エピローグ

「具合はどうだい?」


 アオイは窓の外の景色をぼんやり眺めていたが、イワタニに声を掛けられてそちらを向く。


「良い感じです」

「それは何よりだ」

「そういうわけで、煙草を吸ってもいいですか?」

「駄目に決まってるだろう。退院までは安静にしていなさい。これを機にやめることを勧めるよ」

「……考えておきます」


 口寂しいが、仕方ない。アオイは溜息を吐くだけに留めた。

 シンとの戦いから一週間が過ぎた。イワタニの病院に運び込まれ、縫合や輸血といった治療を受けた。それから丸一日寝たきりだったようだが、目を覚ましてからは比較的健康だ。

 すぐにでも退院できそうな体感ではあったけれど、流石にそういうわけにもいかなかった。

 その後、数日間は病室で安静に過ごしながら検査を行い、今朝には一通りの抜糸も終えたので、明日にはようやく退院しても良いということだった。


「退院する前にこの名簿に名前と以前の職業を書いて欲しい」


 そう言って渡された紙には色々な人の名前と職業名がズラリと並んでいた。このコミュニティにいる人間を管理する為の物だろう。

 それを見ていると、久しぶりに文字としての名前を意識した気がする。今の世界では相手の名前を文字で見ることはほとんどない。その上、他者との関わりが少ないとどうしても音で認識するようになってしまいがちだ。

 少なくともしばらくはここで過ごすなら、感覚を取り戻しておいた方が良いだろう。


 名前は『草壁くさかべ あおい』、職業は『自衛官』と書き記す。自分の名前を書くのも何年ぶりか分からない。奇妙な感覚だ。

 その後、自分の一つ上に書かれた名前に目を引かれた。そこには拙い字で『穂村ほむら 美生みう』と書かれていた。


「これって……」

「ああ、ミウ君には先に書いてもらったよ」


 やはりこれが彼女の名前らしい。こう書くことを初めて知った。

 美しい生と書いて、か。彼女に良く合った名前だ。心の底からそう思う。




 翌日、退院したアオイは病院――『巖谷いわたにクリニック』を出ると、目の前の道路沿いに歩いて行き、広大な畑となっている公園へと向かった。

 ミウが見舞いに来ることは一度もなかった。その様子は人づてには聞いていたが、毎日元気に働いているらしい。何をやらせても筋が良い、と褒める人ばかりだった。それは自分事のように嬉しく思えた。


 もし彼女が会うことを望まないのなら、それも構わない。やはり両親の仇を許すことは出来ない、と思い直したのかもしれない。ただ、一度はこちらから会いに行こう。

 外からでは見えない場所も多いので公園内に入っていくと、近くにいた女性に声を掛けられた。


「あらま。アオイちゃん、退院したのかい?」


 マチダのおばさんが声を掛けてきた。見舞いにも来てくれた、気っ風の良い人だ。それを皮切りに他の人達もゾロゾロと集まってきた。無数の質問が飛び交って困惑する。申し訳ないが、今はのんびりと会話をしに来たわけではない。感謝の気持ちを伝えて、本題を切り出す。


「誰か、ミウがどこにいるか分かりますか?」


 多くは芳しい反応を見せなかったが、一人の老男性が答えてくれる。


「ミウちゃんなら学校の屋上じゃないかね。風が気持ち良いから休憩中は良く行く、と前に言っておったぞ」

「ありがとうございます。行ってみます」


 それは可能性の高そうな情報だった。会釈をし、隣の学校へ向かう。

 校舎に着くと、階段を上り始めた。四階まで行くのは病み上がりには少し堪える。

 軽く息を切らしながらも無事に上り切ると、屋上の扉の前に来た。

 果たして、ミウはここにいるのだろうか。


 金属製の扉を開けると、ガラガラと大きな音が鳴る。外からぶわっと風が吹き込んできた。思わず目を細めたことで朧気だった光景が次第に明瞭になっていく。

 四辺を金網に囲まれた空間。ミウはその中心に立っており、こちらを向いていた。

 屋上に足を踏み入れると、そこは緩やかで心地良い風が吹いていて、彼女の肩に掛かる程度の髪をふわりとたなびかせた。


「アオイ、動けるようになったんだね。良かった」


 そう言って、穏やかに笑みを浮かべるミウは、以前のような天真爛漫さが鳴りを潜めており、大人びて見えた。

 日に日に心身ともに成長する年頃だからか、それとも一週間前の出来事が原因か。何にせよ、彼女にとって良い変化であることを願う。

 会うことを拒まれていない様子なのは良かった。何から話そうか。そう思い迷っていると、先にミウが口を開いた。


「ねぇ、アオイ。わたし、たくさんたくさん考えたよ。それでね、決めたことがあるんだ。聞いてくれる?」

「……ああ、もちろん」


 ミウの言葉からは何らかの強い覚悟が感じ取れた。

 けれど、その内容は分からない。この身にとっては良くないことかもしれない。

 ただ、それがどんなことでも受け止めようと思う。その為にこうして彼女の前に立つことを選んだのだから。


「パパとママは他の人達にとっては悪い人だった。それはその通りなんだと思う。でも、わたしにとっては誰より優しい人達で、大切な家族だった。だから、それを奪ったアオイをやっぱり許すことは出来ない。復讐、しなきゃって思う」

「そう……なら、いいよ」


 これまで多くの人を悪だと断じ、己のエゴで抹殺してきた。しかし、彼らには彼らなりの善悪の論理があって、それに従い生きていたに過ぎない。

 誰かの生を奪う権利なんて誰にもあるはずがない。だから、犯した罪は償う必要がある。

 そして、その罰を与える者は、そんなエゴに巻き込まれた一人のミウこそ相応しい。


「っ……!」


 ミウはキッとこちらを睨むと、地面を強く蹴った。疾風のように駆けて迫ってくる。

 身構える必要もない。たとえその手にナイフが握られていようが、首に手を掛けられようが、身を任せよう。

 数瞬の後、接触した。しかし、衝撃はほとんどなく、胸元でぽふっと音が鳴っただけ。

 抱き締められていた。痛みや苦しみが襲うことはない。ミウは密着した状態で言う。


「アオイは優しいから、きっとわたしと一緒にいるだけでも苦しむんだと思う。でも、離れてなんてあげない。ずっと苦しんで苦しんで、それでも一緒に生き続けて、皆の為に頑張ってもらう。それがわたしの復讐」


 それでは罰にはならない。ただの幸せな日々になってしまう。そう思った。

 けれど、ミウがそれを望むなら、望んでくれるなら、その復讐あいを受け取ろう。


「……分かった。ちゃんと果たさせるよ」


 そう答えて、アオイは抱き締め返した。以前のように躊躇いはしない。自分に資格がないとは思わない。こうしたいと思えることをするのだ。

 ミウは僅かに身を強張らせたが、嫌がってはいないと感じられた。

 今こそ、これまで言えなかったことを言うべき時だと思う。


「私も、ミウのことが大切なんだ。これからも私と一緒にいて欲しい」


 初めて誰かへの想いを素直に口にした。それは恥ずかしい気持ちもあったが、心が透き通っていくような清々しさが遥かに勝っていた。

 顔を上げたミウは涙を滲ませながら頷く。


「うんっ」


 アオイはふと屋上からの景色に目を遣った。日が暮れかかっており、荒廃した町並みが血に染まって見える。

 じきに夜が訪れ、世界は暗闇に覆われるだろう。けれど、そこで終わりではない。また日は昇り、朝が来る。


 同じように人類は今、闇夜の只中にいるのかもしれない。それでも、必ず夜明けは訪れる。曙光が世界を照らしてくれる。

 あの日、ミウの在り方に見た美しさを忘れない。あれこそが自分にとっての善であり正しさだと思える。そう信じて、生きていこう。

 こうして誰かと手を繋ぐだけで、希望の火は灯り続けるはずなのだから。

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Beautiful life 吉野玄冬 @TALISKER7

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