姫君と侍女 明治東京なぞとき主従

伊勢村朱音/角川文庫 キャラクター文芸

序章


 その日、かんだみようじんの境内に咲く桜は、盛りをすぎていた。春なのに冷たい風が吹き、辺りに花吹雪が舞う。しんすけは、小さな手でひろった桜の枝を握りしめ、ごしようはるといっしょに境内を目的もなく歩いていた。だがふと足をとめ、腕を伸ばし春馬の着物のそでを引っぱる。

 もうすぐ元服を迎える春馬は体格もよくせいかんな顔つきをしていて、まだ数えで七つの真之介が見上げるほどに大きい。春馬は真之介が生まれてから、ずっとそばにつかえている。

「どこぞ別のところに行きたい。母上につき合って、花見なぞつまらん。せっかく窮屈な御殿から出られたのに。最近はみな落ち着かず息がつまる」

 真之介の小さな唇からこぼれた愚痴を、春馬は生真面目な顔をしてなだめるでもなくいさめる。

「真之介さま、お母上さまは、花見に来られたのではありません。世の安泰を祈願されるためでございます」

 神田明神はの総鎮守として人々に崇敬されており、この日も花見客だけでなく、熱心に何かを祈る人の姿も多かった。

 今より十年ほど前、幕府は黒船来航による外圧に屈し、約二百年続いた鎖国をといて開国した。それに対して、異人を追い払えというじよういの風が吹き荒れた。弱腰の幕府と攘夷を唱える浪士たちの間では、いままさにれつな闘争が繰り広げられている。

「それというのも先の冬にはさかしたもんで老中のつしまのかみさまが襲撃されて――」

 春馬はふと口をつぐみしゃがみ込むと、うなだれる真之介の顔をのぞき込む。

「大丈夫ですよ。幕閣には西さいはんはりまのかみさまがいらっしゃいます。きっと異人を追い出し、もとの平和な世に戻してくださいます」

 真之介は、退屈ではあるけれど平穏な日々はずっと続くのだと信じたかった。しかし幼いながらも敏感に、ここ最近の世の乱れを感じ取り不安を覚えていた。

 だが、春馬の口から切れ者と名高い播磨守の名前が出て、真之介はすこし安心してその顔を見返す。

「そうだな。なんといっても播磨守さまは、我が家とはしんせき筋。頼もしいお方だ」

 そう気を取り直したところで、いいことを思いついた。

「そうだ、しまの聖堂に行きたい。こうさまにも異人退治をお願いしたらどうであろう」

 神田明神そばにある湯島聖堂には、孔子の像がまつられている。散りゆく桜を見ながら母を待つより、幕府の最高学府である湯島聖堂を見学した方が断然おもしろい。

 最近論語を習い始め、あっという間に覚えてしまった真之介はそう思った。

 日頃から熱心に論語をそらんじる若君をそばで見ている春馬は、心得たようにうっすら笑みを浮かべると、真之介をそこで待たせて大人たちに何かを告げて戻って来た。

「さっ、お許しをいただいてきました。参りましょう」

 ふたりは神田明神をあとにし、連れ立ってしようへいざかをくだっていく。壮麗なぎようこうもんから中へ入り、さらに敷地内の二つの門をぬけると、石畳の前庭の奥に巨大なたいせい殿でんが姿を現した。孔子像が祀られている大成殿めがけて、真之介は一直線にかけて行く。

「広いのお、大きいのお」

 すでに大成殿の入り口の扉が閉まっているためか、他に物見客はおらず、真之介のはしゃぐ声が、誰もいない前庭に響きわたる。

 大成殿前につくと、真之介は扉上部の明かり取りの格子めがけて、ぴょんぴょん跳び始めた。なんとかそこから中の孔子像をひと目拝もうと思うが、背丈の小さな真之介にはなかなか見えない。すると見かねた春馬が後ろから抱き上げてくれた。

 真之介の目の前に格子窓がせまり、期待に胸をふくらませて中をのぞき込む。だがやがて力のぬけた声でおろしてくれと言うと、むくれた顔で春馬を見上げた。

「暗くて、ちっとも見えん」

「それは、残念。違う場所からのぞいてみましょう」

 身をかがめ、もう一度抱き上げようとする春馬の腕から、するりと逃げ出す。

「もうよい。結局、明神さまや孔子さまにお願いしても異人は追い出せん。追い出すには、自分で強うならねば。強うなって異人を切り捨ててやる」

 真之介は威勢のいいことを言い、刀を振るうように、桜の枝を振りまわし始めた。すると突然春馬が叫ぶ。

「若君の後ろに異人が立っております!」

 思わず枝を放り投げて、真之介は春馬の薄墨色のはかまの腰にしがみついた。恐る恐る、春馬が見ている方向へ目を向けると、異人どころか誰も立っていない。

「嘘をついたな。主人をだますなぞ切腹ものぞ」

 春馬は、カンカンに怒って背中をぽかぽかと殴る真之介へ向きなおり、厳しくさとす。

「真之介さまは切り捨てるとおっしゃいましたが、鉄の船でやって来たものに、刀でどうやって太刀打ちできるというのです。相手は大砲を持っているのですよ」

 その言葉に真之介は殴るのをやめ、ならばどうすればよいとまゆじりを下げて問うた。

「敵をしりぞけるには、まず相手を知らねばなりません」

「言葉も通じない相手をどうやって知るのだ」

 首をかしげる真之介に、春馬はさらに真剣な顔で言う。

「そのための学問です。幕府は、洋学が学べる学問所をつくりました。ぼう様も異人にいいようにされないよう、いろいろお考えなのです」

 真之介はその言葉に、素直にうなずく。

「そうか、みな異人のことを知らぬから恐れておるのだな。言葉が通じ、相手が何を考えているかがわかれば、怖くない」

「そうです、わからなければ学べばよいのです。でも、学ぶだけではいけません」

 ここまで言った春馬の言葉の先を取り上げて真之介は、

「学んで思わざればすなわちくらし。思うて学ばざれば則ちあやうし」

 と、得意げに論語をそらんじた。

「その通りです。学んだ知識をどうかせばよいか思考することが大事なのです。そうすれば、異人にも負けず対等な立場になれるというもの」

「なるほど。それに言葉を学べば異人の国に行っても苦労せんな。海をわたった国には珍しいものがあるというぞ。なんでも鉄の塊が、ものすごい速さで走るとか。この眼で見てみたいのお」

 真之介は白くかすむ春の空を、目を細めて仰ぎ見たが、すぐに肩を落とした。

「しかし、御殿の奥に暮らす身では、異国へ行くなど無理な話だ」

 春馬は真之介のきやしやな肩に励ますように手をおき、孔子の言葉を引いて言った。

今汝なんじかぎれり。自分の力を見限って、あきらめてはなりません。学び続ければ、かならず道が開ける時は来ます」

 そう力強く言い切り、さきほど石畳に落とした桜の枝に目をやる。枝をひろい、真之介へわたすと、今度は優しい声で言った。

「さあ、桜は私の家の家紋です。粗末にしないでください。桜は武家にとってあまり好かれない家紋ですが」

 春馬の言葉に、真之介は不思議そうな顔をした。その幼い様子に、春馬は笑みを浮かべる。

「桜はすぐに散ってしまい、はかなくて縁起が悪いと言われていますからね。でも私は、美しい盛りに散る桜の潔さが好きなのです」

 春馬の言葉をかき消すように、ひときわ強い風が大成殿の石畳の上を吹きぬけた。するとどこからともなく、はらはらと天から数枚の桜の花びらが舞い降りてきた。

 真之介は手のひらを大きく広げ、落ちてくる桜の花びらを受けとめたのだった。


 幕末、日本中で吹き荒れた動乱の嵐はすぎさり、やがてめいという新しい世が幕をあける。真之介が桜の花びらを握ってから十年後、己の運命に何が立ちはだかるか、まだ知るよしもなかった。

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