しい女性に成長していると思うと、連絡先を紛失してしまったことがいまでも悔やまれる」
自らの「勲章」を見つめた彼は、熱心に話を聞く城之と僕を振り返った。
「しかし、私はいつか彼女と再開できると信じている。彼女は私の傷を見て、幼い頃に出逢った男だと気づくだろう。私の方は心配いらない。どんなに成長していても、彼女の美しさは見間違えることがないと確信しているからな」
「……因みに、怪我をしたのはおいくつくらいのお話なんですか」
「義務教育に入る前だから、五つくらいか」
ならば、十中八九、相手は覚えていないだろう。
予想通りの話に、思わず肩をすくめる。
城之は再会を祈る言葉を熱心にかける。彼の素直さは時々、羨ましいほどだ。鼻を高くしている南方に気づかれる前に表情を整え、先輩達の様子を伺う。
ラムネの瓶を傾ける局員たちにとって、この話は聞き飽きているものらしい。
素知らぬ顔で涼をとる先輩たちは、南方の話を聞き流す能力に長けているらしい。僕も記憶のメモリーに留めないように務めた。
二河原の問題児。
その自由で奔放、破天荒な言動と名前をもじってついたあだ名が「二河原のナポレオン」。
だが、図書局でそのあだ名を呼ぶ者はいない。
彼らにとっては少々変わり者の友人でしかない。
「南方先輩」
「うん?」
南方の四方に跳ねた髪が、今日はカラフルなヘアピンでまとめられていた。
すでに日焼けしている健康的な肌に汗の粒が浮かんでいる。僕の言葉を待つ瞳は好奇心や相手への興味で輝いている。
破天荒な問題児。
それは学校という枠組みにおいて、規律からはみ出している一面に過ぎない。
制服から抜け出すと、大人びるものと幼くみえるものがいる。
年齢という指針にすぎないもので無理につけられた基準で一緒くたにされている日々が、歪なのだと実感する。
ひとつ年上の彼が、今日はまるで弟のように感じられた。
「探している本なんですが、」
手元で、ラムネ瓶のビー玉が転がる。
カラカラと軽い音が清涼感を演出して、肌にまとわりつく暑さが少しだけ涼しくなった思いがする。
喉の奥に残る甘さが、僕の考えを押し戻す。
「いつか、見つかるといいですね」
「うむ。トマも暇なときは手伝ってくれたまえ。見つかった暁には、皆であの素晴らしい一冊を読んで読書会を開くからな」
彼が本の中身を語る。
幻の本の正体は、将校が身分違いの恋愛をする超大作らしい。
革命前後のフランスが舞台になっているらしく、作者は不明。なんでも歴史に残る偉人が書いたという話だが、真意は不明。
歴史書にも残っていない作品で、実のところ、出版されているかどうかは南方も知らないらしい。
「そんな本、見つけるなんて不可能じゃないですか」
「でも、可能性はゼロではない。だろう?」
「……可能性もゼロだと思いますが」
「トマ、最初から諦めていては何も始まらないのだ。かつてあの市民から皇帝にになった男も言っただろう」
演説を始める南方の言葉を早速聞き流し、城之が突っかかって来るのを無視する。
安藤が皆から瓶を回収し、伊達が話題を逸らす。
馬場は手に入れたばかりの本に夢中で、三鷹は携帯電話に何やらメッセージを打ち込んでいた。例の彼女と連絡を取り合っているのかもしれない。
穏やかで平和な光景に、何故か僕は、胸がきゅうと締め付けられるような感覚を覚える。
友達だから付き合う。
三鷹の言葉が今さらながら腑に落ちる。
少なくとも、今日僕は足を運んだ甲斐があったらしい。
満足感にビー玉を揺らすと、城之に「にやけているぞ」とからかわれた。
古本市からの帰路、犬の散歩を不自然に避ける南方を発見し、また彼の一面を知ることになったのは、また別の機会に記す。
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