1章1話 そんな言葉はフランス語にはない

1 「そんな言葉はフランス語にはない」



 マイク越しの声は、微かに震えている。

 だが、男は堂々とした笑みでそれを隠していた。

 注目が集まる。

 突如現れた「異質」にざわついていた群衆も、静まり返り始めていた。思わず聞き入ってしまうような声で、男は語る。

「新一年生諸君。汝らの員数は少なくない」

 いまや体育館にいる全員が彼の声を、挙動を、注視していた。

「そして汝らは孰れも皆勇士である。孰れも受験勉強を経験し、孰れも入学試験を乗り越えた者である。最早汝らは、自らの地位を擁護するべき時ではない。新たな地へ踏み入れ、新たな挑戦をするべき春である。過去の経験や知識は関係ない。この三年間、いくらでも学ぶ時間はある」

 一度息を吸い込んだ男は、得意げに口角をあげた。

「更なる高みを、更なる可能性を追い求めたい者を、図書局は歓迎する。入局希望者は気軽に声をかけるがいい」

 最後の一音が、体育館に反響する。

 最初に手を叩いたのは、隅に待機している教師陣だった。

 遅れて新一年生が、我に返ったような疎らな拍手をする。

 一礼をした局員たちが舞台上を片付けてはけていく。

 最後尾を担う男は小柄で、他の局員と比べても背が低い。

 そんなことにも今更気がつくほど、彼の存在感は大きかった。

 不思議な人だ。

 拍手に紛れてついたため息は、羨望や圧巻という言葉とは少し異なるものから湧き出たものだ。

 敢えて当てはめるのならば、興味。

 それは、まだ内容を知らない本の一ページを開く時と似ている。


 この物語は、そんな僕の興味と小柄な「ナポレオン」の言わば従軍記である。



 ◇◇◇ それは不可能です、ナポレオン ◇◇◇



 軍事計画を立てるのは、大抵、軍で一番心地のいいテントの中である。

 たき火は明々と燃やされ、ゆったりと座り勝手のいい椅子がいくつも並べられる。ランプの横には大きな地図と様々な道具。オードブルやワインも並んで、すぐそこで野営する兵士の声が聞こえなければフランスの宮殿にいるのではないかと錯覚してしまうほどである。

 夜はすっかり更けていた。

 敵軍は、撤退したらしい。夜襲をかけてくる様子もない。

 今夜はぐっすりと眠ることが出来そうだ。しかし、長ったるしい会議が終わるのを待たなくてはならない。

 私は後ろで組んだ腕に力を込めて、こみ上げてきたあくびをかみ殺す。

 テントの隅で待機する副官のことなど誰も注視していない。

 だが、そういった誰も気がつかないことに気がつくのが、我々の上司である。

「不可能だと」

 中央で、大きな声が響く。

 どんな爆撃が響く戦場でも明瞭に届く声だ。

 彼の出世には、その大きな声とよく回る舌が理由であると軍ではよく言われている。

 半分がやっかみ、半分が事実だろう。

 いざというときの決断力は、少なくともこのフランス軍で、彼が一番持っていると言える。

 怒鳴られたヌーシャテル公が、肩を縮ませながらも何かを進言する。

 怯えた様子でいながら意見をはっきり言う男は、彼にエジプト遠征から仕えている。癇癪を起こした彼を宥めるのもいつも彼か私の役目であった。時には周囲が怯え蒼白になるような場面であっても、反対意見ははっきりと口にする。

「ええ、陛下。これは不可能と言わざるを得ません。第一、この策を実行しうる兵士がおりません。皆連日の進軍で疲れていますし、けが人も多い。それに、馬をこの高台に運ぶなどフランス中の若者を集めたって三日はかかります」

「ならば、集めるがいい。これはフランスの明暗を分ける戦いなのだぞ」

「今からなんて、とてもじゃないですが無理です」

「無理だの、不可能だの、言わせておけば先程から」

 男が、グラスを乱暴に置く。サヴァリが反射のようにワインを追加して、男はまた水のように飲みほした。

 地図を囲む男は、数人。

 彼と言い争うベルティエの横には、先程から黙っているミュラと、成り行きを見守っている様子のネイがいる。

 男の横にはぴたりとサヴァリが付き添い、まるでクーデターでも恐れる様な形相で護衛の姿勢を保っている。

 その他数名の将軍とその副官が、不安そうな顔や面白がるような顔を隠さずに並んでいる。

 こういった場面で必ず呼ばれたジュノーは、もう軍にはいない。

 ランヌが奥の椅子でため息をつき、自分にもワインを要求した。


 この場にいる多くの人間の考えはわかっている。早くベッドに入って、ゆっくり眠りたい、だ。

 勿論、明日からの戦局を決める軍事会議は重要だ。しかし、ベルティエの言葉通り兵士は皆疲れている。

 彼らを馬上で指揮する将軍達も言うまでもない。

 消耗戦となった日々は、どんな戦場を潜り抜けてきた歴代の勇者達の神経をもすり減らした。

 相手は、自国から毎日届く物資で士気も高い。新しい武器や薬莢も豊富に持つ。

 一方我々は、退路も立たれ前にも後ろにも動けない。

 明日の食事すら不安が残り、いつ奇襲をかけられてもおかしくない。そんな状況で士気を保つことは難しく、脱走兵が出ているという報告もあった。

 しかし、この戦地における最高指揮官でフランスの皇帝でもあるナポレオンは、戦えと言う。

 男は戦地を駆け回って乱れた髪をそのままに、退屈げに腰掛ける男達をぐるりと見回した。

「不可能とは、フランス的ではない。私の辞書に不可能の文字はない」

 大きな声で放った言葉が、後の世まで語り継がれることになることを、この場にいた誰もがいまは知らなかった。

「成し遂げるのだ。フランスの勝利と名誉の為に」

 力強いその声と、ぎらぎらと光る瞳。

 彼の副官となってしばらくが経つ。だが私は、いつまでも彼の瞳が見据える場所を知らない。


 ただ付いていくだけだ。

 腰のサーベルに誓ったあの日から、私の心は変わらない。

 背中で組んだ手を堅く握る。そっと閉じた瞼の裏に見えるイタリアの景色は、いまも色鮮やかなままだ。


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