第一章 旧大名深水家の鷹②
騒々しい声とともに小走りで現れたのは、雪姫の義母の奥方付きの侍女だった。奥方さまから、急ぎ雪姫を連れてくるよう言われてきたのだという。
雪姫はそれを聞くと、その侍女のみを従え、ひとりお居間を出て行った。部屋に残った佳代は、広縁におかれた新聞をひろいながら豊河に
「あのお、あたしも姫さまに付き従わなくてもよかったでしょうか」
佳代もあわてて付いていこうとしたが、雪姫に制されてしまったのだ。
「かまいません。雪さまは大勢人がおるところは苦手。奥方さまのそばには、たくさんの侍女が侍っていますからね。ひとりでも少ない方がよいのでしょう」
対して雪姫付きの侍女は、
「あの様子だと、奥方さまは何か雪さまにご相談されたいことができたのでしょう。継母とはいえ、どちらが母親かわかりませんね」
豊河には珍しく、ちくりと嫌味を言う。
「まあ、それも無理もないかもしれませんね。
そうため息をつくと、新芽が芽吹き出した庭の梅の木へ視線をうつし、ぼそりとつぶやいた。
「いまだに雪さまにとって、めったに顔を合わせぬお
奥方付きの侍女が雪姫の到着を告げると、貴子の居室のふすまはするりと音もなく開いた。上座には、貴子が侍女たちを従えて座っている。友禅染の小袖に、金糸をたっぷり織り込んだ帯をしめた、旧大名家の正室にふさわしい装いだ。
中へ入り、雪姫が下座にしかれた座布団へ腰をおろすと同時に、甲高い公家言葉が耳へ流れ込む。
「どないしたらよろしい? 雪さん。殿さんもいらしゃらへんのに、政府の役人が来たよって」
久しぶりに会うという義娘への
「おたたさま、落ち着いて何があったのか説明してください。それだけでは皆目わかりませぬ」
貴子は源氏物語に出てきそうなふくふくしい
その話によると、ちょうど
だが運悪く、通武は用事で朝早く広岡へ出立したばかり。
家令の
「で、役人は何の用事なのですか」
雪姫は端的に
「それがようわからんよって。昨日殿さんがいらしゃった博覧会の話らしいけど、奥へ知らせに来た侍女は、とにかく洋装姿の役人にふるえ上がってしもて」
文明開化によって何かと西洋風がもてはやされているが、実際のところまだまだ洋装は珍しい。その上にそろいの姿で大挙して来られては、見慣れぬものには恐怖の一言に尽きる。
「そろいの洋装とは、ポリスか――」
雪姫は思案するようにぼそりとこぼすと、今度はきっぱりした口調で言った。
「では
虎丸とは、通武と貴子の間に生まれた深水家の世継ぎだ。
「虎丸はまだ、三つやよって。そんな無茶やわ」
「では、おたたさまが」
雪姫の突き放すような言葉にもめげず、貴子は言いつのる。
「いやや。また、無茶をゆわれるかもしれへん。今回の博覧会も、最初は我が家の刀、
貴子はだんだん興奮してきたのか、ただでさえ高い声がさらに高くなり、雪姫は耳をふさぎたくなった。
「なんや、ほかの大名家にもおんなじことゆうてまわったみたいやけど、どこのお家もしぶったらしいわ。そりゃ刀はお武家さんにとったら美術品やのうて、大事な大事な魂や。しかもいくら貸すだけゆうたかて、一度貸したもんはめったに返ってこおへん。それが世の常とゆうもんどす。そやから、殿さんが刀の代わりに家康公の
雪姫もこのいきさつは聞いていた。博覧会の寄託品には預書が出される。会期が終われば返すというのだが、
貴子のいう『一度貸したものが返ってこないのは、世の常』が真実か否かはさておき、堅物な通武の性格からして、結局は献納となるのは必定だと思われる。
貴子は、はあーと大きなため息をついた。
「なんで殿さんがいらしゃらへん時にかぎって来るんやろか。雪さん、何かいいお知恵はあらしゃいませんか」
「わかりました。それでは表の書院に
豊河と佳代は、雪姫のいないお居間で博覧会についてしばらく話していた。しかし豊河は話にあきたのか、
お居間でひとり、佳代がじっと雪姫の帰りを待っていると、廊下をする足音が障子の向こうから聞こえてきた。あのすり足は雪姫だと思い、佳代はあわてて障子を開き、頭を下げる。だが雪姫はいっこうに部屋に入ってくる気配がない。不思議に思い顔を上げると、なぜか廊下で立ったままの雪姫と目が合った。
思いがけず正面から雪姫の顔を見つめることになり、佳代の肩はびくんとはねた。主人の顔をまじまじと見るなど、無礼千万なのだが、雪姫の美しい顔から目が離せない。
ああ、姫さまの目はなんと澄んでいるのだろう。能面のように表情がよめないけれどお美しい。こんな絵になるお方はいらっしゃらない。しっかり目に焼き付けてあとで絵に描こう。
あらぬ方向に意識を飛ばしていると、雪姫の声が頭上に落ちて来た。
「佳代、そなた博覧会に行ったと先ほど言っていたな」
「へっ? は、はい。行きましたでございます」
いきなりの問いに、佳代はおかしな返事をしてしまったが、雪姫は抑揚のない声でさらに続ける。
「どうも博覧会で何かあったようだが、我は行っておらんし事情がわからぬ。ちょうどよい、佳代ついてまいれ」
「ど、どこにでございますか」
佳代は訳がわからぬまま、部屋の奥へ向かう雪姫の背中に声をかける。雪姫は佳代の問いを無視し、棚の引き出しをゴソゴソと探ると、
ぶ、ぶ、物騒なものが出てきた! そんなものを手にされて、いったいどこに行かれるんだろう。ひょっとして、
佳代は先ほど見た新聞の仇討の絵を思い出して混乱したが、雪姫はゆっくりと佳代へ顔を向ける。
「表の書院へ行く。そなたは、我のそばに座っておればよい」
それだけ言うと、懐剣を帯の間に差し込み、さっそうと歩き出した。
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