姫君と侍女 明治東京なぞとき主従
伊勢村朱音/角川文庫 キャラクター文芸
序章
その日、
もうすぐ元服を迎える春馬は体格もよく
「どこぞ別のところに行きたい。母上につき合って、花見なぞつまらん。せっかく窮屈な御殿から出られたのに。最近はみな落ち着かず息がつまる」
真之介の小さな唇からこぼれた愚痴を、春馬は生真面目な顔をしてなだめるでもなくいさめる。
「真之介さま、お母上さまは、花見に来られたのではありません。世の安泰を祈願されるためでございます」
神田明神は
今より十年ほど前、幕府は黒船来航による外圧に屈し、約二百年続いた鎖国をといて開国した。それに対して、異人を追い払えという
「それというのも先の冬には
春馬はふと口をつぐみしゃがみ込むと、うなだれる真之介の顔をのぞき込む。
「大丈夫ですよ。幕閣には
真之介は、退屈ではあるけれど平穏な日々はずっと続くのだと信じたかった。しかし幼いながらも敏感に、ここ最近の世の乱れを感じ取り不安を覚えていた。
だが、春馬の口から切れ者と名高い播磨守の名前が出て、真之介はすこし安心してその顔を見返す。
「そうだな。なんといっても播磨守さまは、我が家とは
そう気を取り直したところで、いいことを思いついた。
「そうだ、
神田明神そばにある湯島聖堂には、孔子の像が
最近論語を習い始め、あっという間に覚えてしまった真之介はそう思った。
日頃から熱心に論語をそらんじる若君をそばで見ている春馬は、心得たようにうっすら笑みを浮かべると、真之介をそこで待たせて大人たちに何かを告げて戻って来た。
「さっ、お許しをいただいてきました。参りましょう」
ふたりは神田明神をあとにし、連れ立って
「広いのお、大きいのお」
すでに大成殿の入り口の扉が閉まっているためか、他に物見客はおらず、真之介のはしゃぐ声が、誰もいない前庭に響きわたる。
大成殿前につくと、真之介は扉上部の明かり取りの格子めがけて、ぴょんぴょん跳び始めた。なんとかそこから中の孔子像をひと目拝もうと思うが、背丈の小さな真之介にはなかなか見えない。すると見かねた春馬が後ろから抱き上げてくれた。
真之介の目の前に格子窓がせまり、期待に胸をふくらませて中をのぞき込む。だがやがて力のぬけた声でおろしてくれと言うと、むくれた顔で春馬を見上げた。
「暗くて、ちっとも見えん」
「それは、残念。違う場所からのぞいてみましょう」
身をかがめ、もう一度抱き上げようとする春馬の腕から、するりと逃げ出す。
「もうよい。結局、明神さまや孔子さまにお願いしても異人は追い出せん。追い出すには、自分で強うならねば。強うなって異人を切り捨ててやる」
真之介は威勢のいいことを言い、刀を振るうように、桜の枝を振りまわし始めた。すると突然春馬が叫ぶ。
「若君の後ろに異人が立っております!」
思わず枝を放り投げて、真之介は春馬の薄墨色の
「嘘をついたな。主人をだますなぞ切腹ものぞ」
春馬は、カンカンに怒って背中をぽかぽかと殴る真之介へ向きなおり、厳しくさとす。
「真之介さまは切り捨てるとおっしゃいましたが、鉄の船でやって来たものに、刀でどうやって太刀打ちできるというのです。相手は大砲を持っているのですよ」
その言葉に真之介は殴るのをやめ、ならばどうすればよいと
「敵をしりぞけるには、まず相手を知らねばなりません」
「言葉も通じない相手をどうやって知るのだ」
首をかしげる真之介に、春馬はさらに真剣な顔で言う。
「そのための学問です。幕府は、洋学が学べる学問所をつくりました。
真之介はその言葉に、素直にうなずく。
「そうか、みな異人のことを知らぬから恐れておるのだな。言葉が通じ、相手が何を考えているかがわかれば、怖くない」
「そうです、わからなければ学べばよいのです。でも、学ぶだけではいけません」
ここまで言った春馬の言葉の先を取り上げて真之介は、
「学んで思わざれば
と、得意げに論語をそらんじた。
「その通りです。学んだ知識をどう
「なるほど。それに言葉を学べば異人の国に行っても苦労せんな。海をわたった国には珍しいものがあるというぞ。なんでも鉄の塊が、ものすごい速さで走るとか。この眼で見てみたいのお」
真之介は白くかすむ春の空を、目を細めて仰ぎ見たが、すぐに肩を落とした。
「しかし、御殿の奥に暮らす身では、異国へ行くなど無理な話だ」
春馬は真之介の
「
そう力強く言い切り、さきほど石畳に落とした桜の枝に目をやる。枝をひろい、真之介へわたすと、今度は優しい声で言った。
「さあ、桜は私の家の家紋です。粗末にしないでください。桜は武家にとってあまり好かれない家紋ですが」
春馬の言葉に、真之介は不思議そうな顔をした。その幼い様子に、春馬は笑みを浮かべる。
「桜はすぐに散ってしまい、はかなくて縁起が悪いと言われていますからね。でも私は、美しい盛りに散る桜の潔さが好きなのです」
春馬の言葉をかき消すように、ひときわ強い風が大成殿の石畳の上を吹きぬけた。するとどこからともなく、はらはらと天から数枚の桜の花びらが舞い降りてきた。
真之介は手のひらを大きく広げ、落ちてくる桜の花びらを受けとめたのだった。
幕末、日本中で吹き荒れた動乱の嵐はすぎさり、やがて
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