第82話 未体験ゾーン。
アニメヒーローの能力とか必殺技など現実にはあり得ない世界で、非科学的な超自然現象も疑う僕が不思議な感覚に落ちるなんて。
ゲームに誘う
公園前の車道を横断する歩行者用信号は赤く点灯し、止められた僕は隣で青信号を待つ長い髪の少女に気付いた。
その身長から小学校に入学前の園児か、大柄な僕を見て怖がらせないように少し離れた。
「こんにちは、あんパンが美味しいパン屋のお兄さん」
「うん、そうだよ、いつも買ってくれて有難うね」
槇原製パンの常連さんと思う少女、それに僕も答えた。
「私は
僕を警戒しなくて逆に自己紹介を始めるが、一人でお留守番してからママのお迎えに出たと、それで家の戸締りは大丈夫なのか、五歳の長い髪の麻衣ちゃんを見て、忘れかけていた幼稚園時代の
その数秒後に歩行者用信号が赤から青に変わり、それを見た麻衣ちゃんは『ママ~』と呼びながら横断歩道を駆け出した。
歩道の向こう側に麻衣ちゃんのママらしい若い女性が、
「麻衣、来ちゃダメぇ~」
と必死に叫ぶ、そして左手から接近する車は赤信号に減速するより、逆に加速するように見えた。
これはニュースで見たブレーキとアクセルの踏み間違いか、このままでは小さな麻衣ちゃんに最悪な危険が迫る。
などと思う前に右足からダッシュした瞬間、太ももとふくらはぎの筋肉がブチブチと音を立てて切れた様な痛みと、僕の視界は
一切の音も聞こえない違和感に包まれて、目に見える人や車もすべての動きがスローモーションに感じる。
試合中にプレーヤーの手からコートに転がるルーズボールを追う様に、左足の二歩目で麻衣ちゃんに追いつき、五歳の少女を右腕に抱え上げた瞬間、車のフロントガラス越しに高齢の夫婦を見た。
運転席の男性は大きく目を見開き、助手席の夫人は恐怖から固く目を閉じていた。
体育の走り高跳びで150㎝を飛べた僕は麻衣ちゃんを抱えて、迫りくる車を飛び越えられるのか、など不安は微塵もなかった。
両手に麻衣ちゃんを抱えても軽々と跳躍して車の屋根を超えられると思うが、スローモーションの世界でゆっくり走る車は僕の足元を通過しない。
それなら車の屋根を飛び箱の踏み台にして、より高く飛ぼうと考えたが、移動する車の屋根に足を付いた瞬間、跳躍する僕の体勢が崩れて、セピア色の空と路面が交互に回転する。
幼い麻衣ちゃんに傷一つ付けない様に両手で抱えて、僕は肩と背中から転がる様に道路に落ちた。
『受け身の基本はヘソを見て』
ここでも転任した岩鉄さんの教訓が身体に染みついていた。
「麻衣~ 有難うございました」
駆け寄るママの声で僕の耳に音が戻り、自分の身体より麻衣ちゃんの体を心配して、
「麻衣ちゃん、痛いところは無い?どこかケガをしてない?」
僕の問いに麻衣ちゃんは泣き声をあげることもなく、
「うん、麻衣はどこも痛くないけど、お兄ちゃんの顔に血がぁ」
え、僕の顔に生暖かくヌルっとした感触から、額に当てた僕の手を赤く染めた。
それからの僕は意識を失い救急車で総合病院へ搬送されて、目覚めた時は病室のベッドで幾つかのセンサーコードと点滴チューブが繋がられていた。
白衣を着た若い看護師さんから、
「人助けとは言え無茶をするのね、無鉄砲な裕人君には呆れるわ」
何となく見覚えのある看護師さんだが、その小言が僕の頭に痛いくらいに響く。
「看護師さん、僕の名は裕人ですか」
いつもは昼寝で記憶を整理する僕でも、今回の事故で一時的な記憶障害に成った、これも後から知ったがこの時点では自分の名前も思い出せなかった。
「冗談でしょ、裕人君に勉強を教えた姉の奈央よ、本当に私を覚えてないの?」
そう言われて僕に姉が居たと思うが、それより今は、
「お腹が空きました、何か食べたいです」
素直に空腹を訴えたが、先にMRIとCTで脳と身体に異常無しの診断された後に、超薄味の病院食を頂いたが空腹は収まらない。
救急搬送された僕の素性を知る看護師の奈央さんから、閉店直後の両親が連絡を受けて駆けつけた。
自分の名前は覚えてないが、両親の顔と性格は記憶にあった。
いつも陽気な母からは、
「額の怪我で済んだのは私が丈夫に産んであげたおかげよ、この母に感謝しなさい」
本当に僕を心配してくれたのか、いつも以上に不思議な母を見た父は、
「まぁ裕人が無事ならな、よく言うだろう『死ぬ以外はかすり傷』って、でもな病院に来て裕人の顔を見るまで母さんは『裕人が死んじゃたら私は気が狂う』と号泣していたぞ、俺は耐えられるが母さんを泣かすのは良くないな」
普段は無口な父から聞かされた母の本心は、僕の心に深く
空腹を理由に帰りたいと願う僕に担当の医師から、
「今夜は経過観察で明日の午後に退院しましょう」
その言葉は僕にとって断食修行だと受け取った。
◇
これは僕の知らない大人の話から、
やはり高齢者のブレーキ踏み間違え事故だった。
保険会社の代理人が父と母に補償内容の説明から、示談書に署名と加害高齢者の減刑嘆願を求めた。
両親の父母も還暦を迎えて、同情する部分もあるが、子供を失う恐怖を経験した母は、
「今回の事故で息子が怪我で済んだのは奇跡です、生活が不便になると思いますが、次に同じ過ちがない様、運転免許の返納を示談の条件とします」
厳しい様に思うが、真面目に生きて来て人生の終盤に人殺しの汚名を受けないよう、老いた両親を心配する母なりの思いやりだった。
後々に、目撃者の証言と警察の説明で今回の詳細を知ることになった。
◇
今現在の僕は心電図センサーと排尿チューブは外してもらえたが、生理食塩水と黄色いビタミン風の点滴に繋がれている。
満足に食事と飲み物も取れないが、点滴のおかげで喉が渇かないけど、点滴スタンドを転がしてトイレに何度も通う。
数針縫合された左の額に大きな絆創膏が貼られて、それを触れると痛みを感じる。
筋肉がブチブチ切れたと思う足に痛みは有るが、歩行には支障が無いのは不幸中の幸いと思う。
明日の退院まで夜を挟んで十八時間以上ある、どうせ満足な食事が取れないなら思いっきり寝るのも有りだと考えた。
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