第35話 土曜の午後は。

水曜日の午後六時から奈央ねえさんのマンションで勉強を教えてもらった。

と言うよりも地区でトップランク、黒松高校合格の効率的な学習方法を指導された。


用意された過去の問題集を含む受験用資料を自宅に持ち帰り、予習の積りで国語、社会、英語のテキストに目を通した。

簡単に解ける問題と未だ習ってなくて解けない中三の問題にチェックを入れて、次回に奈央さんと約束した土曜日の午後に備えた。


木曜と金曜、級友達と普通に会話しても、適当な理由を付けて週末の土日に遊ぶ予定を入れなかった。

それは一方的に婚約解消と言われた天野サヤカも含めて、周りの男子と女子にも気付かれて無いと思うが、それまでの僕と天野サヤカを見ていた友人は違和感を持っていたと思う。


槇原マッキー、機嫌が悪いの?」

女子バスケ部の僕と口約束したセフレの松下エミさんが疑念を抱いて訊くが、

「いたって普通だよ、今の僕は喜怒哀楽の全てが平常ニュートラルさ」


正直に言えば、初回の訪問こそ緊張したが、食事を含めて甘えさせてくれる奈央さんのマンションを訪ねる土曜日が楽しみになっている。

待ちに待った土曜日の朝、午前はバスケの部活に参加して、終了後は急いで着替えて自宅に戻り、シャワーを浴びて汗を流して、サブバックにテキストを詰めて出かける前に、父のパン屋で昼食用のアンパン2個とコロッケパンと焼きソバパンを持って奈央さんのマンションに向かった。


約束の午後二時、エントランスのインターフォンを押すと以前と同じ様に、『裕人君、いらっしゃい、どうぞ』の返事が聞こえて、奈央ねえさんの部屋に向った。


「裕人君、お昼ご飯は食べたの?」

うちから父のパンを持ってきました、僕と一緒に食べましょう」

サブバッグから白い紙袋を取り出して、奈央さんが買いそびれていたアンパンと焼きソバパンを見せて訊いた。


「わあ、アンパンね、高校時代の購買を思い出すわ」

二十四歳の奈央さんは黒松高校の購買部パンが懐かしいと僕に笑顔で答える。


「裕人君はカフェインを含むコーヒーや紅茶を飲まないよね、麦茶で好いかな?」

前に一度だけ話した食の好みを憶えていてくれた奈央さんへ、

「はい、僕が飲むのは麦茶か水と牛乳です」


金曜日なら開店前に限定のカレーパンを準備できたが、土曜日なので残念と思う。


槇原ベーカリーの調理パンをムシャムシャと美味しそうに食べる奈央さんは、

「黒松高校の購買パンより全然美味しいよ」

「あ~、あれじゃないですか、別の意味で有名な武藤たけふじパンでしょ、高校時代に食べた大人は『あの頃を思い出して懐かしいけど、味は不味い』って言いますね」


パン職人の父が言うには、輸入小麦を使いイースト菌も最低レベルの給食用パンを作る武藤たけふじの購買パンが美味しい訳が無い。


僕が持参したアンパンを食べて満足した奈央さんは、

「裕人君の為に炊飯器で炊き込みご飯を炊いたのに、どうしよう?」

奈央さんの部屋に入った時点で、嗅覚に自信が有る僕は鳥肉と牛蒡ごぼう、キノコに生姜しょうがの香りで、炊けた炊飯器の鳥めしに気付いていた。


「丼三杯は僕が食べますので、奈央さんは心配しないでください」

「炊き込みご飯だけで良いの?」


「炊き込みご飯の具材がおかずです、インスタントのお味噌汁が有ると嬉しいです」

八丁味噌でも合わせ味噌でも、白味噌でも僕は嫌いじゃない。


今日の僕はテキストの予習も有って、奈央さんの部屋でも緊張する事無くリラックスしている。

「へえ、予習して分からない問題をチェックしている、裕人君、偉いね」


前回の数学理科に続いて、国語社会英語の解けない問題の対策を指導されて、午後五時に学習時間が終了した。


「そうだ、裕人君がテレビを見たいかと思って、小さいサイズのテレビを家から持ってきたわよ」

「僕、CMが無い局以外のテレビを見ないです」

それは嘘じゃなく、母が録画する韓国ドラマもCMカットで見るくらい。


「アニメやお笑いと歌番組は?」

「朝ドラと日曜の大河ドラマ、土曜の『ブラ森田』を録画再生で見ますね」


「なんだ、裕人君はテレビが要らないんだ、でも折角だから見ようよ」

テレビを見ないという僕を気にせず、メインスイッチを入れてリモコンでチャンネルを変えた。

商品のCMを見たくないし、名前を知らない女優やモデルの笑顔に興味が無い。


「あ、あれ、この、無期限休業から仕事に復帰したんだ」

丸い顔に細い鼻すじからピンク色のふっくらした唇と、今にも涙が零れる大きな瞳で泣きだしそうなの美少女は、

「これを飲んで風邪を早く治してお父さん、私は凄く心配しているよ」

(風邪に引きはじめはルル3錠)と画面下に文字列が出る。


冬が近づくと流れる風邪薬の新CM、最後に少女の瞳から涙が一すじ流れる演出を見て、こんな可愛い娘に言われたら父親は絶対この風邪薬を買うな・・・


「僕の知らない女優だよ」

「え、右下に小さく『天野サヤカ』って出ていたよ」

それは僕が知る天野サヤカの顔じゃない、思わず、

「全然違う、普段の天野サヤカはこんなに可愛くない、別人だよ奈央さん」


「女優やモデルはメイクで顔が変わるのよ、裕人君の元彼もとかのってこのモデルさんでしょ?」

じっくりと見るほどCMは長くないし、今更そんなの言われても仕方無い『覆水盆に帰らず』だし、笑顔が苦手なモデルの天野サヤカが復帰出来たのはさいわいと思う。


天野サヤカが突然のCMモデル復帰を不思議に感じる僕が理解したのは、そのCMが終わり、青柳松子さんが司会のトーク番組『松子の部屋』に天野サヤカがゲスト出演した。


「ようこそ、天野さん、少し緊張してますね、今日はサヤカちゃんと呼んで良いですか?早速ですが無期限休業から復帰の気持ちをファンの皆様に伝えてください」


流石、ベテラン司会者の青柳松子さん、表情の固いサヤカの気持ちを解すように尋ねる。

「そうですね、幼い頃からモデルの仕事を頂いて、自分を見つめ直す為にお休みを頂きました、同世代の友人も出来て、これからは学業優先で年に一つだけCMの仕事を請けたいと思いますので、ファンと一般の方も応援してください」


「年間一本だけのCMとは、サヤカちゃんは貴重な存在ですね」

「松子さん、ごめんなさい、上手く笑顔が出来なくて、機嫌が悪い訳じゃないです」


「そうよね、私がサヤカちゃんを虐めてないよね、学校の勉強も頑張ってね。今日のゲストは学業優先でモデルに復帰した天野サヤカちゃんでした」


司会の青柳松子さんは上手く番組を締めた。


「これって、どうなの裕人君?」

奈央さんの問いに、

「僕はこの番組を見てない事にして下さい、天野サヤカさんが何か言うまで知らない振りします、あいさんにも言わないください」


「裕人君が言うならそうするけど、本当に良いの?」

「転校してきて今の中学で友達も出来て、僕が関わる必要が無いです」


優しい奈央ねえさんと過ごす時間に僕は癒されていたが、それから何となく気不味くなり、甘々な奈央さんの膝枕で耳搔きも無く、僕は家に帰りたくなった。


週明けの月曜日が不安に成る・・・

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