22 「男は歴史を読むものだ」



 初夏の風に誘われるように花が一斉に咲き乱れる頃。

 僕は先輩達に誘われて、休日に二河原にこうら高校がある矢車地区を訪れていた。


「おーす」

 伊達が軽く手をあげて挨拶をする。

 彼の長身と目をひく風貌は、どんな場所でも風景から浮き出ていた。

 彼が変だとか浮いているだとか、悪い意味ではない。

 高校生にしては洗礼されたいで立ちと、完璧なスタイル。

 彼の現実離れした美しさは平凡な日常の背景から切り離れていて、まるで主役のようにスポットライトを浴びているのだ。

 いつだってハンサムな先輩に駆け寄って、迎えに来てくれた礼を言う。

 伊達はほほ笑んでいるような口元に笑みをのせ「行くか」と短く告げた。



 僕が私立二河原高校に入学して、はやくも三か月が経とうとしていた。

 はじめは慣れないことも多かった電車通学も、二河原の雰囲気や古い校舎にも馴染んできたところだ。

 いくつかの学校行事を経て、僕にも友人と呼べる人間が増えてきた。

 有象無象の集団でしかなかったクラスメートの顔も覚え、関わりある教師たちとも人間関係を築き始めている。

 濃密な高校生活の三か月というのは、一年に相当するのではないか。

 まだ本格的な学習が始まったとは言い難いが、教科によっては入試まで使う知識の詰め込みが始まり、早くも教室内では実力の差ができ始めている。

 ませた生徒は授業料の多さや校則の厳しさに、もう退学したいなんてぼやいている。

 しかし、もともと二河原が志望校だった僕にとって、学校の真面目な気風に文句はなかった。

 一人で自習をしていても邪険にする空気はなく、「がり勉」は二河原では誉め言葉だ。

 勿論、陽気で勉学などは二の次と考えるような生徒は一定数存在したが、不真面目に見える生徒ほど成績は優秀なのが進学校のセオリーである。

 それに、充実している部活動があることは、僕にとって大きなことであった。


 今日の目的地は、二河原高校から歩いて十分ほどのところにある神社だ。

 そこでは、週末に古本市が開催されている。

 市内の古本屋協会が主催の硬派な催しで、二河原高校図書局員は市の常連客になっているようだ。

 矢車地区に住んでいる南方みなみがたが皆を誘い、図書局から数名の生徒が集まると聞いている。正式な図書局活動とは異なるが、本に関わることなら自然と集まってしまうのが図書局員というものだ。

 生まれも育ちもこの辺りだという伊達が道案内を買って出てくれ、この辺りには不案内な僕も無事に辿り着くことができそうだ。


 伊達は、地元を歩くには洒落た格好に見えた。

 というよりも、彼は平常時からこの調子なのかもしれない。学生服のときよりも髪型がしっくりきていて、普段の彼の方が仮初めの姿なのだと思い知らされる。

 休日に先輩と遊ぶ。僕が青春そのもののイベントに胸にを高鳴らせているのは、なんとなく秘めておくことにした。

 彼を追いかけ、学校へと向かう道とは異なる路地を進む。


 二河原高校図書局は、本を愛し、本を大事にする人間たちで構成されている。

 近隣の学校図書館と比べても圧倒的な蔵書数と種類の豊富さを誇る二河原高校図書館は、様々な分野の読書家を惹きつける魅力がある。

 唯一欠点があるとすれば、教室がある校舎と図書館の連絡が複雑で、多くの生徒にとって未知の場所として認識されていることだ。

 二河原の学生証があれば誰もが本を借りることができるのにも関わらず、在学中に一度も利用しないという生徒も珍しくはなかった。

 そんな中、毎日のように図書館に通い、あまつさえその運営に関わろうとする生徒は、二河原にとって異質と呼ぶことができるだろう。

 図書局員の活動は当然ながら無償で行われ、運動部のように成績を残したからと評価される瞬間も少ないし、感謝をされることもほとんどない。

 ならば何故、彼らは図書館に集まるのか。

 それは単に、本が好きで、本に囲まれているのが好きだからだ。



 しかし、学生というのは慢性的に金欠なものだ。

 年々上がる物価と共に、一冊の価格もあがっている。滅多に大規模な価格変更は行われない代わりに、基本的に価値が下がることはない。

 知的財産として当然とはいえ、学生が気軽に購入できるものではないのが書籍だった。

 古本が安いとは限らない。中には希少で、流通当時より価値が上がっているものも多い。だが、ある程度は廉価で本を手に入れるチャンスがあるのが古本市だ。

 僕に紙の本を買う習慣はないが、今日は気に入ったものがあれば数冊購入するつもりで足を運んだ。

 伊達に尋ねると、彼も目当てのものがいくつかあるらしい。普段は話題書ばかり読んでいる伊達も、コレクションしている書籍は存在するらしい。

 伊達は一足早いサンダルを鳴らしながら、角を曲がる。

 僕も彼に続くと、目の前に大きな鳥居があるのが見えた。

 学校と駅を往復しているときには、足を踏み入れない区画だ。

 僕は新鮮な光景に圧倒され、今日という特別な一日に胸を躍らせた。


 鳥居をくぐり、境内に入る。

 伊達は本殿には向かわず、すぐに左の路地に折れた。

 僕も一礼だけして彼に続く。お参りは今度放課後などに来ればいい。

「結構大きいんですね、この神社」

「そうだな。花見とか夏祭りとかしょっちゅうやってるし、ガキの頃は毎日のようにここで遊んでた」

 神社を中心に、この辺りは大きな公園になっているようだ。

 取り囲む背の高い木々が、街の喧騒を吸い込んでいるようだ。自然と人の手が入った痕跡が調和した空間は嘘のように静かだった。すぐ傍を走るはずの車の音も聞こえず、名もわからない鳥が頭上で囀る。

「お、いたな」

 ふいに先ほどと同じ様子で手を挙げた伊達は、一つの出店の前に固まる若者たちに声をかけた。

 こちらを振り返る顔を見て、ようやくその集団が見知った人たちであると気がついた。

 安藤の穏やかな顔。

 彼と話をしていたらしい三鷹の私服。

 ペットボトルを傾ける城之の姿。

 勢揃いしている図書局員は、木漏れ日が降りそそぐ屋外でも、どこか自然が似合わない空気を纏っている。

 予想はしていた光景だが、あまりにも予想通りで思わず笑いだしそうになった。僕は足元が気になるふりをして、顔を整えてから彼らに近づく。

「南方は?」

「寝坊。いつか来るだろ」

「椿くん、おはよう」

「おはようございます、安藤先輩。三鷹先輩も」

 時刻は、朝と呼ぶのには日が昇り過ぎていた。

 この挨拶は、すっかり僕にも定着した図書局の挨拶である。

 彼らは廂の広い出店を物色していたらしい。

 奥に腰かける店主が、金を持っていなさそうな高校生の集団を笑みで許容する。僕は気持ち頭を下げて、改めて周囲を見回した。



 二河原高校がある矢車地区は、市内でも再開発が盛んな土地だ。

 現代に入ってからの開拓の歴史を持つ市は、規則正しい碁盤の目や鉄道を中心にした街作りがされている。

 そんな中、比較的最近になって地下鉄が開通された矢車地区は、長く土地を余らせている辺境の地だったらしい。

 広く空いた土地を埋めるように、近年は新たな住宅地やマンションなどの建設が進んでいる。大型のショッピングセンターや、他の地区にはないアウトレットモールなどもオープンし、新たな買い物スポットとして紹介されることが多かった。

 学校やスポーツ施設も多い為、教育には最適の土地といえるだろう。

 一つ不満があるとすれば、大きな本屋が存在しないことだ。

 あるのはショッピングモールの小さな書籍売り場くらいで、目当ての本を買うためには矢車地区から離れる必要があった。

 つまり、この地区の人間にとって月に数度開催される古本市は、新たな本を手に入れる貴重な機会になるらしい。


 また、敷居の高い印象がある古書店が気軽に覗けるという意味で、本が好きな人間にとって注目度はそれなりに高い。

 梅園の敷地を使っているらしい会場には、年代様々な人間が歩いている。祭りの盛況とは言い難いが、高校生の集団が一つ紛れているくらいでは目立たない程度にはにぎわっているようだ。

 出店の前に並ぶ木箱を覗く。

 雑多なようでいて店主のこだわりが見えるラインナップは、未知の世界の入口のようだ。



 それらを熱心に覗き込んでいる青年がいることに、ようやく気がつく。

 軒先でしゃがみこむ後ろ姿は見間違いようもない。

 短い黒髪に、薄いがしっかりとした背中。薄いシャツが時折風を受け、風船のように広がっていた。

「薄着のジャンは久しぶりに見たな」

 伊達が独り言のように呟き、彼の傍に移動した。

 挨拶を言葉少なに交わし、伊達も馬場の横にしゃがんだ。

 背中を丸めて並ぶ姿は、兄弟のように自然である。

 二人が友人関係であることは知っていたが、図書業務以外で言葉を交わす姿は新鮮に映った。


 馬場は、つい数日前まで風邪に倒れていた。すっかり完治したのか、今日は珍しく薄着姿だ。

 サテン生地のゆるやかなシルエットのシャツは、馬場のひょりと高い背によく似合っている。

 陽光の下にいれば、彼もどこにでもいる高校生に見える。

 皆が型にはまる制服から抜け出すと、幼く見えるものと大人びるものがいる。

 城之は前者だったが、三鷹や伊達、馬場は完全に後者であった。

「椿くんが来るなら、一緒に来ればよかったね」

 この場で唯一の三年だけは、普段とあまり印象が変わらない笑みで言った。

 制服のときから薄着のイメージが強い安藤は、今日も白シャツ一枚の夏らしい恰好である。

「さっき、伊達先輩にも言われました。南方先輩が誘ってきたの、直前だったんで」

 安藤が住む場所と、僕の家はそう遠くない。

 どこかで待ち合わせをすれば、伊達の手を煩わせることもなかっただろう。

 だが、主催が南方ということもあって、今日の集まりは突如決まったものだった。体育祭の際に連絡先の交換をしていなければ、僕も誘われなかった可能性は高い。

 局長の気まぐれを責める者は、二河原高校図書局には存在しない。

 三鷹は「いつものことだ」と肩を竦め、安藤も穏やかにほほ笑むだけだ。

「城之のその荷物は?」

「買った」

「全部岩波文庫かい」

「南方さんが好きだから」

 言葉少ない同級生の反応は、いつだって言葉足らずだ。

 だが、ある程度の状況は推測できた。体育祭の一件から南方を崇拝している城之は、南方が推薦する本を片っ端から読んでいるらしい。

 彼の持つ紙袋には、年代様々な文庫本が詰め込まれてあった。覗くと「ポオルとヴィルジニイ」なんて古い作品も入っていて驚く。

 図書館では小さなウサギの物語を読んでいる印象が強いが、本当に読むつもりなのかと尋ねると、当然という顔をされた。

 認めたくはないが、城之はクラスでも成績がいい方だ。

 特に現国の成績が優秀だ。高校に入るまでは古典文学をよく好んでいたらしく、僕より知識が豊富な一面を覗かせることも多い。


 重たそうな荷物を持て余している彼を見かねて、古書店の店主が預かってくれると申し出てくれた。

 礼の言葉がおぼつかない城之に代わって頭を下げると、奇妙なことを言われた。

「君たち、今日も幻の本探しだろう。暑いから、倒れないように気をつけるんだよ」

「幻の本……?」

「そうか。まだ椿には説明してなかった」

 どうやら、二河原高校図書局員が市の常連になったのには、安価で本が手に入る以外の理由があるらしい。

 首を傾げた僕に、三鷹がはっとする。

 優しい先輩が説明をしようと僕を呼んだとき、梅園に溌溂とした声が響いた。



「皆の集、揃っているな」



 明朗快活、意気軒昂な声は、静けさと落ち着きが満ちる古本市には似つかわしいほど、気力に満ちていた。

 ラフなアロハシャツに、登山でもできそうなハーフパンツ。

 夏を先取りしたとも、衣替えに失敗したともいえそうな出で立ちの彼は、青年と呼ぶのには幼すぎる風貌だ。

 制服から抜け出すと、幼く見えるものと大人びるものがいる。彼は完全に前者であった。

「レオ、遅い」

 伊達が揶揄うように声を飛ばす。

 馬場が宝の山から目を逸らし、折り曲げていた膝を伸ばした。安藤がほほ笑み、三鷹は傍観の姿勢を取る。城之はしっぽを振らんばかりに駆け寄り、彼の遅い登場を歓迎した。


 南方怜音みなみがたれおん

 二河原高校図書局の、リーダーともいえる存在だ。

 彼はその場にいるだけで周囲の注目を集めるカリスマ的人物だった。

 遅刻をしてきたのに堂々としているのは、いつものことである。

 南方は鷹揚な足取りで皆に近づくと、遠方から出向いた安藤と僕に労いの言葉をかけた。


 二河原高校図書局は、何もかもが南方が中心に回っている。

 四月に南方に、加えて二河原高校図書局に出会った僕は、以来彼らを一種の研究対象のように扱ってきた。

 彼らは奇妙なつながりを持ち、同じ目的の為に集まった集団だ。

 生徒の自主性を重んじる二河原高校では、部活動を生徒が中心になって取り仕切る。


 中でも現在の図書局は局長である南方の考えで活動が左右され、皆が従う形で成り立っていた。

 幸い、南方怜音という人間は基本的に善良な人物だ。

 自分の気分で判断を鈍らせることは滅多になく、どんな時でも比較的温厚だ。

 声は大きいが独裁的すぎるわけでもなく、皆の意見も積極的に取り入れる姿勢を取る。

 図書局の活動内容は平坦で、日々の貸出業務さえ滞りなく進めば学内から文句を言われることもない。

 高文連の参加という目標は掲げているが、運動部のように活動が評価される機会もないに等しい。

 そんな環境で彼の破天荒さが目立つ場面は少なかった。


 しかし、数か月も同じ校舎にいれば、南方の噂は嫌でも耳につくようになった。

 なんでも彼は、生徒指導や学校運営に関わる教師たちから目をつけられている問題児らしい。


 授業は碌に聞いておらず、机の下で本を読んでいるか昼寝に使っている。

 そのわりに成績は優秀で、彼は二年の理系クラスで上位に入る秀才だ。

 極端に集団行動を嫌うところがあり、クラスで行う行事に協力する素振りを見せないらしい。

 悪く言われようが素知らぬ顔で、一年時に多くの人間と対立をしたようだ。

 彼の名前を聞くと不機嫌になる生徒も一定数存在し、図書館の利用率を下げている原因の一つといっても過言ではないという噂だ。

 協調性のなさは普段の生活にも現れていて、寝坊遅刻は当たり前の彼が一時間目から校舎にいることは少ない。

 課題は出さない。言うことは聞かない。説教をすれば理論的な反論が返ってくる。

 大人からすれば、彼は生意気で、扱いにくいことこの上ない生徒のようだ。

 彼が昨年起こした奇怪な行動は、伝説のように語り継がれ始めている。いつか二河原高校の七不思議にでもなりそうなエピソードは、僕でもまだ全てを把握しきれていなかった。


 だが、一歩図書館に足を踏み入れれば、南方は、言動が少々不可解な生徒の一人に過ぎなかった。

 先輩が多く在籍していたという昨年でも、彼が図書館で問題を起こした記録は残っていない。

 むしろ彼が残しているのは多くの功績で、その結果、二年から局長の座を得ている。


 司書教諭の平森が二河原高校で唯一南方を飼いならしていると称されている理由はそこにあるらしい。

 南方は、何故か平森の言うことだけはよく聞いた。

 彼の意見は全面的に賛同し、彼が指示したことは素直に取り入れる。彼を司書としても尊敬している姿は日頃の言動からも感じられて、よくあれこれ話し込んでいる光景を目にするものだ。

 彼に指導されれば普段の品行も良くなりそうだが、平森の生徒指導はしない姿勢が惜しまれる。


 図書局とはどんな協力も惜しまず、リーダーとして皆を導く姿には、指導者としての素質も感じられた。

 表と外のギャップの大きさに、僕はますます南方という人間に興味を惹かれていた。

 図書局員は、南方と同学年の者も多い。

 皆は彼の評判を知った上で、局内の様子も許容し、認めているのだ。

 彼らの関係にも、一言では片付かない部分が多いようだ。こうして休日に出向くのも、それらの関係を深く知るためだった。



 皆がそろっていることを確認した南方は、早速、今日の趣旨を説明した。

 とはいえ、それを知らないのは、市に初めて参加する城之と僕だけだ。

 南方はまず、後輩二人にメモを配った。

 南方の悪筆で書かれているのは、本のタイトルらしい単語と、簡単な表紙や内容の説明だった。

 この無数の本の山から、一冊の本を探すのが今日の任務らしい。

 南方が長年探し続けているもので、正確な出版社や発行日は不明。

 彼の記憶だけが頼りだが、大規模な古本市ならばどこかに紛れていてもおかしくないと考え、市が開かれるたびに探しているものらしい。

 先ほどの店主の言葉に合点がいく。

 しかし同時に湧き上がった疑問は、当然のもののはずだ。

「そんなの、店番をしている方に聞けば……」

「椿、いいんだよ」

 僕の意見を、安藤が遮った。

 思わず先輩を見上げると、彼はいつもの穏やかな顔のまま静かに自身の唇に触れた。いまは黙っていろ、という合図らしい。 

 南方はマイペースな様子で皆に激励を投げている。

 彼の言葉に従順に頷くのは城之だけで、他の皆も安藤同様話半分だ。

 珍しい光景に目を白黒させると、輪の向こうで三鷹が肩を竦めるのが見えた。


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