第一章 旧大名深水家の鷹①

 明治五年の春は暖かかった。

 東京青あおやまにある、ひろおか藩四十万石の藩主であったふか家の下屋敷。一万坪を超えるその敷地に建つ奥御殿に、正室とお子様方の住まう奥方がある。そのいつかくにあるお居間に続くお次の間で、侍女のはあくびをかみ殺していた。

 春の日差しが広縁にふりそそぎ、お居間の端に座るじようろうとよかわののんびりとした声が眠気をさそう。上臈とは、大名家の奥御殿につかえる最高の位である。

 豊河は先ほどから、数日前の三月十日(旧暦)より湯島聖堂で開かれている博覧会の話を、広縁に座る人物へ向かって延々としていた。

 政府は全国より収集した絵画・書跡・さん・金工品などの美術品や古物旧物を、博覧会と銘打ち湯島聖堂に陳列したのだった。これらの中にはとくがわ家、旧大名家からの献納、寄託の品々もふくまれている。深水家からも掛け軸を寄託した。珍しい品々を集めた博覧会は注目を集め、連日大勢の人がつめかけ大盛況だった。

 昨日には、天皇陛下が行幸され、それに伴い公家や旧大名家の要人も招待された。もちろんこの深水家の当主のみちたけも招かれ、参加した。通武がのる馬車を、騎乗した羽織袴はかま姿の侍従たちが隊列を組み警護し、その後ろからにのった侍女たちが付き従い屋敷を出発した。それはそれは華々しい行列であったと、留守をまかされた豊河は自慢げに説明する。

 しかし、話を向けられている当の本人は興味がないのか、広縁に広げた一尺(約三十センチ)四方の、文字や絵がぎっしり書き込まれた紙から顔を上げず、生返事を繰り返している。その様子に豊河は肩を落とし、白いものがまじり始めるかたはずしに結った頭を、後ろへ向けた。

「佳代、そなたは昨日お供をして博覧会へ参ったであろう。どんな様子であったか説明しておくれ」

 だが、佳代は豊河に話しかけられているのに気づかず、いっこうに返事をしない。

「佳代、聞いているのですか。佳代!」

「へっ? は、は、はいいい!」

 春の陽気にさそわれ、半ば意識を飛ばしていた佳代はあわてふためいて、我に返った。

「もう、何をボーッとしているのですか。ただでさえ子だぬきみたいな、のんきな顔なのに。はやく昨日の博覧会の話をしておくれ。わたくしとゆきさまは赴いていないのですからね。ねえ雪さま」

 そう呼ばれた人物は、まだ顔を上げず熱心に紙を眺めている。豊河はもう返事を期待するのをあきらめ、再び佳代に話をせっついた。

「いろいろなものが展示されておりましたが、一番興味を引かれましたのは書画のたぐいです。特に西洋画はみごとでございました」

 佳代は下っ端の侍女らしく簡潔に、無駄なことを言わず、慎ましい受け答えをする。しかし、頭の中は昨日見たみごとな西洋画で頭がいっぱいになっていた。

 ああ、早く部屋に戻って西洋画の模写の続きをしたいな。昨日はこっそり夜遅くまで描いていたけど、完成できなかったし。

 だが豊河は佳代の説明では物足りなかったのか、絵に意識を飛ばしている佳代へまた聞く。

「我が深水家が寄託した、いえやす公愛鳥の鷹の掛け軸はどうでした? どこに飾られていましたか」

 佳代は、あわてて返答する。

「は、はい、こちらもたしかに飾られていました。大成殿を入って正面から見て右手の黒ぬりの壁に掛けられておりました」

「まあ、そんな晴れがましいところに。なんとまあ名誉なことですねえ」

 もろを挙げて喜ぶ豊河を見て、佳代の口もだんだん滑らかになっていく。

「そうなんです。すごく目立つところに掛かってたんです。それはまあ鷹がすばらしく、いまにも飛び立ちそうな迫力でした。さすが、もとは将軍家のものにございます。そんな見事な絵を見て、うきうきと大成殿から出ますと、今度は大きな金のシャチホコに目をうばわれて――」

「まあ、シャチホコですか」

 豊河が前のめりに食いついてきて、佳代の調子はいよいよ上がってくる。あいの地に碁盤格子のお仕着せのえり元を正し、つつじ色の帯をポンとひとつたたいて胸を張った。

「ええ、大成殿の前に大きな大きな金のシャチホコが、ガラスの箱に入っておかれていたのでございますよ。尾張~名古屋は~城でも~つう~、のあの名古屋城のシャチホコですよ。すごいでしょう」

 音頭の節までつけて楽し気に語りおえてから、豊河のあっけにとられた顔に気づき、佳代は肝を冷やす。

 しまった。やってしまった。侍女は主人のおそばにはべるといっても、気安く口を聞いてはならないのに。

 分を超えて調子にのってしまったと、佳代は桃割れに結った頭をしおしおと深くたれた。

 コホンとひとつせきばらいが聞こえて、佳代はそろそろと顔を上げる。

 豊河はおしろいのぬられた白い鼻からあきれたように息を吐き出したが、意外にも佳代をとがめることはなかった。

「しかし、金のシャチホコとは巨大なものでしょう。それがどうしてガラスの箱に入るのですか。だってガラスとは馬車の窓にはまっている大きさでしょう。佳代の申すことはさっぱり頭に浮かびませぬ。ねえ、雪さま」

 再三名を呼ばれてもその人は、相変わらず豊河の声など耳に入っていないようだ。

「もう、聞いておられますか? 雪さま」

 しつこい豊河の呼びかけに応えて、ようやく「雪さま」は顔を上げた。

 その名の通り、雪のように白いおもてに、目尻の上がったふたかわ(二重)。美しい弓なりのまゆに、うっすらと赤みをおびた唇は、きりりと閉じられている。花も恥じらう数えで十七の姫君。美しく整ったようぼうは、化粧をほどこしていなくても華やかだが……。

 豊河が雪さまと呼ぶゆきひめの風貌は、大名家の姫君とはことのほか違っていた。ゆたかな黒髪は姫君らしい吹輪の型には結われておらず、前髪を眉のあたりで切りそろえ、後ろ髪は高くひとつに束ねられている。その毛先はまるで馬のしっぽのように肩のあたりにたれ下がっていて、女武芸者のような勇ましい髪型だ。

 着ているものといえば、生地こそしようけんだが、紫の地に幅のちがうたてじま模様の質素なそでだ。唯一艶あでやかなのは、銀糸でししゆうされた花柄の紋のみ。さらに、その渋い小袖のすそを引きずらず、町娘のように短く着つけている。

 佳代が屋敷へ奉公にあがったばかりの頃、この珍奇な雪姫の姿には度肝をぬかれた。雪姫いわく、「髪を結うと痛くて頭がまわらん。打掛や振袖なんぞ窮屈でかなわん」とのことだ。

 雪姫は、ちらりと豊河を横目で見ると、ついに口を開いた。

「ガラスの板を何枚もつなげてあるのだろう。ちょっと考えたらわかること」

 そっけなくそれだけ言うと、再びうつむいてしまう。佳代がつられてその視線の先を追うと、雪姫が先ほどから熱心に見ていたのは新聞だった。

 明治になり、多くの新聞が発行されるようになった。政府の動向などを中心に書かれた文字ばかりの新聞と、にしきえが全面に描かれ、文字の少ない庶民の娯楽向けの錦絵新聞。雪姫の手元には、そのふたつの新聞が広げられていた。その新聞は、佳代の実家であるおおがき屋の奉公人が、三日に一度、ようかんとともに届けてくれるものだった。

 以前、佳代の実家からの荷物にたまたままぎれていた新聞を雪姫が見つけ、たいそう気に入った。佳代はそのことを大垣屋の主人である父に伝え、それ以来、新聞を届けてもらうようにしたのだ。侍女といっても気がまわらないたちで、あまり役に立てていない佳代だが、少しでも雪姫のために何かできたらという思いからだった。羊羹は、甘いものが好きな佳代に、と母が入れてくれていた。

 ほんばしにある大垣屋は、呉服を商う東京でも指折りのおおだなで、そこの娘である佳代は、いわゆるお嬢さまである。そんな佳代が旧大名屋敷へ奉公にあがるわけは、嫁入り前の行儀見習いのためだった。

 佳代は五人兄弟の真ん中で、上に姉兄、下に弟妹がいる。器量のよい姉は早々に縁談が決まり、嫁いでいった。姉と違い奉公に出た佳代を、母はいたく心配していた。

 しかし、どこそこの大名家の奥勤めにあがっていたというとはくがつき、良い縁談に恵まれやすいのだ。

 明治四年の廃藩置県により、藩主をおり知藩事という役職についていた旧大名たちは、その役職を解かれ東京へ強制的に移住させられた。元広岡藩主、深水通武もその例に漏れず、妻子と数多あまたの従者とともに広岡よりここ青山の下屋敷に移り住んでいた。

 この屋敷の奥勤めを始めて三か月。数えで十五になる佳代は、着々と箔をつけている最中である。

「ガラスをつなげるとはどういうことですか。佳代や、もっとくわしく教えておくれ」

 雪姫の簡潔すぎる説明では、豊河は理解できなかったようだ。

「えっとですね、ガラスの板を木枠にはめたものでシャチホコのぐるりを覆って、上は板で屋根がいてあったのです」

 佳代が代わりに説明してみたものの、そのつたなさに豊河はまだわからぬと言って首をひねっている。豊河は位こそ高いが、存外気さくな人柄だ。佳代はついつい口が軽くなって、さらに説明しようと口を開きかける。だがその時、雪姫が新たに言葉を発した。

「そうか、こっちの新聞にも絵を入れれば、よりわかりやすいではないか。なるほど」

「なんのお話です?」

 豊河は、なにやらひとりで納得している雪姫の手元に目をやる。

「こちらの新聞には『聖上行幸を仰ぐ』という見だしで、昨日の博覧会への行幸のようすを報じている。しかし、事実の説明ばかりで絵がない」

 雪姫は、びっしりと文字で黒く埋まっている方の新聞を指してから、こんどは手にしていた錦絵新聞を佳代たちに見せる。そこにはふたりの男が血に染まる刀を振り上げ天を仰ぐ、鬼気迫る場面が紙面いっぱいに描かれていた。文字は絵の余白部分に書かれている。

「一方、錦絵新聞はえちであったあだうちを報じている。たぶんに誇張がふくまれているだろうが、絵を見ただけでどういう記事かがわかる。すなわち、こちらの文字だけの新聞にも、小さくとも絵を入れればよりわかりやすいだろうということだ」

 雪姫がとうとうと述べる主張を聞いて、佳代はガラスの箱を説明するよい手立てを思いつき、とっさにたもとから帳面と矢立を出そうとした。だが、すぐに思いとどまる。

 だめだめ、絵は描いてはならないと父さまにきつく言われているのだから。でも、もしここで金のシャチホコが入っていた箱を描いたら、豊河さまも喜ぶだろうし、ひょっとしたら姫さまもほめてくださるかもしれない……。

 あるじである雪姫にほめられる自分の姿を思い浮かべると、うれしさに自然と顔がゆるむ。しかし、父の言いつけを破るわけにもいかず、佳代が頭の中でぐるぐる迷っていると、廊下からけたたましい足音が聞こえてきた。

「大変でございます、大変でございます。雪姫さまはいずこでございますか!」

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