19 フォンテーヌブローへのお別れ
昼時、安藤の母親が人数分ゆでた素麺を持ってきてくれた。
安藤によく似た母親が、穏やかに歓迎してくれる。
いつになく照れくさそうな顔でそれを追いやる先輩の姿が新鮮だ。僕は光景を目に焼きつけながら、有難く色とりどりの素麺をいただく。
和室は昭和を思い起こさせるモダンな印象だったが、安藤が普段使っているらしい電子機器も多く転がっていた。
彼がノートパソコンでドラマを再生する。
なんとなく眺めていると、先に食べ終えた馬場がふいに佐羽を振り向いた。
「そういえば、聞いてみたかったんだけど」
「なに」
「まりえちゃんは南方のどこが好きなの」
直球すぎる質問に僕が咽ると、何故か僕が叱られた。
安藤が新しい麦茶を渡してくれる。優しい先輩はすぐにドラマの世界に戻って、こちらの会話には興味がなさそうだ。
尋ねられた佐羽は冷静に箸を置くと、いつものように静かな口調で答えた。
「強いて言えば、匂い」
「匂い?」
「あの人の傍にいると落ち着く。本当ならずっと傍にいたい。でもクラスも違うし、図書館に来るのもいつも遅いし、あの人にはいろんな世界がある」
ぽつぽつと語る台詞が、ドラマの情熱的なシーンとも重なる。
椿は知らなかったかもしれないと補足説明を受けたが、佐羽が南方を好いているのは公然の事実だ。一応合わせて驚いておくが、彼女に隠し立てする意思もないらしい。
図書局二年生唯一の女子生徒は、局長に恋をしている。
盲目的な感情は、彼女が彼を支持する理由となり、局内の活動を熟す目標になっている。
南方本人の感情はわからないが、佐羽の依怙贔屓は誰の目から見ても明らかだ。
美人の先輩がいて羨ましい。
いつかそんなことを呟いていた桶田の姿を思い出す。さすがにプライベートなことまでは言いふらすつもりはないため、似たような幻想を抱いている男子生徒は多いだろう。
彼らが、問題児で体育祭でも大コケを見せた小柄な男に負けていると気づいたとき、どのような反応をするのかは、密かに興味深い。
「匂いに惹かれるのは、遺伝子が異なる証拠のようだね。形が違う遺伝子同士は相性がいいんだ」
安藤がふいに口を挟んだ。
理系の彼らしい説明に佐羽が頬を緩めたが、次の瞬間には元の冷えた瞳に戻ってしまう。
「あの人にとっての私は落ち着く相手ではないかもしれない。南方くんは多分、私の匂いなんて気にも留めたことはないでしょう」
「言うだけ言ってみればいいのに」
「嫌。いまのままでいいの」
「拗らせてるなあ」
のんびりと言う馬場はまだ眠そうだ。
欠伸をした彼がそれ以上追及を重ねることなく、その話題は終わってしまう。
つるつると素麺をすする。
ドラマの中で一組のカップルが仲直りをしたようで、情熱的に流れる主題歌が物静かな人間が集まる部屋に響いた。
後日、昼休憩の貸し出し当番を熟していると、佐羽が横に腰かけた。
彼女は利用者が少ないことを確認すると、僕にぽつぽつと話を始めた。
なんでも、彼女は夢見が悪くて機嫌が悪いらしい。
夢の内容は奇妙で、どこか聞き覚えのあるようなものであった。
「南方くんが、そこで何かを言うの。でも、声は大勢の仲間たちに阻まれてよく聞こえない。私は一緒に連れて行ってほしくて前に出ようとするんだけど、走っても走っても辿り着けない」
なんでも、南方と別れを告げなければならない場面の夢だったようだ。
場所はどこかの広場で、他にも大勢の人間がいた。
南方は背の高い仲間たちに埋もれてよく見えず、佐羽は必死に彼に近づこうとした。
だが、見えたのは南方が優勝旗のようなものに口づける姿だけだったらしい。
「どうして私を連れて行ってくれなかったのかしら。それが悔しくて、今日は授業どころじゃない」
「授業は受けてください。というか、なんで僕にこんな話を?」
「悪夢は誰かに言うといいって言うでしょう」
彼女は珍しく八つ当たりのような口調で言い、そのままカウンターを出て行った。
返本を抱えて書架の方へ行く。
こんなときでも真面目に業務を熟すのは、もう忠誠というよりは呪いに近い。
「フォンテーヌブローの訣別、かな」
裏で話を聞いていたらしい。
こちらに顔を出した染屋が囁いて、横にいた安藤も頷く。
「バーネットの絵ですか」
「画家の名前までは知らないけど……、よく出てきたな」
「椿くんはたまに変なことに詳しいよね」
先輩に褒められて気を良くしていると、盛大にドアベルを鳴らして南方が現れた。
彼の爛々とした瞳には今日も無謀な思いつきが浮かんでいて、振り回されることになる図書局の面子は皆眉を顰める。
すぐに戻ってきた佐羽が彼について司書室に入り、いつものクールな口調で受け答えするのを聞く。
「まりえちゃんってたまに犬みたいで可愛いよね」
遅れて返本作業から戻ってきた馬場が、すれ違いざまに囁く。
思わず笑うと、何故か僕だけがうるさいと叱られた。
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