第56話 バレンタイン・デーが来た。

自己流のトレーニングで両手足に1kgのウエイトバンドを着けて日々を過ごし、5kgのダンベルを持参して、中島公園の早朝ラジオ体操に参加した。

六時三十分の夜明け前、芝生広場の街灯に集まるお年寄りたちと一緒の体操が終わる頃に東の方角から朝日が出てくる。

それまでは誰か分からないが、お互いの顔を見て槇原製パンの常連さんや円城寺商店街のご隠居さんだと気付き、

「大きな男が居ると思ったらパン屋の裕人か、幼稚園の頃から知っているがもう中学生か、大きくなったな」


「どうも、お陰様で大きく育ちました」

何人のお年寄りへ定型文のように答えるが、その後の話題が続かないジェネレーションギャップを感じて、翌朝からは製パン店裏の自宅前で、SNS音楽サイトのラジオ体操をイヤフォンで聞きながら過ごした。

トレーニング開始から一週間程度では効果を感じられないが、二週間が過ぎた頃から肩周りと腕の筋肉が太くなった様な気がする。

誰にも言わない地道な努力が実を結ぶのはいつの事だろう。


二月六日から八日までの学年末テストも終わり、その結果を知るのは週末、十日の金曜日、四日後よっかごは男子の多くが期待するセント・バレンタインデー、勿論もちろん交際する彼女の本命チョコは欲しいがそのほかの女子からチョコが欲しいのも男子の本音。


「槇原君、冬休みが終わってから大人っぽい雰囲気に変わったね」

クラスメイトの女子が僕へ話しかけ、『女子バスケ部の三人とエッチした』とは答えられない質問をする。

「そうかな自分では分からないけど、僕の変な噂を聞いた事が有るかな?

女子のクチコミから情報拡散されているなんて自意識過剰と思うが、確認の為にあえていた。


「そうね、槇原君のタイプは知的美人の女子アナか白衣の天使ナースよね、大きくても小さくても女子の生乳なまちちが好きでとても優しく触るとか、好きな四文字熟語は『酒池肉林』、槇女のガールフレンドは居るけど未だ童貞で、初詣に着物の年上女性と一緒に居たとか、二年の女子で噂よ」


「その女性ひとは僕の勉強を見てくれる個人講師せんせいだよ」

「え、そうなの、塾に通ってない槇原君に女性の家庭教師って知らなかった」


生乳なまちち酒池肉林しゅちにくりんを知っているが、個人指導の奈央ねえさんを知らないのは、女子バスケ部の三人は他から僕の情報を得るが自分から情報を漏洩リークしないと感じた。


「もう直ぐバレンタインだよね、ここだけの話だけど、実は甘い物が苦手でチョコにはカフェインも多いから食べないようにしている」

「それって、落語の『饅頭が怖い』みたいに本当はチョコが欲しいの?」


違う、そのままの意味だよ、僕は成長に影響が有るカフェインを摂取しない本心を言わない。

「本当に甘いチョコレートが苦手なんだ、これは恥かしいから誰にも言わないでね」

言わないでと頼まれれば、言いたくなるのが女子の心理と考えて、槇女を含めて女子へ拡散されると期待した。


数日が過ぎて二月十四日のバレンタインデー当日、バレンタイン・チョコの持参を校則で禁止されているが、昼休み時間に教師の目から隠れるように男子へ本命チョコを贈る女子は安堵した表情と、贈られた男子はニヤニヤ顔を隠しきれない。


「僕は本命でも義理と気配り、友達チョコでも喜んで貰うよ」

小学時代の人気者だった橋本ハッシーなら大きな紙袋いっぱいにチョコを貰ったが、中学入学からチャラ男のイメージが強くなって、しかも鬼嫁キャラの彼女、吉田サユリさんが居ては、それを期待出来ないだろう。


時は14日バレンタインデーの前日、女子バスケ部の松下エミさんから体育館裏に呼び出されて、

槇原マッキーがチョコは甘いから苦手って、一個も貰えない時の予防戦でしょう?私から友チョコをあげるから大丈夫よ」


学年で一番人気の女子からバレンタインチョコを貰えれば嬉しくない男子は居ないが、それを踏まえて断る理由で、

「未だ成長したいからカフェインが多いチョコレートを避けているんだ」

他の女子には言ってない本心を口が堅い松下エミさんだけに告げた。


「へえ~、それじゃ槇原マッキーが好きな食べ物ってナニ?」

バレンタインデーのチョコレートから話題が変わるならさいわいの思いで、

「それなら白米にイカの塩辛が好きかな?」


「分かったわ、槇原マッキーの好物はイカの塩辛ね、憶えておくね」

後から思えばこれは口が滑ったと気付くが、この時点では何の疑問も感じなかった。

そしてバレンタインデー当日『槇原は甘いチョコが苦手』の拡散で槇女を含む女子から一個の義理&友チョコも届かなかった。


放課後のバスケ部活動が終わり、帰宅する僕を前日の松下エミさんが呼びとめ、

「はい、槇原マッキーの好きな塩辛のおにぎりよ、お腹が空いているでしょ、今すぐに食べて」

まさか冗談の積りで言った『白米とイカの塩辛』お握りに驚きながら食欲に負けて数十秒で完食した。


「味はどうだった?」

「とても美味しかった。松下エミさん、ご馳走様でした」


「あのね、桃太郎のキビ団子を食べた犬はおともに成ったよね、そんな槇原マッキーに私からお願いが有るの、駄目かな?」

どちらからと言えば僕は猫タイプより犬タイプだけど、桃太郎に例えるとは返す言葉が出てこない。


「僕に願いって?」

槇原マッキー天野サヤカさんと交際してないよね?」


「そうだね、ガールフレンドの一人だけど、特別の恋人じゃないよ」

「じゃあ、今度の土曜日、私に付き合って欲しい、勿論交際してと告白じゃないし、知り合いに恋人のフリをして欲しいの」


松下エミさんは僕に偽の恋人を演じて欲しいと言うのか、

「それってドラマのニセ恋って事?」

「そんな感じ、かくおねがい、部活が終わってからロンキホーテ前で」


一言も『デート』と言わない松下エミさんを信じて土曜の予約を受けた。

それから帰宅した僕へ母から、

「裕人が帰ってくるのをサヤカちゃんが待っているよ」

家のリビングでソファに座って僕を待つ天野サヤカさんと特に約束して無いから、今日の用件が思い浮かばない。

「ただいま、待たせたならゴメン、でも何の用?」


「私から裕人君へバレンタインデーのチョコレートをプレゼントよ」

「あれ、甘いチョコが苦手って聞かなかった?」


「それはカフェインを取りたくない裕人君の口実でしょ、大丈夫よこのチョコはカカオ未使用、ノンカフェインのキャロブ<イナゴ豆>・チョコよ」

人生で初めてノンカフェインのチョコレートが存在すると聞いた僕は驚きながら、開封して手作りらしいチョコレートを見た。


「ノンカフェイン・チョコって凄いね、でもこの大きさはどうしたの?」

「100g小包装の20個を2セット湯銭で溶かして、シリコンの枠に流して固めて彫刻刀で心を込めて『愛』と彫ったの、裕人君が一人で食べてね」


牛肉なら軽々食するが、200gの板チョコは重いし固い、筋トレしているがとても人力で割れそうに無い。


「これって、湯銭してからテンパリングした?」

チョコレート職人は溶かしたカカオバターを安定した状態の調温テンパリングをテレビで見た記憶があった。

「ナニよ、テンパなんとかって?」


「それをしないと手作りチョコが固くなるんだよ、やっぱる僕が食べるの?」

「うん、私みたいに彫刻刀で削って、裕人君が少しづつでも食べてね」

普段から一切のコーヒーは飲まないが、ノンカフェインのチョコならホットミルクに溶かして消費できるだろう。


「そうだね、毎日少しづつ頂くよ、お気使い有難う天野さん」

「今日のバレンタインデーに裕人君へチョコをあげたのは私だけよね?」

松下エミさんからイカの塩辛お握りを貰ったが、チョコレートは天野サヤカさんの一つだけと、

「そうだね、やっぱりお返しを期待するの?」

「ホワイトデーは無くても好いけど、私に為に考えてくれるなら嬉しいな」


チョコのお返しを期待されている僕は、松下エミさんと土曜の約束を忘れて当日を迎えた。

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