1章2話 最も大きな危険は勝利の瞬間にある

9 「すべて自然でないものは不完全である」




 多くの人々がナポレオンのことを乱暴で厳しく短気だと評している。

 また、ナポレオンは臆病で、自分の城から出るのもやっとだったなんて主張をする人間もいる。

 しかし、一介の砲兵中尉から偉大なるフランスの統治者となったこの人物に、勇気がなかったなどということはあり得ない。


「陛下、」

 私の呼びかけに、彼が振り返らないことはわかっていた。

 特に考え事に没頭している彼を呼び止められるのは、おかみさんくらいなのだろう。彼はどんなに深い思考に沈んでいても、愛するジョセフィーヌの声は聞き逃さない。

 いっそ、彼女の馬車で来ればよかった。

 溜息をつきながら、再度彼を呼ぶ。この際、多少の無礼などはお構いなしだ。


 数度目の呼びかけの後、彼がようやく顔をあげた。

 私をぼんやりと見上げながら、落ちくぼんだ目を瞬かせる。

 べっとりと雨に濡れた髪が顔に貼りついて、陰気で貧相な姿を際立たせていた。

 いつもの灰色のコートは濡れて異臭を放ち、ブーツは泥だらけで意味をなさない。

 大陸軍でも歩くのを嫌がりそうな天気の中、ナポレオンは夢の中にいたかのような顔で私を見上げた。

「ラップか」

「奥様が心配しておりました。今夜はもう帰宅されませんか」

「うむ。そうしようかとは思っていたが……、しかしな」

「考え事は風呂場でもできるでしょう。濡れネズミのようになっているところを国民に見つかりでもしたら、示しがつきません」

 夜ごと散歩を繰り返す彼は、パリにも大勢の敵がいるのにも関わらず最低限の従者しか傍につけない。

 その者たちすらも必要ないと考えている節があり、時折、追い払うように一人で群衆の中に消えてしまうことがあった。

 自分を殺そうとした男を自ら尋問する男だ。彼の勇敢さは疑いようもないが、部下たちは彼の狙撃の腕を信用していない。


 今日は、大雨の中、なかなか帰ろうとしない彼を心配して、従者の一人が私を探しに来た。

 私は彼の世話係ではない。だが、副官という立場はただの護衛よりは意見をしやすいと考えられているのだろう。

 それに、私はこれまでに二度、ナポレオンを暗殺から救っている。周りから信頼されているのは、素直に誇らしい。


 ひとまず、びしょぬれの彼に自分のコートを被せた。

 真っ先に匂いを嗅ぐのは無意識だろう。

 気に入らないものではなかったようだ。

 小男はすっぽりと私のコートに収まって、先ほどよりはまともな顔で降り続ける雨を仰いだ。

「こうして歩いていれば、ジャコバン党でも襲い掛かってくるかと思ったがな」

 つまらないジョークを漏らした彼は、そのまま黙ってしまった。

 

 きっとこの雨は、彼の涙の代わりなのだろう。

 フランスの皇帝として、国民や部下にめそめそした姿は見せられない。

 善良で寛大で、兵士一人ひとりの顔を名前を覚える姿は、イタリアで初めて顔を見たときから変わらない。

 私のような兵士一人にも気を配り、手を差し伸べる皆の「親父」が頼るのは、家族と己だけ。

 雨が止まないのも当然だ。

 彼の孤独は埋めようもないほど広がってしまった。


「帰りましょう。……あなたがここにいればルスタムも病気になってしまいます」

 お気に入りのボディーガードの名を出すと、ナポレオンの瞳に光が戻った。

 きょろきょろとあたりを見回し、溜息をつく。

 姿は見えない。

 だが、どんなに追い払われても、犬のようにどこかで見守っているのは間違いない。私は、彼以上に主人に忠実な男を知らない。


 多少は帰る気になったらしい上司の背中に、手で触れる。

 支えに余計な力が籠るのは、雨の所為にしてもらおう。


 いつかもし。

 私が無事に戦場を去る日が来るとしたら。


 それが、ナポレオン政権が終わりを告げる日なのか、フランスに平和が訪れる日なのかはわからない。

 老いて軍を去る日が来るかもしれないし、重症を負って軍を追い出される日が来るかもしれない。

 いつかもし、私が生きて戦場を去る日が来たとしたら、そのときは、私は彼の為に筆を執るだろう。

 書くのは勿論、従軍記と題した回顧録だ。

 ドゼーの元で戦場を知り、ナポレオンに拾われたイタリアのこと。

 ナポレオンの元で政治を学び、彼の仕事を手伝ったこと。彼と戦場で交わしたやり取り。暗殺者やコルシカの女との出来事。私の手痛い失敗や怪我のこと。書かなくてはならないことは山ほどある。


 私はきっとどのページにも、彼の暖かくて優しい姿を残すだろう。


 そう確信した夜の雨は、ひどく冷たく、私の肩を芯まで凍えさせた。





  ◇◇◇ それは不可能です、ナポレオン ◇◇◇





 五月の下旬。

 驚異の追い上げ、と表現するに相応しい早さで、春恒例の図書局展示は完成した。

 僕は傍観していただけではあったが、最後の飾りつけが完了したときはほっと胸を撫でおろしたものだ。間に合う、という言葉は間違っていなかったが、間に合わせたといっても嘘ではない。

 印刷したばかりの図書局便りも各教室に貼りだされ、来場者特典に惹かれた生徒が顔を出す。

 いつもとは異なる賑わいを見せた図書館に、僕は素直に驚いていた。

 僕の認識より、二河原高校図書局の存在は学校に根付いているらしい。


 春の展示は、新入生に図書局の蔵書を紹介することが目的だ。

 今年は誰にでも読みやすい、世界的に有名なうさぎの話がモチーフになっていた。

 作品は、図書館にも全集が置いてある。

 現在は展示の為に貸出禁止になっていたが、一話ごとが短いため、休み時間でも読むことができる。ガタイのいい高校生が手のひらサイズの本を順にめくっている図はおかしさがあったが、その手軽さも読書のきっかけにちょうどいいようだ。

 作者や物語の舞台の解説を、様々な生徒が読んでいく。

 展示の期間は、普段図書館には現れなさそうな教師もよく出入りするらしい。

 馬場はカーディガンを卒業し、南方も館内にいるときは大人しくブレザーを着こんでいた。


 来場特典は、誰にでも作れそうなラミノートの栞だった。案外、皆が喜んで持ち帰る。

「なかなかのものでしょう」

 僕の反応を見て、安藤がほほ笑む。

 皮肉屋を自称する僕も、これには素直に頷くしかなかった。


 今日は、僕がカウンター当番だった。

 貸し出し業務の合間に、安藤が作り足した栞にリボンを結ぶ。

 デザインが地味に数種類あって、図書局のマスコットキャラクターらしい脱力したうさぎの絵が可愛らしい。聞けば安藤の先輩が考案したものらしく、局員の誰よりも先輩のうさぎだ。

「先輩が一年の時といまは、図書局も全然違いますか」

「どうだろうね。まだ活動時間も長かったし、普通科の生徒ももっとたくさんいたから、活気はあったかもしれない。でも、何故か目立ちたがりが集まるのは変わらないよ」

「目立ちたがり、ですか」

「二高の三局と生徒会は花だから。椿くんもそのうちわかってくるよ」

 三年目の先輩が言う略称と、新入生がおずおずと使うものでは、馴染み方が違う。

 僕も二年後には、安藤のような落ち着きを持てるのだろうか。そんなことを夢想しながら、単純作業に没頭する。


 

 ふと、カウンターの前のソファー席に腰かける生徒が視界に入った。

 僕が図書館を訪れたときから、姿勢が変わらない。

 ピクリとも動かないのに、目だけはせわしなくページの上を彷徨っている。めくるペースは遅いが熟読をしているらしく、その集中力は僕でも敵いそうにない。

 彼の手元にあるのは、今回の展示のモチーフになった作品だ。

 城之は、激動の勧誘を受けてからずっとあの調子だ。

 彼は小さな野兎に夢中で、こちらが見ていることにも気がついていないらしい。


「あれから起きないね。丸善化現象」

 すっかり図書局で浸透した呼び名で安藤も囁く。

 先週、図書局を賑わせたミカンタワーのことだ。

 貸し出し処理を行っていない本がいつの間にか持ち出され、まるで挑発するように館外に積まれていた。頂点にはいつも小ぶりのミカンが置かれていたことから、有名文豪の作品になぞらえて局長が名づけたものである。

 偶然が重なり犯人らしき人間を突き止めることはできたが、事件の真相はいまだ謎である。

 当人が口を割らないのも理由の一つではあるが、一番は、その犯人を図書局に引き入れ、そのまま放置している局長が原因である。



 僕のクラスメートである城之修二は、剣道部の人間だ。

 二河原高校は兼部が許され、複数の部活、委員会に所属することは可能であった。

 しかし、二河原の運動部は厳しい。

 強豪校の名に恥じぬ、実力を伴った意識の高い運動部が多い。

 練習を休むことは許されず、他の部活に顔を出している暇は物理的にない。学業との三足の草鞋は誰の足にも余るだろう。

 二河原の剣道部は、未経験者には高い壁だ。

 自身の道具を所持し、基礎動作ができると認められて初めて入部ができるという噂がある。つまり、籍を置いているというだけで城之の実力がそれなりであることは予想がついた。


 僕はてっきり、城之は局長の誘いを断るだろうと思った。

 だが、あれから彼は毎日のように図書館に顔を出している。

 正式な入局届を出さないうちにカウンター業務を任せることはできないが、南方の指導により簡単な閉館作業や返本は少しずつできるようになっていた。



 本日水曜日は、教職員会議の日である。

 監視の顧問が不在となるため、どの部活動にとっても自由度が高い日だ。

 平森は剣道部の顧問と話をしてみると言っていた。

 城之がなんらかの理由で部活動を休んでいるのは明白の為、このままなし崩しになるのは二河原高校の制度にもそぐわない。

「局長は、何がしたいんでしょう」

「さあ。南方くんの考えは独特だから」

 今日はまだ、局長の姿を見ていない。

 三鷹は僕と入れ替わりに帰宅をし、当番ではない伊達が顔を見せることはない。

 佐羽はソファー席に陣取る城之を気味悪がって、書架の奥の方を整理している。時折彼女が本を並び替える音が響いて、ピークが過ぎた館内のちょっとした音楽のようになっている。

 司書室で仮眠をしている馬場は、今日の体育で体調を崩したらしい。

 ならば帰宅をすればいいと思ったが、放課後に予定があるらしく、自分の鞄を枕に眠っている。

 僕よりもリボン結びがうまい安藤は、自分のノルマを終わらせたようだ。

 不明本のリストを更新する作業に入った彼を邪魔しないように、僕も黙って手元に集中する。



 いつも通り、穏やかな時間が過ぎた閉館間際。

 会議から戻ってきた平森と、廊下で鉢合わせたという南方が、同時に図書館の扉を潜った。

 各々の作業を終え館内を清掃し始めていた僕たちは、彼らの報告に目を丸くすることになった。



作中引用:RAPP last victor (創元社「ナポレオンの生涯」の日本語訳を参考にさせていただきました)

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