第117話 正義は母のDNA。
高校見学で僕が感じた農林実習の不安を、高校で学んだ食品科学からパン職人に成った父に訊き、それを父から聞いた母は僕へ、
「裕人、高校見学はどうだった?」
「うん、色々な不安も有ったけど父さんに聞いて少し安心したよ」
「そうね、義務教育の中学から進学すると何処の高校に入っても不安だからね」
少し天然の母は僕が感じた農林畜産自習の不安を勘違いして、何処の高校に進学しても不安は有ると言う。
それを訂正するのも面倒だから、
「そうだね、所で母さんは何処の高校を卒業したの?」
母の出身校に興味は無いが、今まで一度も聞いた事が無い。
「こう見えても私は白鳥高校よ」
「え、あの文武両道のお嬢様学校?」
普段の母はベーカリーのお客さんと雑談ばかりで『パン屋の女将と掛けてガソリンスタンドと解く、その心はいつも油を売っているでしょう』と笑えないネタを披露している、日々の暮らしで母からお嬢様学校出身の片鱗を見ることは無い。
「凄いでしょ」
「そうだね、あ、来年から男女共学に成るらしいよ」
「へえ~そうなんだ、白鳥高校が共学なんて時代の流れよね」
その白鳥高校を見学した
「母さんはナニ部だったの?」
「え・・・」
返事に詰まり、少し考えた母は、
「護身術だと思って、合気道を少しだけ習って」
口は達者だが武道に母は向いてないと思う僕に取って意外すぎる合気道とは・・・
「合気道は何か母さんの役に立ったの?」
「そこは、ええっと、絶対父さんは言わないでよ裕人」
結婚十六年の夫婦でも言えない秘密が有るみたいで、それを息子の僕が聞いても良いのか、不安と期待が入り混じっているが、
「うん、父さんには内緒の話だね、約束するよ」
「私って当時から女子高生の平均身長より高くて170cm以上で・・・」
合気道を始めて一年が過ぎた高二の春、母は私鉄利用で登下校していた。そんなある日の朝に同じ車両に同じ制服の名前を知らない女子生徒が乗り合わせ、その瞳に涙を浮かべて、言葉に成らない声で母へ『助けて』と唇が動いた。
それに気付いてよく見ると女子の胸を触るサラリーマン風男性の手、周りの人を掻き分けた母は『この人痴漢です』と男の手を合気道で言う所の『小手返し』で捻り上げた。
母は偶然に通学の車内で遭遇した痴漢を見て咄嗟に身体が動いたらしい。
最寄の駅で痴漢を駅員へ引き渡し、何事も無かった様に高校へ登校したが、助けられた女子は感謝の気持ちから友人達へ一部始終を話した。
その日の昼休み時間に数人の生徒が母を訪ねて、
「助けてください、私も毎日痴漢の被害にあっています」
勿論だが人助けの積りなど無い母はそれを断るが、何度も頭を下げられると『今回だけよ』と引き受けた、当然『危ないよ』と止める親友も居たが『最後だから大丈夫』を答えた、しかし心配する親友は中学時代の同期生で、緑山工業のラグビー部員だった男子に声を掛けて万が一のボディーガードを依頼した。
痴漢被害を訴える女子生徒と同じ車両に乗る母を親友とラグビー部員は尾行した。
そして痴漢常習者の手が大人しい女子のヒップを触り、女子が頷く合図で母はヒップを触る男の手首を握り駅のホームにねじ伏せた。
二度目の痴漢退治で終わる筈も無く、次の依頼に母は『ノー』と首を捻った。
それでも助けを訴える女生徒は『怖くて黙っているとスカートの中に手を入れて、その翌日はショーツの中まで指を入れて』と悪質な痴漢の手口を事細かく説明した。
ここまで聞いた母も流石にブチ切れて、翌日の通学車両で悪質な痴漢を待ち伏せた。
勿論母の親友とラグビー部員も少し離れた位置から二人の女子高生を見張った。
推定年齢四十代後半から五十代の小太りの中年男はいつもの様に恐怖で被害を訴えられない女子の背後からスカートの中に手を入れた。
「この人、痴漢です!」
勇気を絞って被害を訴える女子生徒の声に、母は痴漢の手首を捻ってホームに降りた。ここで素直に罪を認めれば駅員の厳重注意で済ませても良いだろうと思う母へ、
「私は触ってない、これは冤罪だ」
予想外に開き直り、逆切れする中年男へ母の親友は、
「携帯のカメラで痴漢行為を撮影しました」
凡そ二十年近く前にスマホは無く、今で言うガラケーでも写真メール機能が有る。
「そんな物は捏造だ、私の手じゃない」
痴漢の悪あがきに母の中で堪忍袋が切れたのか、正義の心を楯に、
「テメエふざけるな、穏便に済ませてやろうと思ったが今すぐ警察とマスコミを呼んで世間にその面を知らしめてやる」
大きく啖呵を切ったその光景を、偶々居合わせた目撃者が携帯で撮影して警察に通報した。
その後、警察から『感謝状を贈りたい』と言われた母は丁重にお断りした。
翌朝、お嬢様女子校へ登校した母は校長室に呼び出され、
「痴漢退治はとても危険を伴う行為です、今後は控えるように」
と校長、教頭の二人から釘を刺された。
後日、その件について担任教師から、
「貴女が警察に突き出した痴漢は某中学の教頭でした、問題視した教育委員会は停職処分を下し、同時に元教頭は辞表を書いて諭旨免職に成りました。悪を退治するのは立派な事ですが白鳥女子校の生徒が行う正義じゃないです」
ここまでが母の知る範囲で、
「翌年の生徒手帳に『痴漢退治は禁止』と校則に加えられて、きっと私の正義が暴走したのね」
後日談、
僕は
「私の志望校は秘密よ」
僕には訊くのに言わないとは・・・
同じ様に美術部の橘葵君に、
「やっぱり白梅高校の美術科を見学に行ったの?」
「志望校を迷うから高校見学に行くんでしょ、進路を決めた僕は行かなかった」
人生に迷いが無い女装男子の橘葵君は凛々しく見える。
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