第59話 黒毛和牛の誘惑。

ブティック名が印刷された白い紙袋を僕が持ち、二人並んでエミさんの家まで歩く。


「荷物を持ってくれて有難うね」

僕の家ではいつでも男の父と僕が食材や荷物を持ち、母は手ぶらで帰宅するのがマイルールに成っていて、当たり前の事で当然だと記憶に刷り込まれていた。


バレンタインデーに松下エミさんから貰った塩辛お握りのお礼で、僕は今日の午後からヘアサロンとショッピングに同行した。

そしてエミさんを自宅に送り届ければ任務完了で、解放されると自分勝手に想定していた。

僕は繁華街の人混みが苦手で、エミさんのウインドウショッピングも含めて肉体的と言うより精神的に疲れた。

自宅に帰ってシャワーを浴び、母が作りおいたカレーを思いっきり爆食して、一人エッチから眠りたい。


「じゃあ、また月曜の学校で」

一声かけて背中を向ける僕へ松下エミさんが、

「ちょっと待って、ヒロ君、今日のお礼でお茶を煎れるから飲んでいってよ」


「え、まだ終わりじゃないの?」

「少しだけよ」


車が出入りする鉄製の門が目立つ松下エミさんの邸宅、その横には人が使う出入り口、セムコの警備らしきステッカーとオートロックを解除してエミさんの後から続いた。


人の気配を感じられないエミさんの邸宅は少し寒々している。

「家の人は誰も居ないの?」

「そうよ、父は不動産関係の社長で今日は地方へ物件の視察、それにインテリアデザイナーの母も同行して私が留守番、今お茶を煎れるから待って」


僕の部屋もそれほど狭くないが、エミさんの部屋は倍以上の広さで、リビングルームの真ん中にテーブルと壁際に大きなテレビが有り、そして学習机と中学女子には大きいベッドが置かれて、その部屋には女性らしい甘い香りが漂う。


初めて女子の部屋を訪問する緊張から、座っていても落ち着かなくて居心地も良くない。


待っている時間は数分でもそれ以上に長く感じる。

エミさんがトレーに湯飲みとお漬物の小皿を乗せてテーブルの置いて、

「甘いお菓子が苦手なヒロ君はお漬物なら大丈夫よね?」

それは茶色いウリか細長い大根のようで、僕の経験が無いお漬物だった。

ポリポリとした歯ごたえと甘い香りに思わず『美味しい』と正直な感想が出る。


「あのね、家政婦さんが夕食を用意してくれたみたい、『たぶん友達とショッピングに行くって』話したから気を効かせたのかな、一緒に食べて欲しい」


「え、ご両親は出かけて、その家政婦さんは居ないの?」

「うん、元々土曜日は休み抱けど、私の為に来てくれてもう帰ったの、一人で御飯は寂しいよ」


「今日は僕も一人で、家に母のカレーが有るから帰るよ」

「え~黒毛和牛のすき焼きを私一人で食べるって、お願い一緒に食べてよヒロ君」


いつもなら僕をマッキーと呼ぶエミさんが、ヒロ君と呼ぶのはニセの恋人が終了してない延長なのか、そしてテレビで見たことは有るが人生初の『黒毛和牛のすき焼き』に五郎さんの『腹が減った』的な猛烈に食欲があがってきた。


「そこまで言われたらご馳走に成ります」

「有難うヒロ君、今すぐ用意するね」

再びエミさんを待つこと十五分、家政婦さんの下準備で大皿に盛られたすき焼きの具材、葱と白菜、シラタキと焼き豆腐、シメジとエノキ茸、椎茸と舞茸のキノコ類、焼き麩と竹輪は僕の家では見た事がない。

「エミさんは料理が出来るの?」

「全然だめ、見様見真似みようみまねで何となくのすき焼きだけど、割下わりしたも加代さんが用意したから味は大丈夫だと思う」

エミさんが言う加代さんが、家政婦さんの名前だと気付く僕は聞き流した。


丸いすき焼き用の鉄鍋に牛脂を入れて菜箸で油を馴染ませて、醤油と茶色い三温糖を入れて、二枚の黒毛和牛らしき霜降りの薄切り牛肉を軽く炙り、表面の色が変わると同時に、

「食べるのはこのタイミングよ、ヒロ君」

小鉢に玉子を溶いて箸を持つ僕へ、エミさんはレアの牛肉を入れてくれる。

エミさんも自分の器に和牛を取り、僕と顔を見合わせて、

「頂きま~す」

と口に入れた。


「う、う、美味うまい」

これは、人生に初の黒毛和牛A5ランクの霜降り肉、この世の物とは思えない口の中で溶けていく、その甘いあぶらが僕の身体に沁みこんで牛脂ぎゅうしに溺れそうだ。

更にもう一枚、レアな黒毛霜降り和牛を味わい、鉄鍋に野菜とキノコ類を投入して割下を入れて熱を加える。

鍋の中でグツグツとゆれる豆腐、味が沁みてきたシラタキを溶き玉子に浸して頂く。


「少し物足りない味ね、そうだ日本酒を入れてこくを出しましょう」

エミさんの提案にアルコールが苦手な僕は、

「お酒を入れて大丈夫なの?」

僕の家では父も酒に弱くて、すき焼きに限らず料理酒も少ししか使わない。


「火を通して煮切るから平気よ」

料理をしないエミさんの言葉に納得できるのか、少しの不安も黒毛和牛の美味しさに消し飛んだ。


「ヒロ君、まだお肉が有るよ、遠慮しないでね」

一枚が100gくらいの霜降り肉を二枚食べたエミさんは主に野菜へ箸を勧める。


スーパー清友せいゆうで値引きシールが張られた、輸入アンガス肉のステーキなら1㎏を完食出来たが、口の中に脂が溢れる霜降り和牛を三枚、約450gを食した僕は産まれて始めてお肉を残した。

その代わりに白米へすき焼き味のキノコと豆腐を乗せた牛丼風御飯で満腹に成った。


満腹で直ぐには動けない僕へエミさんは、

「最初は中学一年の春、テニス部のイケメン先輩から声を掛けられて、あ~中学生に成ったら告白されて、こんな感じで恋愛が出来るって思ったの」

はあ、別に僕は聞きたくないけど、それって過去の恋バナなの?


「きっと私は恋に恋していたのね、そのイケメン先輩にバージンを捧げたのに、他の女子にも声を掛けて付き合い、彼はバージンが好きだっただけ、その次は街でナンパされた大人の男性、カラオケや食事をご馳走に成ったりして自然に結ばれたけど本命の彼女が居て、私はつまみ食いされたわ」


突然の告白に驚く僕は、

「え、今それを言うの?」

「だってヒロ君には本音で話せるでしょ、私の愚痴を聞いてよ」

周りの期待に答えて善い子を演じるエミさんへ、『僕の前では無理しなくて善いよ』と慰めたが、まさか愚痴を零すとは、しかも過去の男性遍歴を聞かされても返事に困る。

「嫌な事は忘れて前を向いて歩けば、エミさんの明日は善い事が有るさ」

「有難う、ヒロ君の言葉で救われるわ、もう悲しい話はお終い」


一区切り付いて安堵する僕からの疑問を解決したくて、エミさんへ、

「あのさ、なんで僕に話すの、その訳って?」

槇原マッキーって口が固いよね、携帯スマホを持ってないから私に聞いた事をSNSに上げないでしょ、 それに私と二回エッチしたよね、理由として充分でしょ」


エミさんに取って僕は安全装備された友人らしい。

今、エミさんは僕をマッキーと呼んだ、これでニセ恋モードは解除されたらしい。


人混みからの疲れと緊張から解放されて、今から帰宅しようと立ち上がる積りの僕は身体に力が入らなかった。

槇原マッキーどうしたの?」

「立てないみたい」


「あ~煮切れなかったお酒に酔ったの、少し休んでいけば?」

「そうさせて貰うよ」


「じゃぁ、私とお話の続きね」

ニセ恋任務の終了で気持ちは楽に成ったが、本当の意味で開放されるのは・・・?



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