2 会議は踊る
「それは、不可能だ」
冷静に告げられた声に、皆が凍り付くのがわかった。
時刻は午後四時過ぎ。
すっかり芽吹いた桜の香りが、僅かに開いた窓から漂う。
まだ、暑さを感じる季節ではない。夜は冬が残るように凍えることもあるし、日光が出ていても暖かいとは限らない。北国の春とはそういうもので、制服の厚手の上着が有難い。
とはいえ、五月の風は心地がいいものだ。
空気が籠りがちな空間は、人が集まる前に窓を開けることになっていた。小さな隙間が室内の埃を攪拌し、新鮮な酸素となって頬を撫でる。
長く座っている所為か、足下は冷え始めていた。
まだ堅い上靴の中で、僕は指を折り曲げる。
床のリノリウムと底面のゴムが擦れて高い音が鳴るが、誰も気にかける様子はない。
ここは、私立二河原高校図書館。
貸出カウンターの奥、司書室と呼ばれる空間は、二河原高校図書局にとって部室のようなものである。
生徒の活動が主体の私立二河原高校では、図書局は、放送、吹奏楽局と並んで、学校運営に携わる重要な機関であった。
放送局は、集会等の進行や昼の放送を自主的に指揮する。
吹奏楽局は全校応援や式典などでの演奏を行い、入学式や卒業式などの行事がある際は公欠が認められる。
図書局の仕事は日々の図書館運営と、読書活動への呼びかけだ。三局の中では目立たず活動内容も地味ではあったが、若者の読書離れなんて言われている現代では欠かせない存在であることに間違いない。
今日は、生徒会に提出する活動目標と年間スケジュールの為の図書局会議の日であった。
各局や各部活動の運営は、生徒会がとりまとめることになっている。彼らに活動を承認され、初めて様々な行動が可能になるのだ。
二河原高校の生徒会は、教師陣からも信頼が厚い。
彼らが中心になって各局や部活動を指揮することで、自主性と規律が生まれ、個人で考える力と責任感が育まれると考えられているようだ。
僕は入学して間もない一年だが、すでに彼らの存在は肌で感じる部分が多い。
教師のいいなりだった中学校までの義務教育よりも、自由度が高い。その分要求されるものも大きく、個々の行動が全体の評価に関わることも多い。
そんな二河原高校を「自由」と感じるか「窮屈」と捉えるか。
二者がぼんやりと分けられる五月の風は、いまのところ、僕にとっては心地のいいものだった。
図書局会議は、毎週月曜日に開催される。僕にとっては最初の会議である。
会議自体、議題がなくて数分で解散することもあれば、今日のように全員の意見が必要なときもあるらしい。
年間スケジュールは、すぐに案がまとまった。学校が決めた年間行事が変わらない以上、図書局も従わざるを得ない。年間計画を提出するのは形のものに過ぎないと書記をする佐羽も言う。
議題が活動目標に移ると、それまで大人しかった男子生徒が立ち上がった。
彼は小柄で、制服の肩が微妙に合っていない。それを本人も気にしてか、夏服の時期でなくてもブレザーを脱いでいる姿が印象的だ。
まだ肌寒いワイシャツ姿はまぶしいが、ネクタイがいつも曲がっているところが惜しい。
有体に言えば、だらしがない。
それでも彼の声が力強く、内に秘められた情熱はこの場にいる誰よりも強かった。
彼が提示した目標は、大きかった。
僕がその規模を考えるより前に、他の局員が目を丸くしたことから察しがつく。実現不可能というよりも、考えたことがない。そんな反応だ。
これは、また始まる。
僕がそう思うのと、冷たい否定の声が聞こえたのは、ほとんど同時だったと思う。
「何もしないうちに、不可能だとでも言うつもりか」
「野望を抱くのはいいが、いまは今年度の目標を立てている。現実的で、かつ、実現可能なものを提示してくれ」
「応えになってないぞ、ジャン。お前は何もせずとも先が見えるというのか」
二人の声に、皆が凍り付く。
意見が真っ向対立している二人はこの空間のトップと補佐、つまり局長と副局長だ。
彼らの争いには、誰も口を挟めない。
否、挟まないと表現する方が正しいのだろうか。
僕の隣で佐羽が溜息をつき、向かいに座る三鷹が作業机に頬杖をついた。机の上にはブッカーがまだ貼られていない本が積まれ、僕たち人間の方が肩身が狭い。
二河原高校の図書館は、蔵書数が豊富だ。
バラエティーにもとんだラインナップは周囲の公立高校からも羨ましがられるほどだ。
通常の学校図書室にあるような「健全」な本ばかりではなく、近頃は「ライトノベル」と呼ばれる文庫本も幅広く取り入れている。
同じくらい揃えられた筑摩文庫の文豪全集。
話題になったエッセイ本。ちょっとマニアックな専門書や歴史書。自分では買わないようなオカルト本も揃っていて、次に読むものには困らない。
映画化した人気本は二冊入れてもあっという間に予約で埋まり、数年前から実験的に置くようになった赤本は棚に留まっていることの方が少ない。
専任の司書教諭がいる私立高校は、予算の使い方に関しては自由度が高いのだ。実際、それらの試みのおかげで年々図書館の利用数は増えているという。
だが、その分管理と掃除を任されている図書局員の仕事は増える。
今日は、会議が終わったら書架清掃を行う予定だった。
伊達がちらりと腕時計を確認する。
気持ちはわかると思わず頷くと、会議が苦手だという先輩は、僕にだけ見えるように小さくウインクをしてみせた。
「わざわざ言う必要があるか。俺達のような弱小図書局が高文連で最優秀校になるなんて、不可能だ」
局長と対峙する副局長は、名前を馬場という。
ジャンという呼び名もあだ名ではない。彼の本名だというそれの由来を後輩である僕が知っているのは、先ほどから大声で反論している男が話してくれたのだ。
馬場は、局長の鬼気迫る勢いにも表情一つ変えない。
春だというのにまだ制服の下に厚手のカーディガンを着ている。
袖から覗かせたそれを気にするような素振りは、この状況を何とも思っていないのが見て取れる。
対する局長は、今にも噛みつかんばかりに身を乗り出した。
「だから、不可能を可能にしてみせようと言っている」
「じゃあ、具体的な計画があるのか。今年、うちは当番校でもなんでもない。高文連のテーマが発表されるのは開催の数か月前。いまから出来る対策があるとすれば、他校を圧倒させるような企画や展示の実績を積むことくらいだ。それでも、最優秀校は当番校の活動に与えられることが多い。主催を買収でもしない限り無理だ」
「ジャン。俺は、お前のその物言いが気に入らない」
「事実を言っている。対するお前のそれは理想と夢物語だ」
「夢を語って何が悪い。何でも初めから無理だ不可能だと決めつけるのは間違っている。我が校の理念を忘れたのか」
すっかり怒りに顔を赤くした男が言う。
大声に図書館と司書室を区切るガラスがビリビリと揺れた。防音カーテンが声までは響かせないようが、書架を利用している生徒の存在を完全に忘れている。生徒会が見たら呆れることだろう。
彼はこの空間のトップだ。
だが、怒りに我を忘れた様子は、きゃんきゃんと誰にでも喚き散らす小型犬のようだった。
南方怜音。
二河原高校図書局の現局長は、少々激高しやすく頑固なところがある。
その上、野心家で夢見がち。
性格や風貌、そして特徴的な名前からもじって、付いたあだ名が「二河原のナポレオン」だ。
かつて、ヨーロッパ中を巻き込み戦争を起こした皇帝になぞられ、あまり良い印象で語られることの少ない男は、これでも立派な図書局長なのである。
彼は、従順な腹心であるはずの副局長をギロリと睨みつける。
乱暴に座りなおしたと思うと、資料を取り上げる。
丁寧にファイリングされたそれは、過去の活動内容らしい。ぺらぺらとめくったかと思うと、あるページを机に広げる。
昨年、生徒会に提出した目標のコピーのようだ。
中央の枠内にはうまいとは言えない文字で完結な目標が記されている。
『二河原高校図書館の知名度を上げる』
「二河原高校図書局は、確かに弱小だ。高文連で優秀賞を獲ったのは遠い昔。局員は少なく、大半が我々二学年。活動時間も年々制限されていて、こうして放課後に全員揃うことも少ない。しかし、だからこそ柔軟な発想や活動が可能なのだ」
ふと、図書館へ続く階段下に位置する掲示板の存在を思い出す。
二河原高校は地域で屈指の進学校だが、校舎が古いことが難点であった。
元は男子校だったこともあり、共学になった際に改築と増築をしている。旧校舎に新校舎が新たにくっついた形となり、図書館も新校舎に位置している。
そのため、図書館に向かうためには旧校舎から伸びた通路を曲がり、奥まった廊下を進んで更に階段を上る必要があるのだ。
そのため、読書に興味がない生徒は図書館の行き方すら知らない、という現象が発生する。あまりにも奥まっている所為で立ち入り禁止区域を思われている節もあり、何も知らない生徒の密会に出くわしてしまうこともあると聞いた。
それを改善したのが、掲示板の存在だ。
元は何もなかった廊下に掲示板を作り、図書館だよりや企画を掲載するようになったのは去年からだと聞いている。南方が始めた取り組みのようで、来館数は着実に上がった。去年の記録を見てもそれは明らかで、目標は達成したと言えるだろう。
功績が認められた南方は、一年の後期から局長を任されている。
任期二回目となる現在、彼が大仕事に張り切る理由もわからなくはない。
「あの掲示板は良かったからねえ」
ふと、それまで黙っていた安藤が口を挟んだ。
にこやかな笑みを崩さない男は、この場で唯一の三年だ。
以前は複数人いたという先輩も、学業を理由に次々と局を抜けてしまったらしい。三局も扱いは部活動と一緒だから、兼部や休部も本人の自由だ。
彼は南方が一年ながら活躍した過去を知っている。
やりたいように任せる姿勢には余裕があって、対峙する南方の熱もうまく冷ます。
「そう。今年は昨年の実績を超えなくてはならない。ありきたりでいつもと同じでは叶わないのだ。常に挑戦をし続けなければ前には進めない」
資料を閉じた南方が、ふいにこちらを向いた。
「なあ、トマ。君はこの図書局期待のルーキーだ。昨年の私のように画期的で挑戦的なアイディアはあるだろうか。どんなに無謀だ理想論だと罵られても信じて続ければ芽が出ると昨年の私が証明している。私は君の斬新な案を歓迎するぞ」
「え、ええと、急に言われても」
「南方。椿が困っている」
助け船を出してくれた三鷹を振り返ると、彼は手元で別のことを始めていた。
彼が編んでいるのはミサンガだ。
ミサンガとビーズ細工は秋に行われる学校祭のバザーで出品するものらしい。
図書局は毎年学校祭で古本市を行う。
そのおまけとして販売するもののようだが、意外にも売れ行きが悪くないらしい。
改めて見れば、紅一点の佐羽は机の下で携帯電話を操作していた。
話し合いに参加する様子のない伊達は椅子の上で居眠りの姿勢で、馬場は相変わらず周囲に感心のない瞳を続けている。安藤はにこやかだが、肝心な意見を出さないのは少ない経験で知っていた。
「散々理想を語っておいて、後輩に投げるのか」
僕が考えあぐんでいるうちに、馬場が地雷を踏む。
「私は常識に捉われない柔軟な目線が欲しいと言っているのだ。不可能だからと野望を捨てたわけではない」
「なんでもいいけど、いまはお前のポエムを聞く時間じゃない。不毛な話し合いはさっさと終わらせて次の議題に行こうと言っているんだ」
馬場がさした水に今度こそ我慢ならなかったらしく、小柄な男が立ち上がる。
勘違いしないでほしいのは、二河原高校図書局が決して険悪な仲というわけでないということである。
むしろ、休み時間や放課後を削ってまで集まることを厭わない面子が揃っているのだ。
三局は学校生活に不可欠だ。
それは人数がどんなに少なくとも、活動範囲が変わらないことを意味する。
花形の生徒会や吹奏楽局は毎年人気だが、地味な図書局は毎年入局数が少ない。現在二年のメンバーも、幾人かが辞めてしまった状態のようだ。
昨年卒業した先輩が元気で力があったというから、彼らには大きな穴が見えているのだろう。その分の団結力は僕の目から見ても固い。
中でも、去年の後期から局長と副局長を務める南方と馬場は、根が似ているのだろう。
真面目で図書局の活動が好きで、一生懸命。
表に出るところが少ないが、毎日図書館に通う馬場は、この場の誰よりも局活動を熟している。
だからこそぶつかるのだ。
要は頑固者が揃った図書局はいつも些細な言い争いを繰り返しながら日々の活動をしている。
南方と馬場。
その他、魅力と謎を秘めた図書局員の人柄に魅入られた僕は、もう彼らの物語からは逃れられない。
腹をくくって手をあげる。
二人が言い争いをやめて、同時にこちらを振り返った。
「トマ、発言があるのだな。君の画期的なアイディアを聞こうじゃないか」
「先輩に遠慮することはない。自由に発言しろ」
真直ぐな視線を二人分受ける。
目が潰れそうだ。
僕はそんなことを思いながら、おずおずと口を開いた。
「……いっそ、『不可能を可能に変える努力をする』が目標でいいんじゃないですか」
このとき、無意識に瞼を閉じていた所為で、二人がどんな顔をしたのかは見ていない。
だが、会議が始まった時よりも空気が凍り付いたのはわかった。
春風が通り過ぎる司書室の外で、誰かが談笑する声が微かに聞こえる。
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