8 図書局との出会い
四月。
憧れの二河原高校に入学した僕は、新しく始める生活に胸を高鳴らせていた。
中学の頃からこの学校に入ることは決めていた。
高校は、志望する大学に有利なことを条件にして選んだ。
義務教育とは違って、初めて自分自身で選ぶことになる学校だ。
悩みに悩み、通学時間や授業料などを天秤にかけ、両親や中学の教師を巻き込んで選びぬいた場所である。期待をしない方が損だし、決定には自分なりに責任を持つつもりだった。
しかし、周囲の反応は、憧れた学校に足を踏み入れたという浮かれたものばかりではなかった。
入学式に初めて校舎を見た両親は、設備の古さに絶句していた。
周囲の生徒は、制服が気に入らないだの、五階まであがるのが面倒だの、別の学校に入りたかっただのと不満が多い。
市内では、私立高校は公立高校の滑り止めという意味が大きい。希望の学校に入れず、仕方がなく二河原を選んだ者も多いのだろう。普通科の生徒なら部活を理由に進学した者もいるはずだが、進学科でやる気に満ちている生徒はごくわずからしい。
僕は、若干興が冷めるような思いだった。
せっかく憧れた場所に来たのだ。僕一人でも充実した日々は過ごすことができる。
野心を隠して周囲に溶け込みながらも、僕は熱いほどの情熱をもって、確かに予想していたよりは古い校舎に通う決意をした。
その日は、上級生による部活動紹介が行われた。
それまで姿を現すことがなかった先輩の姿に、冷めかけていた熱があがる。
並ぶ一年の肩越しに見える先輩たちは、誰もが大人びて見えた。部活のユニフォームを着て待機している者も多く、覗く腕や足の太さに惚れ惚れとした。
僕はここで、嘘を書いたことを謝罪しなければならない。
椿斗真は、本当は、二河原高校では部活動に専念するつもりだったのである。
何もしないまま三年間を過ごすのはもったいない。
僕は中学時代、部活には恵まれなかった。結局途中で退部して、面白くもなんともない文化部に入りなおしたが、成果らしきものは何一つ残っていない。
そんな苦い経験は僕の中で重く残り、なんとか名誉挽回の気持ちで高校に入学したのである。
だが、いざ蓋を開けると、二河原高校の部活動は本格的だった。
配られた冊子に、これまでの大会受賞歴が並ぶ。
自身の部活を紹介する部員たちは誰もが熱意に満ち、実際のプレーを見せるパフォーマンスはどれも迫力があった。
生半可な気持ちで入れる部活ではない。
そう息をのんだ怯えが確信に変わったのは、野球部の発表になった時だった。
隣に座っていた男子生徒が、ふいに立ち上がった。
幾人かの生徒がそれに続く。
彼らは戸惑う一年の列を抜け、発表があるステージの前に整列をした。
ステージ上にユニフォームを着た生徒が出てくる。
瞬間、整列した一年生たちは一斉に頭を下げた。それは紛れもなくすでに出来上がった主従関係だった。
「なにあれ、やば」
「推薦の生徒でしょ。春休みから部活に参加してるんだって」
「部員募集って言っても、いまからのこのこ入るのきつくね」
周囲の生徒が、ひそひそと話す。
僕は膝を握りしめたまま、彼らが活動内容を語るのを必死に耳を傾けた。
だが、内心は爆発しそうなほど、羞恥に震えていた。
僕は、野球部に入るつもりだった。
だが、すでに志が同じ人間は無数にいて、すでに彼らは活動をし始めているのだ。
碌に内容が頭に入らないまま、野球部の番は終了した。
その後、テニス、剣道、柔道と続いたが、僕は絶望の味をかみしめるのに精いっぱいで、碌に前を見ていなかった。
戻ってきた野球部員の生徒が、つまらなそうに欠伸をする。
それにすらいら立って、僕はこのまま体育館を飛び出したい衝動に耐えていた。
部活動に入るのはやめだ。
ある程度の運動部の発表が終わったとき、僕の心はもう決まっていた。
学業に専念して、いい大学に入る。
二河原高校は部活動も盛んだが、本来は数多くの生徒を有名大学へ入学させた進学校である。成績や素行によっては推薦入学の可能性も広いのも、私立高校の利点である。
そう決めてしまうと、この時間は全て無駄なものに思えた。
僕は本の一つも持たずに来たことを後悔し、ならば居眠りでもしようかと腕を組んだ。
そんなとき、彼らは僕の前に現れた。
「次は図書局の皆さんです」
放送局の司会が告げる。
数名の生徒がステージ上に登場した。男子の黒いズボンが目立つ中、女子生徒が一人いるのが印象的だった。
最後に登場した生徒は、自分の背丈ほどの何かを押して運んできた。
二人がかりで中央に運ばれたそれは「本」に見えた。
思わず目を凝らして、表紙に書かれた文字を読む。
子供のようなひらがなで書かれていたのは、彼らが所属する局の名のようだ。
頭を下げた生徒たちは、何も言わない。観衆がざわつき始めているのも構わず、彼らは顔を合わせて合図を出した。
巨大な本が、開かれる。
途端、中から何かが飛び出して、大きな声をあげた。
「諸君、入学おめでとう」
それは一人の男子生徒だった。
彼が満面の笑みでいい放つと、一年生に向かって両手を大きく広げた。
「二河原高校へようこそ。私は、君たちを歓迎しよう」
思わず聞き入ってしまうような声で、男は自身の活動を語った。
簡潔にまとめられた内容は、誰が聞いてもわかりやすい。そもそも語られた内容は、中学までの委員会とさほど変わらないように思えた。
壇上に並ぶ生徒が唯一マイクを握る男子生徒を補佐する。内容よりもその息の合った動きに目がいった。
いまは空になった巨大な本は、ステージの奥に片付けられている。なんのためにあんな演出をしたのかはわからないが、印象深いのは確かである。
「新一年生諸君。汝らの員数は少なくない」
説明を終えた男は、改めて前に出た。
いまや体育館にいる全員が彼の声を、挙動を、注視していた。
異質だ。
僕は、ふと思う。
制服に身を纏いこの学校内にいるからには、彼も平凡な高校生に過ぎない。僕より一年か二年先に生まれただけの子供だ。
なのに、彼は違う。
この空間の誰とも似ていない、誰とも同じではない異質。
そう思わせる何かを、彼は持っていた。
男の声は、わずかに震えていた。
だが、堂々とした笑みでそれを隠している。
よく通る声で語られた演説は、僕の何もかもを変えてしまう、そんな力を持っていた。
「そして汝らは孰れも皆勇士である。孰れも受験勉強を経験し、孰れも入学試験を乗り越えた者である。最早汝らは、自らの地位を擁護するべき時ではない。新たな地へ踏み入れ、新たな挑戦をするべき春である。過去の経験や知識は関係ない。この三年間、いくらでも学ぶ時間はある」
一度息を吸い込んだ男は、得意げに口角をあげた。
「更なる高みを、更なる可能性を追い求めたい者を、図書局は歓迎する。入局希望者は気軽に声をかけるがいい」
あのときと同じ空気を、爆弾犯を見下ろす南方に抱く。
僕が息を呑んで見守る内に、二年の生徒が転がる男を立ち上がらせた。真新しい制服はネクタイの色を確認するまでもない。
僕は、彼が顔をあげてこちらに見せた表情に、拍子抜けする。
まだ出逢って一ヶ月ほどだし、これまであまり接点はなかった。曖昧な記憶をたぐり、先日の昼休みに黒板で見た文字と一致する。
「『城之修二』くん」
「椿、知り合い?」
「クラスメートです。剣道部で、体育祭委員の」
彼がこちらを見て怪訝な顔をする。記憶が曖昧なのは向こうも同じようだ。名札をつけない二河原の生徒は、相手の名前を知りたければ親しくなるしか方法がない。
「剣道部員を転ばしてしまったのですね。ごめんなさい」
「遠藤くん、この子はどこから来た?」
「図書館の階段からですよ。脇目も降らず走ってて、掲示を見ていた僕にぶつかってきたんです」
佐羽の呼びかけに、ピンと来る。
彼が、先ほどの会議でも名前があがった南方の友人だ。
遠藤武はひょろりと背は高くガタイもいいが、スポーツとは無縁のおだやかな先輩だ。
本は南方の影響で読むようになったらしい。
毎年の読書量名誉勲章の候補生だと聞いていて、確かに図書館でよく見る顔である。
「図書局は会議中じゃなかったのかい」
「会議は終わった」
「そうかい。僕は新しい本を借りに来たんだ」
偶然居合わせた彼は、逃げ出した生徒を図らずとも足止めする役目を負ってくれたようだ。
感謝をする局員に彼は首を傾げながら、図書館への階段を昇っていった。
残された城之は、まだ僕の名を思い出せないようだ。
自己紹介をしても「覚えてない」と言われた。クラスメートのよしみなどは消え失せる。
「辞書泥棒。それにこのミカン。城之くん、君が連日の丸善化現象の犯人だな」
「丸善?」
「『そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう』君はあの有名な作品を模して僕たちをからかっていたんだ」
僕は、何も言わない南方の代わりに指摘をする。
床に落ちていた城之の物と思われるバッグからは、数冊の辞書が零れ落ちていた。
ファスナーが開いたバッグからは網に包まれたミカンも見える。教科書や筆記用具の類は持ち歩いていないのか、中身はそれだけのようだ。
辞書を一冊拾い上げる。
図書館の蔵書である証のラベルシールは、簡単にはがせないようになっている。その実、ブッカーの切れ端を貼っているだけなのだが、使っていればすぐに盗品だとバレてしまうだろう。
つまり、彼は辞書が必要になって持ち出したのではない。
ただ本の形であればよかったのだ。そんな推測を裏付けるように、馬場が拾い上げた他の辞書には同じ用途のものが二冊あった。
安藤が彼から荷物を引き受ける。
蔵書が戻ってくればいいと繰り返す先輩は、確保した盗品をしっかり抱えると先に図書館に戻っていった。
「さっきから、あんたら何を言ってるんだ」
ぼんやりとしていた城之が、口を出す。
変声期もとっくに過ぎたはずなのに、ザラついた声だ。
後尾が震えるのは癖か、生まれつきか。聞くものを不安にさせる話し方に、ふと、先日のホームルームの様子を思い出す。
体育祭は、クラスや個人の競技だけではなく、部活動ごとに出場する競技もあるらしい。
部活に入っている生徒は忙しくなるだろうから、委員はやらなくていい。
そんなことを言った教師に、帰宅部の生徒たちがブーイングをした。当然だ。彼らは委員会活動などで放課後を潰したくないから帰宅部なのだ。
そんなとき、ふと、城之が手をあげた。
自分なら大丈夫だから。そんなことを言って、彼はクラスの役目を引き受けたのだった。
思えば、現在は部活動の時間のはずだ。
剣道部の彼が制服姿で図書館にいるのはおかしい。
「君、図書館では辞書の貸し出しができないことを知っていたかね」
南方が尋ねる。
城之は自分より背の低い南方を見て、ネクタイのあたりに視線を這わせたあと、気まずそうに首を横に振った。
「図書館の本を借りるのには、カウンターで手続きが必要なことは?」
次は馬場が尋ねた。この質問にも首を振ったクラスメートは、授業中に寝ていることが多いようだ。
「じゃあ、辞書を大量に持って走り出したのは何故」
「……なんか、後ろからすげえ足音が聞こえたから」
「ジャンがすぐ追いかけたからな。反射的に逃げ出してしまったと」
佐羽の問いかけには声を出した城之は、対峙する三人が先輩であることを急に思い出したかのようにそわそわし始める。
最終的に僕で視線を止めた彼は、何かを思い出したかのように目を見開いた。
「お前、桶田の隣の席の奴だ」
「……はい。桶田の隣の椿ですが」
「いつも授業中にノートに何か書いてるよな。あれ、俺の席から丸見え」
場にそぐわないことを言いだした城之は、一人でケラケラと笑いだした。内職をしているのは図星なので、僕は先輩たちの視線に気がつかないふりをする。
佐羽と馬場が、顔を見合わせて肩を竦める。
神妙な顔を崩さない南方が、小さく唸りながら腕を組む。
安藤に事情を聴いたらしい平森が降りてきて、奇妙な沈黙を作る四人と、何やらツボに入っている一年を見て目を丸くした。
平森は、今回のことだけで城之を責めるのは不可能だと言った。
たまたま辞書が必要だったのかもしれないし、図書館の仕組みを理解していなかったのならしょうがない。
温和で生徒指導はしないと決めている教師は、不服そうな副局長と書記を諭し、まだ状況を飲み込めてなさそうな一年にも笑みを見せた。
「俺……、」
流石に、怒られる状況であることは理解したのだろうか。
温和な司書教諭の前では大人しくなった彼は、言い訳のようなものを口に出す。
だが、それを止めたのは南方の大きな声でした。
「先生。この二河原高校図書局の今年の目標をお忘れですか」
可能性を育む挑戦と努力。
先日、僕が書いた文章はまだ一語一句間違えずに言える。
現状不可能とされる高文連での結果を残すため二河原高校図書局として相応しい行動と、より生徒の読書を推進する活動をする。
そのために必要な努力を繰り返し、過去にとらわれない革新的な挑戦をする。
生徒会へ提出した資料はコピーが取られ、司書室の資料に加えられた。
局員は毎年変わるが、図書局としての活動はそうして記録されていく。そう思うと、僕たちがここにいた証のようで少し誇らしい。
最優秀賞をとった先輩たちも、同じ気持ちになっただろう。
同じ制服を着て、同じ場所に毎日集った人が過去にも大勢いる。僕の知らない歴史がこれまでもこれからも、この二河原高校図書館では刻まれていく。
ひとつ言えるのは、その中でも南方の存在は、確実に大きなものであるということだ。
歴代の局長に引けを取らない行動力と、リーダーシップを持つ男。
小柄なナポレオンはふいに満面の笑みを浮かべると、困惑している一年を見上げて手を伸ばした。
「君、私と一緒に不可能なんてものはないことを証明しよう。さあ、君も今日から二河原高校の図書局員だ」
作中引用:
梶井基次郎「檸檬」
越嶺 訳「ナポレオン戦争演説」 東洋軍に對する演説より
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます