幼馴染と付き合い始めたことを義妹に報告したら、その日の夜に「兄さんは騙されているんです」と泣きながら壊れていた義妹に壊されて、兄妹だけの夏を過ごすだけのお話

くろねこどらごん

第1話

 喉の熱さで、目が覚めた


「ぅ、ぁぁ、ぁぁ……」


 声にならない声が出る。

 うめきと変わらないそれが、自分の喉から出たと気付くのに、少し時間がかかったが、それよりも体が熱かった。

 背中にはびっしょりと汗をかいてたし、視界に広がる白い天井がゆらゆらと揺れている。

 少しの間見上げていただけで、すぐに具合が悪くなった。


 気持ちが悪い。吐きそうだ。


 なんとか堪えようと、体を楽な体勢にするべく動かそうとするが、途端、鋭い痛みが手足を襲う。


「あ、がっ…!」


 神経に針を刺されたような強烈な激痛は、すぐさま全身を駆け抜け、脳に動くなと命令する。

 強制的に、俺は停止せざるを得なかった。あまりの痛みに上書きされたのか、吐き気が収まったことだけは良かったが、それ以外は全然良くなかった。

 未だ体は仰向けで、視線は宙を向いたまま。

 始めとなにも変わっていない。変えることが出来ていない。それなのに、ただ痛みだけが増していく。


「ぁ、か、は、ぁっ…」


 呼吸が上手く出来ない。

 体が痛い。喉が熱い。目から涙が滲んで視界が霞む。


「だ、ず。ぅ、ぇぇ……」


 助けてくれ。

 そう叫びたいのに、声が出ない。喉が枯れているのだろうか、

 じゃあ体は?動かせない。上手く言うことを聞かない。

 なんでだと思うより先に、明滅する視界の端で、それを捉えた。


 グルグルと、白い包帯に巻かれた、自分の腕。そして足を。


「ぐ、ぅ…!」


 ズキリと、頭が痛む。

 だけど、さっきまでの痛みとは違う。

 頭の中がズキズキするのだ。まるでなにかを思い出しかけて、それを拒んでるかのような。


 ああ、クソ。思考がまとまらない。そうだ。水が、水分が足りないんだ。

 だから喉がクソみたいに熱い。そもそも今は夏場なのに、なんでこの部屋はクーラーついてないんだよ。

 文句が言いたくても言えない歯がゆさを感じながら、俺は五体の中で唯一痛みを生じない首だけを左右に動かし、眼球を彷徨わせた。


 近くに水分を摂取できるものはないだろうか。

 ペットボトル。コップ。皿。なんでもいい。

 手に取ることが出来れば…この手で取れるのか?

 いや、首は動かせる。動かないなら、舐めればいい。今は死活問題だ。このままじゃ、暑さと熱さで死んじまう。

 なにか、なにか、飲み物を…そう思っていた時だ。


 ガチャリ


 不意に、なにか物音がした。


「ぇ、ぁ…」


 なにかが開くような音。次いで、重い何かが閉じる音が聞こえた。

 遠いのか近いのか、それすらもあやふやな中で、足音のような物音を耳が捉える。

 誰かがこの場所に入ってたんだ。そして多分その人は、こっちに近づいてきてる。

 そう直感し、俺は残っていた力を振り絞り、声をあげた。


「ご、こぉ、だぁ…」


 ここにいると言おうとしたのに、たった5文字すら発音出来ない自分に驚きと失望の念が襲ってくる。

 だけど、気付いてもらえることに成功したのか、足音のリズムが確実に早まった。

 トン、トンという音がする。多分階段を昇っているんだろう。俺がいる場所はどうやら2階らしかった。


 だけど、今はそんなことはどうでもいい。

 早く、早く来てくれと、ただそれだけを俺は望んでいた。

 そして、ついにすぐ近くで足音が止まる。すぎに部屋のドアが開けられた。


 ガチャリ


 その音に俺は安堵した。

 ああ、これで助かった。俺は死ななくて済んだのだ。

 安堵の息を吐いた瞬間、その声は聞こえてきた。


「お待たせしました。兄さん♪」


 息が止まった。


「ごめんなさい、お待たせしちゃって。お店開くの、遅かったものですから。コンビニと違って不便ですよね。ドラッグストアでも、9時からしか開かないんですもん。おかげで30分も、兄さんを一人にしてしまいました」


 比喩ではなく、全身が硬直した。

 あの地獄のような時間が、たった30分でしかなかったなんて事実も、すぐに頭から吹き飛んだ。

 寝汗で気持ち悪かった背中に、今度は冷や汗が垂れ落ちる。


「すぐに買い物は済ませましたから、待たせてしまった分、今日はずぅっと傍にいますからね。包帯も取り替えないといけませんし。ああ、汗もひどいです。熱も出てるんでしょうか。すぐに水を飲ませてあげますよ。私にも看病ができるってこと、兄さんに教えてあげますから」


 早口で喋るその声は、俺以上に熱に浮かれていた。

 記憶が蘇ってくる。痛みと恐怖が襲いかかる。

 そして思う。どの口が言うんだろうかと。

 だって、俺をこうしたのは―――



 ピンポーン



「…………ッチ」


 また音がした。電子音。チャイムの音。舌打ちの音。立ち上がる音。


「あの女、また来たんですか。本当に懲りない。いつもいつも、ふたりきりになる邪魔をして。また兄さんを騙して、私から奪おうとする。理解できない。兄さんはもう私だけの人なんだから」


 そう呟いて、そいつはドアの方へと歩いていく。


「兄さん、少しだけ待っていてくださいね。追い払ってきますから。すぐにまた、二人だけの時間を過ごしましょう」


 ―――そうすれば、兄さんも分かってくれますよね


 あの時と同じ言葉を口にして、そいつはドアを開く。


「ぁ、ぁぁぁ……」


 体が震えた。歯がガチガチと、噛み合わない音を出す。

 また、声にならない声が出る。


 なにを言ってるんだ。

 なにを分かれっていうんだ。

 そう言いたいのに、声が出ない。

 だけど、かろうじてそいつの名前を言うことだけは出来た。


「す、ず、か…」


 鈴香すずか。俺の義妹。小さい頃に家族になって、守らなきゃって思った、大切な存在。

 引っ込み思案で大人しくて、優しい妹だと、ずっと思ってた女の子。


「はい♪ではいってきます。愛してますよ、兄さん。あの女より、ずぅっと」


 その子は振り返ると満面の笑みを俺に見せた。

 なんでそんな顔ができるんだろう。単純な疑問と恐怖が浮かんでくる。



 バタン



 扉はあっさりと閉められた。

 まるで俺を、逃がさないとでも言うかのように。

 事実俺は逃げられない。体が言うことを聞かない。


 ああ、思い出した。今度こそ、本当に。


 逃げるための手足は、とっくに妹によって壊されていたこと。



 そして自分は今、妹に監禁されていることを。




 ※




「え、と。今なんて言ったんだ?」


 それは数日前のこと。

 俺こと周防慶太すおうけいたは、幼馴染である篠生由乃しのうゆのに呼び出されていた。


「だ、だから、私はアンタのことが、好きだって言ったのよ!」


 叫ぶように俺のことを好きだと言ってくる由乃の顔は、真っ赤だった。

 滅多に見ない幼馴染の照れた顔を見て、「そうなんだ」と返すだけで、俺は精一杯だった。

 気が強いところのあるこの幼馴染とは、小学校の頃から付き合いのある腐れ縁だ。

 昔から喧嘩友達のような仲で、気のおけない親友のような相手だと、俺としてはそう思っていたのだが、由乃からすれば違ったらしい。


「慶太は私のこと、どう思ってるの…?」


 不安そうに聞いてくる由乃の態度は、さっきとは打って変わってしおらしいものだった。

 失礼だけど、そういえば由乃も女の子だったんだなと思ってしまう。

 学校では人気者で、由乃と付き合いたいという男子は身近に何人もいたが、俺はあまり意識したことがなかった。

 それくらい俺達の距離は近かったのだ。俺には妹がいたが、それこそ家族のように感じていたと思う。

 だから呼び出された時も告白されるなんて思ってなかったし、こうして聞かれてもあまり実感が湧かなかった。

 ただひとつ言えるのは、俺が由乃を嫌いなはずがないということだけだ。


「好き、だと思う…」


「ほんと!?」


 自分の気持ちを確かめるように、噛み締めながら返事をすると、由乃の顔が途端にパッと輝いた。

 さっきまで不安そうにしてたのに、今は本当に嬉しそうに瞳を輝かせて俺を見てくる。

 こんな目を向けられて、断ることなんて出来そうにない。

 コクリと小さく頷くと、由乃は下を向いて、また顔を赤く染めていた。


「じゃ、じゃあ告白はOKってことでいいわよね…」


「あ、ああ…」


「い、今更嘘だって言っても、もう取り消すなんて無理だからね!私達はもうこれからは恋人同士なんだから!夏休みだし、一緒に色んなところに行ってもらうわよ!海とかお祭りとか、デ、デ、デ、デートするんだからね!!」


 プルプルと震えながら俺を指差して、そう宣言してくる由乃。

 その様子がなんだかおかしくて、俺は思わず笑ってしまった。


「な、なんで笑うのよ!?」


「いや、だってさ。それ、去年も行ってるじゃないか。そんな顔真っ赤にして言わなくてもいいだろ」


「そんなことないわよ。これまでは鈴香も一緒だったじゃない。今年はふたりっきりで行きたいの。ふたりで思い出を作りたい…幼馴染じゃなく、こ、恋人として…」


 本当に恥ずかしそうに由乃は言う。

 それを見て意外というか、由乃にもそういう願望みたいなものがあったんだなと思った。

 勿論口に出すことはしなかったが、俺は少し困ってしまう。


「由乃の言いたいことは分かった。でも、そうなると鈴香に説明しないといけないな…俺達が、付き合い始めたことも含めて」


 俺の妹、周防鈴香は少しばかり距離が近いというか、ブラコン気味なところのある子だった。

 休日になっても友達との約束より、兄である俺といることや出かけることを優先するような性格と言えばわかりやすいだろうか。

 それは兄妹共通の幼馴染である由乃相手でも例外ではない。

 俺の場合、一緒に遊びに出かける相手は専ら由乃だったが、それに合わせるように鈴香はほぼ毎回くっついてくるのだ。

 俺もそんな鈴香を可愛がっていたので、特に気にしたことはなかったが、由乃の気持ちを聞いた後だと、歯がゆいものがあったのではないかと、少し申し訳なく思ってしまった。


「うん、そうね…今日にでも、ふたりで説明しましょうか」


「いや、俺ひとりでいいよ。そろそろ兄貴離れさせるいい機会かもしれないしな。いつまでもべったりは良くないって、前から思っていたところだ」


 だから俺は、あんな行動に出てしまったのだ。

 由乃からの提案を断って、自分ひとりで説得できると考えてしまった。


「ふふっ、そうね。鈴香ちゃんはモテるし、案外すぐに彼氏も出来るんじゃない?」


「うっ。それは…いやいやいや、出来るとは決まってないし。確かに鈴香はめっちゃ可愛いけど、そんな軽い子じゃないし!」


「…慶太ってやっぱりシスコンよね。それで本当に大丈夫なの?」


「大丈夫だ…とにかく、鈴香への説明は俺に任せてくれ」


 そう言って、俺は新たに出来た恋人に胸を張った。


 それがどんな馬鹿な行動で、どんな結果につながるかも、気付かずに。



 ※



「ただいま」


 浮ついた気分を伴ったまま、俺は家に帰っていた。

 時刻は夕方。オレンジ色の夕暮れの中、由乃と一緒に歩いてここまで来たはずなのだが、会話を交わすことはまるでなかった。

 由乃は恥ずかしげに俯いたままだったし、俺は俺で恋人になった幼馴染との付き合い方というものを測りかねていたからだ。

 それでも家路への分かれ道、いざ別れるとなったときに、由乃は俺の頬へと顔を近づけてきた。

 柔らかい感触が一瞬頬に触れた後、由乃は駆け出してあっという間に去っていったが、揺れる髪の間から見えた耳は真っ赤だったように思う。


 それはきっと、夕日のせいではなかっただろう。俺も同じくらい耳を真っ赤になっていた自覚がある。

 妹に見られたくなかったから少し時間を置いて帰宅してはいたものの、あの感触はまだ頬に残っている…今日は顔を洗わないでおこう、うん。そう決めた。


 ただ、夕方とあっても今は夏だ。

 緊張もしてたし、暑さのせいもあって、喉が渇いた。

 なにか飲み物を口にしようと思いリビングに向かうと、キッチンの方から人の気配を感じる。

 それが誰かなんて考えるまでもない。警戒もなにもせずドアを開けると、長い黒髪の少女の姿が視界にはいった。


「ただいま、鈴香」


「おかえりなさい、兄さん」


 料理をしていた手を止めて、その子は俺と挨拶を交わした。

 その顔には柔らかい笑みが浮かんでおり、垂れ目気味の目元と相まって、とても優しそうな雰囲気を醸し出している。

 事実、周防鈴香は、とても優しい性格をした、俺の自慢の妹だった。


「ちょうど良かったです。夕御飯もうすぐ出来ますから、少し待っていて下さい」


 そう微笑むと、鈴鹿は目線を手元へと戻した。

 両親は長期の出張のため、揃って海外へ渡っており、現在の我が家の家事は鈴香が一手に引き受けている状態だ。

 兄として不甲斐ない限りだが、下手に手を出しても家事万能の妹の足でまといにしかならず、完全に任せる形になっていた。

 申し訳なく思いつつ、俺は料理をする妹の背後にある冷蔵庫の前へと移動すると、中からペットボトルを取り出し一気に煽る。

 喉を通る冷えた感覚を心地よく思いながら、文字通り一息つけた俺は、妹に背を向けたまま話しかける。


「なぁ、鈴香」


「はい。なんですか兄さん」


 トントントンと、リズムよく包丁で材料を刻む音を耳にしつつ、俺は話を切り出した。


「俺さ、由乃と付き合うことになったんだ」


 トンッ!!!


 そう告げた瞬間、一際強くまな板を叩く包丁の音が、リビングに響いた。


「っ!?す、鈴香?」


 その音に一瞬ビクついてしまい、おそるおそる妹の名前を呼びかけてしまう。

 いつもならすぐこっちを振り向いて目を合わせてくれるのに、何故か今の鈴香は振り向くことなくその動きを止めている。

 俺はもう一度、妹に声をかけた。


「鈴香、どうしたんだ…?」


「―――いえ、すみません。ちょっと、びっくりしちゃいまして」


 そう答えると、再び料理を再会する鈴香。

 相変わらずこちらを振り向かないが、聞こえてくる声はいつもと変わらず、落ち着いているように感じられる。


「そうか、とにかくその、そういうわけだから。俺、一旦部屋に戻って着替えてくるわ。すぐ戻るよ」


 こっちを向けとも言えないし、大丈夫だろうと判断した俺は、一度話を締めくくることにした。

 今は俺と由乃が付き合い始めた事実を告げることができただけでも十分だ。

 俺だって未だに動揺しているし、鈴香もそうなのだろう。後のことは追々伝えていけばいい。

 そう思っていたのだが―――


「兄さん」


 キッチンに背を向けて、ドアの取っ手に手をかけた瞬間、鈴香に呼び止められていた。


「なんだ?」


「そうなると、私は兄さん達が出かける時は、もう一緒に遊びに行かないほうがいいんですかね?」


 こちらの内心を見透かしていたかのような鈴香の言葉に、俺は動揺を隠せなかった。


「それは…」


「どうなのでしょう、兄さん」


 間髪入れず飛んでくる声。

 …下手な誤魔化しは通用しそうにない。

 元々、鈴香は俺よりずっと聡い女の子だ。初めて会った時からそうだった。

 親の再婚で俺達が家族になった時も、周りに気を遣って明るく振舞うような、優しい子だった。

 だけど同時に寂しがり屋で、親が仕事で忙しくて家に帰って来ない夜なんかはいつもベッドの中でうずくまっていたことを思い出す。

 自分から寂しいと言い出せず、ひとりで泣くような、そんな子でもあった。


 だからそういう時は俺が兄貴として、ベッドの中に強引に潜り込んで、よく抱きしめてやったものだ。

 俺がいるから寂しくないよと言い聞かせて、眠るまでずっと腕の中に抱きしめ続けたのだ。

 今じゃ絶対できないが、そうやっていつも傍にいたら、いつの間にか鈴香は俺に懐いてくれて、彼女のほうから俺にくっついてくれるようになったことを、今更ながら思い出す。

 あれから随分時間が流れたが、今も鈴香は俺に対して甘えてくれる。

 それは嬉しいことでもあってけど、そろそろお互いに距離を取ったほうがいいんだろう。

 そう思い、俺は口を開いた。


「……ああ。そうだな。そうすべきだと思う」


 俺は兄貴で、鈴香は妹なのだから。


「俺とふたりの思い出が欲しいって、由乃に言われたんだ。俺も恋人になった以上、なるべく由乃の願うことを優先してやりたいと思ってる」


「…………そう、ですか。分かり、ました」


 それ以上の返事は、返ってこなかった。

 俺もこれ以上なにかを言うつもりもなく、ドアを開けてリビングから廊下へと出る。

 途端、重いため息が口からこぼれた。


「これで、良かったんだよな」


 そして、誰に言うでもない呟きを宙に向けた。

 これで良かったんだ。俺は由乃と付き合って、鈴香もいずれ誰かと付き合うだろう。

 鈴鹿にとっても兄離れする、いい機会になったはずだ。

 そう自分を納得させて、その場から離れて自分の部屋へと足を向けた。


「――――すね、兄さん」


 だから知らなかった。

 その時キッチンで、鈴香がどんな顔をしていたのか。なにを呟いていたのか。


「私が助けてあげますから、兄さん」


 俺は知ろうとしなかったし、気付くことも出来なかった。




 ※




 ギシリと、ベッドが軋む音で目が覚めた



「ん、あ…?」


 まぶたを開くと、暗い天井が見えた。

 まだ夜中だとすぐに思い、俺はもう一度目を瞑る。

 起きるべきではない時間に起きてしまったなら、寝直すのが当たり前のことだ。

 そう思い、再びまどろみの中に落ちようとしたのだが―――


「目が覚めてしまったのですか、兄さん」


 不意に、声が飛んでくる。

 当たり前ではない、俺の部屋から聞こえてくるはずのない声が。


「起きてしまったなら、仕方ありませんね。もう少し眠っていたほうが―――いえ、麻酔を用意出来なかった以上、どの道起きることにはなっていたのでしょうけど」


 また声がする。ハッキリと聞こえる。夢じゃ、ない。

 そのことに気付くと、閉じかけたまぶたを再び開けた。すると―――


「すず、か?」


「はい、おはようございます。兄さん」


 妹が、そこにいた。

 ベッドに腰掛けて、いつもの優しい笑みを俺に向けてくる鈴香がいた。


「な、ん―――」


 なんでと言おうとして、違和感を覚える。

 上手く喋れない。まるで呂律が回らず、言葉を言葉として発することができない。

 どういうことか分からず戸惑っていると、俺の様子をじっと見ていた鈴香の口が小さく開く。


「ああ、薬は効いているようですね。良かったです。暴れられると困ってしまいますから」


「―――!」


 なにを言われたのか、一瞬分からなかった。


「申し訳ありません。兄さんのご飯に、ちょっとちょっとお薬を混ぜさせてもらいました。男である兄さんに抵抗されたら、私ではどうしようもありませんから」


「な、に、を」


 本当に、鈴香はなにを言っているんだ。

 理解できず呆然としていると、鈴香がゆっくり立ち上がり、


「兄さんは、騙されているんですよ」


 そんなことを、ポツリと言った。


「は―――?」


 騙されている?なにを?誰に?

 疑問が頭を駆け巡る中、鈴鹿がベッドに足をかけ、上に乗る。

 気付かなかったが、寝る前に体の上にかけていた布団は、いつの間にかなくなっていた。

 二人分の体重がのしかかったベッドが、ぎしりを音を立て、軋む。


「あの人は、私から兄さんを奪おうとしているんです。私のほうが先に出会い、私のほうが先に兄さんを好きになったのに。あの人は後から現れた癖に、横から兄さんを攫おうとしている。そんなどうしようもなく、ひどい人なんですよ」


 言いながら、鈴香は俺の体の上に跨った。

 腹に尻をつけた、所謂マウントポジション。

 重さは感じなかった。鈴香が軽いのは勿論なのだが、そういう意味ではなく本当に感覚を感じないのだ。薬の影響なのだろうか。動けない分、思考だけが加速していく。


「―――なら、渡せるはずないでしょう。兄さんはとても優しい人だから、卑しいクズでも惹きつけてしまったんです。あの女の口車に、兄さんは乗せられてしまったんです。兄さんは、私だけの兄さんなのに…」


 ―――だからほら、兄さんは騙されているんですよ


 そんなことを、いつもの優しい笑みで、鈴香は語った。


「は、ぁ……?」


 理解できない。

 頭が働いているはずなのに、なにを言っているのか分からない。

 ずっと一緒にいた妹の言動が、まるで宇宙人のそれに思えた。

 だけど、理解できない事態は続いていく。


「安心してください、兄さん」


 笑顔だった鈴香の顔が、決意を秘めたそれに変化していく。


 妹の手には、いつの間にか鈍く光るナニカが握られていた。


「私が兄さんの目を覚まさせます。あの女から、兄さんを必ず解放してあげますからね」


 それを見た途端、頭の中で警報が鳴り響く。


 ―――あれは、ハンマーじゃ、ない、だろうか


「だから、少しだけ。少しだけ我慢してください兄さん。そうすれば、すぐに終わりますから」


 やめろと声を張り上げかけた瞬間、鈴鹿の手が伸びてくる。

 口の中に強引になにかを詰め込まれ、俺は声を出すことすらできなくなった。


「私が、兄さんを救いますから」


 驚愕に目を見開いた俺が見たのは、目尻に涙を浮かべてハンマーを持った腕を振りかぶる、大切だったはずの妹の姿だった。





 ※





 嫌な感触が、私を襲う。

 嫌悪感から、目をそらしたくなる。

 それでも私は、また最愛の人に向かって大きく腕を振り上げた。


 ガンッ!


「ぐふっ!」


 口の中に詰め込んだ布を通しても、兄さんの悲痛な声が耳に届く。

 伝わる感触は、やっぱり最悪だった。

 当然だ。誰が最愛の人の苦しむ姿を見て、誰が喜ぶというのだろうか。

 私にはサディスティックな趣味などないし、こんなことなんてしたくない。

 本当ならごめんなさいと謝りながら、すぐに兄さんを抱きしめてあげたかった。


 ガンッ!


「ガァッ!」


 でも出来ない。

 ここで辞めてしまったら、兄さんはまたあの女に会うだろう。

 そして騙されてしまう。そんなの、許せるはずがない。


 ガンッ!


「あがっ!」


 だから、あの女に会わせないために。

 私だけの兄さんでいてもらうために。私は心を鬼にして、兄さんを壊すのだ。


 ガンッ!!!


「あ、ぎぃっっっ!!!」


 一際甲高い悲鳴が、兄さんの口から漏れる。

 ようやっと、左手の関節を壊すことが出来たようだ。

 非力な自分が呪わしかった。私にもっと力があったなら、こんなに兄さんを苦しめることもなかったのに。ハンマーを振るうたびに跳ねる兄さんの体を押さえ込むだけで、もうかなりの体力を持って行かれていた。

 でも、まだ両足が残ってる。私は兄さんの顔に背を向けて、右足の膝へと狙いを定めた。


 ガンッ


「グゥッ!?」


 兄さん、貴方は騙されているんです


 ガンッ


「ギャッ!」


 兄さん、私が貴方を救いますから


 ガンッ


 兄さん、私だって辛いんです


 ガンッ


 兄さんのことを、心から愛しています


 ガンッ


 だから、兄さんを苦しめたくなんてないんです


 ガンッ


 それでも、貴方を救うためにはこうするしかないんです


 ガンッ


 兄さんなら、分かってくれますよね?私を嫌いになんてなりませんよね?


 ガンッ


 分かってます。分かってますよ兄さん。大丈夫です、私がついています。この試練を、兄妹で一緒に乗り越えましょう?


 ガンッ


 あの時抱きしめてくれた暖かさを、私は今でも覚えています


 ガンッ


 今度は、私が恩を返す番です


 ガンッ


 だから、もう少しだけ我慢してください


 ガンッガンッガンッガンッガンッガンッガンッガンッガンッ


 兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん



 ―――ガンッ!!!



 私が、必ず兄さんを救いますから







 ※




「それじゃ、まだ慶太の風邪は長引いてるの?」


「ええ、そうです。だから、まだ会わせることは出来ません。伝染ってしまったら大変ですので」


「…メッセージも返してくれないのよ。それくらい、まだ具合が悪いってこと?」


「ええ、今は熱が高くって、ひとりで身動きも取れない状態なんです」


「なら、やっぱり私も…!」


「大丈夫です。家族である私が全てお世話をしますから。治ったらこちらから連絡しますので、由乃さんはそれまで連絡をしないでもらえますか。やることが多いですので」


「そんな…!まっ…」



 バタン



 ドアを閉めると、五月蝿い女の顔がようやっと見えなくなった。


「ふぅ…」


 ああ、うっとおしい。

 あの調子じゃ、きっとまた来るでしょう。

 あのしつこさを見ると、自分のしたことの正しさがよく分かる。

 あの日、私がしたことは間違いじゃなかったと、心の底から思えた。


「もう兄さんを騙させなんてしないんだから…」


 兄さんには私がいればいい。

 あの女も、なにもかもがいらない。

 これから私達は兄妹で、たくさんの思い出を作る。


 急ぎ足で階段を上り、部屋のドアに手をかける。

 そこにはあの人がいて、私が傍にずっといる。

 それだけでいい。それだけで、私達は満たされる。


「戻りましたよ、兄さん」


 そう声をかけて、私は兄さんの部屋へと戻る。


 私が兄さんを私だけで満たして、私も兄さんだけで満たされる。

 そうすることで、兄さんを救うことが出来るのだ。

 あの頃私がそうしてもらったように、今度は私が兄さんを抱きしめてあげる。

 私がそうであるように、私以外いらないんだって、兄さんにも思ってもらいたい。


 大丈夫。だって夏休みは、まだ始まったばかりなんだから。

 海も。祭りも。花火も。

 なにもかもがいらない。この家で、私と兄さんのふたりがいれば、それで十分だ。



 私達は、二人きり。


 この夏の間、ずっと。ずぅっと。



 それを証明してくれるかのように、後ろ手にドアが、バタリと閉まった。

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