第12話

 ミウは学校や隣の公園を一人で見て回った。

 どちらの敷地も埋め尽くしている畑では、子供も大人も関係なく働いているようだった。それでも、決して辛そうにではなく、手足を動かしながらも雑談していたりで、外とは違い誰もが楽しそうに過ごしていた。

 何を植えているのだろう、と近くで見ていると、タオルを頭に巻いた女性に声を掛けられた。


「おや、見ない顔だねぇ。良かったら、やってみるかい?」

「えっと……はい、やってみたい、です」


 少し迷ったが、コクリと頷いた。こんなことはアオイの家でもしていなかったので、興味があった。


「あっはっは、無理に敬語なんて使わなくても良いよ。この溝の中にこれくらいの間隔で、種を置いていくんだ。こんな風にね。出来るかい?」

「うん、大丈夫」


 さっきまでその人がしていたように、少し腰を屈めて受け取った種を置いていく。


「そうそう、その調子」

「これは何の種?」

「キャベツさ。この溝は全部ね。向こうにはトマトだったりピーマンだったりもあるよ」

「うっ、ピーマンは苦手……」

「子供だねぇ。何でも食べなきゃ大きくなれないよ」


 バシバシと背中を叩かれる。ちょっと痛い。けれど、嫌ではなかった。こんな風に誰かと接するのが懐かしかった。


「あんた、名前は何て言うんだい?」

「ミウ」

「良い名前だね。ミウは前からここにいたっけ? 知らない顔はないはずなんだけど、何せおばさんも良い年だからねぇ、忘れてるだけなら悪いね」

「ううん、わたしはさっき来たの。アオイと一緒に」


「ああ、なるほど。アオイちゃんが連れてきた子か」

「アオイを知ってるの?」

「もちろん。いつも彼女が色々と持ってきてくれるお陰で、あたしらは随分と助かってるのさ」


 入口の人達といい、この人といい、アオイが尊敬されていることが伝わってくる。それは自分事のように嬉しかった。


「おっ、そこまでで十分さ。お疲れさん。正確だしスピードもあって筋が良いよ」


 褒められたが、自分では良く分からなかった。アオイに色々と教わって鍛えられているからかもしれない。


「これ、持っていきな」


 透明な袋を渡され、中には玉ねぎがいくつか入っていた。


「えっ、こんなのもらえない! ちょっと手伝っただけなのに……」

「働かざる者食うべからず、ということは、働いた者は食っていいのさ。もしアオイちゃんに会うなら、マチダのおばさんがよろしく言ってたって伝えといておくれ」


 そう言って、返させてはくれなかった。なので、素直に受け取ることにする。


「……うん、分かった、ちゃんと伝える」

「頼んだよ」


 ミウは手を振りながらその場を離れた。何だかポカポカと暖かい気持ちになった。力強くて、優しい人だった。ふと母のことを思い出して、胸がチクリと痛んだ。せめて両親の仇だけはこの手で取ってみせる。

 そろそろ戻ろうか。そう思って、学校の方へと歩き始める。

 その瞬間、ミウの胸中に一筋の稲妻のような衝撃が走った。


「……っ!?」


 思わず貰った袋を落としてしまったが、それどころではない。視界の端を掠めたものを改めて注視する。

 そこでは何人かの男達が働いていた。その内の一人。周りに馴染んでいるようだ。頬に傷はない。けれど、間違いない。その顔を忘れるものか。

 それは、両親を殺したあの男だった。




 ミウは驚くほどの幸運に恵まれたことを感じる。しかし、周りに人がいる中でいきなり襲い掛かることは流石に出来ないので、離れた場所から見張ることにした。

 絶対に見逃してはならない。このまま見張り続け、人気のない場所に行ったところで、殺す。

 懐のホルダーに入った拳銃に手を当てる。よし、ちゃんと持ってきている。腰裏にはナイフもある。準備はバッチリだ。


 少しして、その男は都合良く移動を始めた。休憩だろうか。どこに行くのかは分からないが、この密集している場所から離れてくれれば、どうとでもなる。

 男は学校側に行くと、角を曲がった。そこは校舎と校舎の間になっており、校門側からも運動場からも見えない場所だ。

 今しかない。そう判断し、拳銃を取り出して構えたまま、角を曲がった。

 しかし、いない。男は忽然と姿を消していた。


「なっ……!?」


 思わず自分の目を疑う。間違いなくこの場所に入ったはずなのに。先程までは当たり前に感じていた気配も消え失せていた。

 ミウが混乱していると、背後から声がした。


「日常、それ即ち武道。その殺意はもう少し隠した方がいい。常に意識を張り巡らせている人間にはすぐ気づかれてしまうからね」

「ッ……!?」


 ゾワッと背筋が凍りつくのを感じた。いつの間に背後に回られたのか。

 ミウの首元に男の手が触れる。


「さて、君は何者かな? 俺のことを知っているようだけど、生憎こちらには覚えがない」


 咄嗟にその手を掴み、捻り上げて投げに移行しようとした。


「へぇ、悪くない」


 だが、男は冷静な態度を微塵も崩さず、まるでこちらの動きを読んだように掴み切る前に引き剥がされた。

 結果、少し間を空けて向かい合うような形となる。眼前には両親の仇である男が立っていた。ただ、やはり近くで見ても頬の傷がない。何らかの手段で隠しているのだろう。


「こんな物を持っているということは、ただの子供じゃないらしい」


 そう言って、男が片手に持ち見せつけてきたのはミウの拳銃。

 そこで自分の手元から消えていることに気付いた。あの一瞬で掠め取られたのだ。こちらがそれに気づかない程の鮮やかな手際で。


「君に訊きたいことが出来たよ。この銃、誰に貰った? そして、今の技、誰に習った?」

「…………」


 ミウは何も答えない。教えることなんてない。

 しかし、次に男が発した言葉には動揺せずにはいられなかった。


「その女の名前はアオイ──クサカベアオイと言うんじゃないか?」

「っ……!?」


 ミウはアオイの姓を教えてもらったことはない。その為、男が言ったクサカベというのが正しいかは分からない。

 ただ、男は先程ミウにとって聞き馴染みのある言葉を口にしていた。

 日常、それ即ち武道。

 もし男がアオイのことを知っているなら、彼女から聞いたことがあっても不思議ではない。

 つまり、この男はアオイのことを知っているのだ。しかし、それが何を意味するのかまでは理解できなかった。


「その反応で十分だ。君は彼女の弟子といったところか。つまり、俺にとっては妹弟子だな」

「どういう、こと……?」

「分からないか? なら、自己紹介といこう。俺の名前はシン。以前は君と同じ、アオイの弟子だった者さ」


 告げられた衝撃の事実に声も出せなかった。もうわけが分からない。

 ……パパとママの仇がアオイの弟子? そんな偶然があり得るの?

 けれど、それなら先程の出来事には納得が出来た。姿を消したように思えたのは、気配を断ってどこかに隠れていたから。こちらが腕を掴んだ際にあっさりと引き剥がせたのは、やろうとした技がどんなものか知っていたから。

 それだけでもこちらよりも優れていることが明らかだ。拳銃があれば話はまた別だったかもしれないが、それも今は敵の手中にある。


 なら、諦めるのか。そんなわけはない。

 ミウは腰裏からナイフを抜いた。この距離なら撃たれるよりも先に殺せる。余計なことは考えるな。感覚を研ぎ澄ませ。


「っ……!」


 踏み込みと同時、ナイフでの鋭い突き。迷いのない一撃を放った。

 だが、シンは身体を僅かにずらすだけで的確に回避して見せる。


「良い動きだ。しかし、少々素直が過ぎるな」


 そして、ミウの伸ばした腕に掌底を叩き込んだ。


「あぅぅっ……!?」


 腕に強烈な痺れが走り、握っていたナイフを取り落としてしまう。シンはそれをすかさず蹴り飛ばした。

 いよいよ手持ちの武器を失った。後は素手で戦うしかない。

 ミウは改めて構えを取る。力の流れを意識するのだ。


「ふっ!」


 シンは真っ向からストレートを打ってきた。こちらの顔に迫るそれを、片方の手で打ち上げるように防ぎ、更に相手の側面に回り込みながらもう片方の手で掴んで引き下ろした。

 そうすると、相手は伸ばした腕を引き込まれて前方向にバランスを崩す。そこから体勢を立て直そうとする際の力の流れに合わせ、掴んでいた手首を一気に反対側に返すことで相手の身体はふわりと浮いて回転するように投げ飛ばされる。

 そのはずだった。


 けれど、シンは初めの前方向に生まれた力の流れで体勢を崩さず、むしろ自分から勢いを足したことで、こちらが引きずられる形となってしまう。渦巻に呑み込まれたように、相手が作った流れの内に入ってしまった。

 気づくと、シンが背後に回り込んでいた。その腕は首元に綺麗に入っていて、抜け出せない。身体が地面から引き離され、首の圧迫が増していく。


「安心するといい。少し眠ってもらうだけだ」


 その言葉を最後に、プツリと電灯が消えたように視界が真っ暗になって、意識が遠のいていった。




 ポチャン。ポチャン。ポチャン。

 水滴が水溜まりに落ちる音。一定のリズムで聞こえてくる。それによって意識を取り戻したミウはゆっくりと瞼を開いた。


「こ、こは……?」


 廃墟のように寂れた長方形の部屋の中にいた。全体的に赤茶色だ。金属の壁が錆び切っている。

 屋根は穴だらけで外光が差し込んできていた。そこからほんの少しずつ水が滴っている。屋根上に雨水が溜まっているのだろう。どうやらそれが水滴の正体だった。一体、いつ降った物かも分からない。


 部屋の雰囲気は何かの作業場という感じで、大きな机といくつかの椅子があった。

 ミウはその内の一つに座らされていて、手足をロープで縛り付けられている。

 出口は二つ。右斜め前と左側にあった。どちらも扉は開け放たれていて、外に通じていそうだ。

 何とかロープを外そうと力を込めるが、しっかりと縛り付けられていてビクともしない。

 切るのに使えそうな物はないかと見回していると、コツコツと足音が聞こえてきた。


「おや、目が覚めたかい」


 右斜め前の扉から姿を見せたのはシンだった。先程とは違って、片方の頬に太い線のような傷が表れている。やはり何かを塗って隠していたようだ。

 シンは向かいに椅子を置いて座り、告げる。


「先に言っておくと、ここはコミュニティの外だ。もし声を上げても助けは来ないから、無駄なことはしないでくれると助かる」

「……わたしをどうするつもり?」


 殺さずに捕らえた理由は不明だが、どうせろくなことではない。一刻も早く逃げ出さなくては。

 不信の思いから強く睨みつけると、シンはフッと微笑を浮かべた。


「君と少し話がしたいと思ってね。危害を加えるつもりはないが、黙って話を聞いてくれるとも思えないので、縛らせてもらった。悪く思わないでくれ」

「お前と話すことなんて何もない。わたしの両親を殺したんだからッ!」


 湧き上がってくる怒りと憎しみをそのまま言葉に込めてぶつけた。

 しかし、それを受けたシンは戸惑ったような顔をする。


「それだよ。君は俺を恨んでいるようだけど、何のことか分からなくてね。確かにこれまで多くの人を殺してきたのは間違いない。ただ、君が言うような夫婦に覚えはない。ぜひとも詳しく教えてもらいたい。いつの話をしているんだ?」

「っ……!」


 その言葉は火に油を注いだ。覚えてすらいないなんて、許せない。

 だから、ミウは思い出させる為にもその時のことを喋った。時間、場所、様子、覚えている限りのことを全て。


「ふむ……それなら確かに覚えている。そう言えば、視線を感じたな。近づいて来る気配がないから気にしちゃいなかったが、君だったのか」


 そう言って、シンは両親の外見の特徴を言い並べた。それは間違いのないもので、あの時の男だと疑いようもなかった。

 だから、ミウは込み上げてくるマグマのような憎悪を、唯一動かせる口から吐き散らす。


「やっぱりお前が……! この、人殺しッ!! 死んじゃえッ!!」


 しかし、シンはこちらの言葉など気にも留めず、急に何かを考え込み始めた。少しして、一人で納得したように頷いて見せる。


「……なるほど、そういうことか。残酷なことをするもんだな」


 シンは改めてこちらを見ると、問いを投げ掛けてきた。


「君はご両親の身体には触れたか?」

「触れた、けど……」


 何を聞こうとしているのだろう。分からない。

 しかし、それは望まぬ答えに繋がっているような予感がして、身が震えるのを感じた。


、だろう?」

「それ、は……」


 覚えている。両親の身体は氷のように冷たかった。

 ただ、死体とはそういうものだと思っていた。人は死んだらあっという間に冷たくなってしまう、と。

 しかし、シンは首を横に振ってその考えを否定した。


「仮に俺があの場で殺したのであれば、死体はそんなに早く冷たくはならない。最低でも二、三時間は掛かる。あれは恐らく前の夜に殺されたものだ。俺は気になることがあって死体を調べていたに過ぎないよ」


 その言葉を聞いた途端、シンの言っていることは正しいと分かってしまった。

 なぜなら、両親が家を出て行ったのは夜なのに、ミウが発見したのは朝だったから。気づけば眠ってしまっていたので、時間の経過に疑問を持っていなかったが、良く考えてみればそれはおかしい。

 にもかかわらず、あの瞬間に殺されたものだと思い込んでしまっていた。それは偶然、その場にシンがいてしまったことで。

 しかし、もし彼が偶然居合わせただけだというのであれば、夜中に両親を殺したのは誰なのか。


「君の両親は9mm弾で撃たれていた。ごくごく一般的な拳銃の弾だ。それは君の持っていたこのSFP9でも使われている。ただ、世界が今みたいになろうとも、銃自体はそれほど町中に出回っていない。俺の知る限りじゃごく一部だ」


 シンは解説を続ける。彼はミウにはまだ見えていない何かを理解している様子だった。


「そして、あの場所の近くにパジェロで使われているタイヤの跡があった。これは推測だが、今日、君はその車に一緒に乗って来たんじゃないか?」

「何が、言いたいの……?」


 シンが語る言葉の意味。心の奥底では分かっていた。

 けれど、認めたくない。そんなことがあってはならない。

 身体が拒否感を示し、身震いが止まらなくなる。これ以上は聞くな、と言わんばかりに。

 だが、シンは非情にも告げる。最も聞きたくない、犯人の名前を。


「はっきり言おう。君の両親を殺したのは、アオイだ」

「そんなはずないッ!」


 即座に否定の言葉を口にした。言わずにはいられなかった。

 もしそれを認めてしまえば、自分は両親を殺した張本人とずっと一緒にいたことになるから。そんな相手に色々なことを教えてもらっていたことになるから。胸のうちにある大好きな思いをどうすれば良いか分からなくなるから。


「まあ、あくまで推測の域を出ないのは否定はしない。ただ、一緒にいた君なら他にも思い当たる節があったりするんじゃないか?」

「…………」


 どうしてアオイはこんなに優しくしてくれるのだろう。そう思ったことはある。

 時折見せる態度はまるで、こちらに対して何か申し訳ないことがあるようだった。

 昨日から様子がおかしかったのも、そんな点に関係があるんじゃないか。

 駄目だ。疑い出したら最後、これまでの全てがおかしく思えてくる。何が本当のことか分からなくなる。

 ……違う。そんなことはない。これまでに触れてきたアオイの優しさは全部全部、本物だ。疑うな。信じるんだ。


「でも、アオイは……悪い奴しか殺さない! だから……パパとママを殺すはずがないっ!」


 必死に否定する為の言葉を放った。

 けれど、シンは決して頷いてはくれない。やっぱりアオイは犯人じゃない、と言ってはくれない。


「その通りかもしれないな。ただ、それでも通るロジックがある。君はあの時、家の中は見たか?」

「……玄関までだけ」

「あの家の居間では君の両親とは違う死体があった。そして、その死因は銃じゃない。包丁で刺殺されていた。また、家の中は荒らしたばかりという様子だった。その意味が分かるか?」


 もう、何も知りたくない。

 これまで信じてきたものが、ガラガラと崩れ落ちていく。


「君の両親は、他者から食料を奪う、悪人だった。だから、アオイは殺したんだ」


 両親が悪人だったなんて信じられるはずがない。一緒にいる時はあんなにも優しかったから。

 だが、それならどうして夜中に外に出なければならなかったのか。どこから食料を持って帰って来ていたのか。独りになってからは自分で探していたので、見つけるのがどれだけ困難なことかは知っている。

 シンの言葉で欠けていたパズルのピースが次々と埋まっていく。これまで考えることもなかった両親の姿が立ち上がっていく。


「きっと君の話を聞いて気づいたんだろうな。憎悪する犯人が自分であることに。もしかすれば、命乞いでもされて君のことを知っていたのかもしれない。だから、弟子にした。そこにあるのは罪悪感か、はたまた憐憫か。何にせよ、真実を隠していたことに違いはない」


 アオイは初めは人の殺し方を教えることを拒否していた。けれど、ミウが名前を言った途端、少しおかしな反応を見せた。今にして思えば、不自然だった。まるでその名前を知っているような感じだった。

 あの瞬間、アオイは気づいたのではないか。自分が以前に殺した夫婦の娘であることを。それを知ったから考えを急に変えて、食事の後に了承することにした。


「…………」


 もはや何も言えなかった。

 シンの推論はあまりにも筋が通っている。そこにミウの知ることが重なり、疑う余地がないように思う。それはあまりにも絶望的な真実で、その心を打ちのめしてしまうには十分だった。

 視界に映る全てのものが灰色になったような気がした。間に薄い膜のようなものがあって、何もかもが向こう側にあるように感じられた。それは、ミウの心が世界を拒絶している証のようだった。


「まあ、本当のことはすぐに分かるさ。じきに彼女はここに来るんだから」

「……えっ?」

「既に手紙は届けておいた。せっかくだ。俺が彼女に確認しようじゃないか。事の真相を。君はここに隠れていてくれればいい」


 そう言うと、シンは立ち上がった。わざわざ目の前に来て、大事なことを教えるように言う。


「ただ悪いが、君にその手で復讐を果たさせてはやれない。なぜなら──」


 そこで一度言葉を切ると、その眼にドロリと濁った感情を灯した。

 どこまでも穏やかなのに、恐ろしいと思える声音で告げる。


「──アオイを殺すのは、俺だからだ」


 そこにどんな思いがあるのかは分からないが、シンは師匠のはずのアオイを殺すつもりらしい。けれど、今のミウにはそれが何だかどうでも良いことのように感じられた。

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