第84話 小さな婚約者。

奈央ねえさんが差し入れた三つのお握りで熟睡出来た僕は、いつもと同じ午前六時に眼が覚めた、打撲の肩や背中は多少楽に成ったが、額の傷は昨日より痛い。


時間の経過から自分の名前と両親の顔は思い出したが、事故の記憶はあやしい。

たしか、少女とママ、止まらない車、音と色の無い世界はスローモーション。

三つのピースがジグソーパズルの様に、僕の中では繋がらない。


更に家とは違う病室で自慰オナニーすることも無くトイレに行き、放尿で生理現象の朝起あさだちをしずめた。


昨日の夕食も驚いたが、今朝の献立を見て心が折れる。


白粥しろかゆと透明のすまし汁、柔らかい半熟卵より苦手な温泉卵、ホウレン草をミキサーしたような青汁、そのほかの品も食事と言うより飲み物に近い。

ただ食後に飲み薬が無いのは救われる・・・


もしもこれが最後の晩餐なら、僕は命がけでカレーライスを求め、微笑んで旅立つだろう。<病院の栄養士さん、調理師さんゴメンなさい>


お加減は如何ですか?検温します<体温を測ります>、退院は午後からですのでお迎えは御両親ですか、その前に昼食は必要ですか?看護師を含めた病院職員から質問されて、退院までの僕は静かな時間を迎えるはずだった。


個室扉の向こう側から、

「きっとこの部屋だよ」

最近の病室は個人情報の関係で、廊下の壁に入院患者の氏名が表記されてない。


迎えの父母以外に誰が来たのか、僕が疑問を解く前に扉が開き、記憶に有る女子二人が入室する。


「事故にったと聞いて心配したよ」

僕の顔を見た天野サヤカさんが言い、それに続いて松下エミさんも、

「もう、お見舞いできる今朝が待ち遠しくて、今も私の胸がドキドキしているのよ」


そう言って僕の右手を松下エミさんは胸の心臓に当てて、自分の鼓動を伝えようとするが、僕の手にはポニョポニョの感触しか伝わらない。


「私だってドキドキしてるよ」

同じ様に天野サヤカさんは、僕の左手を自分の左胸に押し当てて言う。


これは『両手に花』より幸せな『両手に乳』ではないか、黒髪ロングの美少女、CMモデルの天野サヤカさんと、ショートヘアの美少女、スポーツ女子の松下エミさんの胸はどちらも甲乙付けがたい至福の時だ・・・


「なんか裕人君、私達のドキドキで喜んで無い?」

天野さんの疑惑に僕は否定して話題を変えようと

「違うよ、僕を心配してくれて二人共有難う、だけど、誰に訊いたの?」


「それは奈央なおさんからよ」

僕へ説明するのは、奈央ねえさんを知る松下さんで、前回のスイーツからカラオケで気が合い、今週の日曜日に天野サヤカさんを誘って三人で美味しい物を食べる計画をしてたが、僕の交通事故で奈央さんからキャンセルの理由で僕の入院を知らされたらしい。


患者の個人情報に守秘義務が有る看護師が外部に漏らすとは、奈央ねえさんはこの事を先に僕へ謝ったのか。 


今更僕が怒っても仕方無いが、柔らかい二人の胸に免じて文句を言わずに済まそう。


「午後からが正式な面会時間だけど、どうしたの?」

僕の疑問に答えたのはバスケ女子の松下エミさん、


「そうよ、ナースステーションで『時間外です』と止められたけど、婦長さんが天野サヤカちゃんのファンらしくて、サインと握手で通されたわ、さすが有名なCMモデルね」


「それは私が偶然、小塚製薬の風邪薬と栄養ドリンクのCMに出演していた所為せいよ」

『パパこれを飲んで風邪を早く治してね』と『お兄ちゃん、お姉ちゃん、これで受験勉強を頑張って』のアレか、なるほど。


「裕人君、胸から手を離しても良いわよ」

服の上からでも心地良い二人の胸を僕は無意識に触り続けていたらしい、それを指摘されて少し恥かしい。


二人の訪問から十分ほど経ち、開いた扉の先から、

「こちらが槇原さんの病室です」

看護師さんの案内に、若い母親と小さな女の子が一つお辞儀して部屋に入ってくる。


「あの時は、娘を助けていただき有難うございます」

母親は深々と頭をさげ、それに合わせる様に少女は、

「パン屋のお兄ちゃんは命の恩人で正義のヒーロー、麻衣が大きくなったらお兄ちゃんのお嫁さんになりたい、絶対なるから待っててね」


僕をパン屋のお兄ちゃんと呼ぶ少女の名は麻衣ちゃんだった、記憶のピースが一つ繋がった。


「ねぇ麻衣ちゃん、お兄ちゃんのお嫁さんに成りたいって、いま何歳なの?」

誰もが思う疑問を、松下さんが代表して訊いた。


「さくら組の5歳です、麻衣が18歳になるまでお兄ちゃんは13年待ってください」

それはまるで人気子役がドラマで演じるセリフみたいな。


「これから先の13年は長いよ」

松下さんに続いて天野さんも麻衣ちゃんへ話しかけた。


「まだ5歳だけど、お兄ちゃんを好きな気持ちは13年経っても変わらないです、お兄ちゃん、このオバさん二人は誰ですか?」


五歳の麻衣ちゃんからすれば、十五歳の天野さんと松下さんはオバさんに感じるのかと思う僕より、


「ちょっと待ってよ、私は兎も角、テレビCMのサヤカちゃんを知らないの?」

松下さんの問いかけに麻衣ちゃんは、


「テレビを見ると頭が悪く成るって、パパが言うから見ない」


美少女の五歳と十五歳の論戦に、天野さんは、

「エミちゃん、ムキになっても仕方ないよ、麻衣ちゃんが大きくなる頃にお兄ちゃんは、アメリカのバスケ選手に成っているよ、それでもお嫁さんに成りたいの?」


自分の十三年後は想像できても僕の十三年後を知らない麻衣ちゃんは、

「え、お兄ちゃんはパン屋さんに成らないの、お嫁さんになったら毎日美味しいアンパンが食べれると思ったのに」


それが麻衣ちゃんの本心だろう、更に、

「アメリカっ遠いの?麻衣はバスに酔うから飛行機も乗れない、そうだ『いつでもドア』が欲しい」


テレビを見ないと言う麻衣ちゃんは、アニメなら見るんだ。


そんなやり取りを残して麻衣ちゃんとママは帰って行き、病室に残る天野さんと松下さんは、

「裕人君、麻衣ちゃんは小さな婚約者ね、どうするの?」


時が経てば麻衣ちゃんの気も変わる、特に女心はそうでしょう、と思う僕は、

「きっと時間が解決してくれるよ」

大人を真似て言ったつもりが、


「それって、私を3年待たせた裕人君は、13年後に麻衣ちゃんに乗り換えるつもりなの?」

天野さんの言い掛かりに、

「酷い男だね」

松下さんも続いた。

僕は、

「そういう意味じゃ無いって」

本心から否定した。


あれ、僕と将来を約束した天野さんの関係をナゼ松下さんは知っているのか、その疑問は奈央さんを含めた三人は、僕の情報共有から天野さんを応援していると教えられた。


女性三人寄ればかしましい、と言うが・・・

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