第3章
第9話
「ん……」
アオイは外から聞こえてきた足音に目を覚ました。
ソファで本を読んでいたが、いつの間にかうたた寝してしまっていたらしい。あまり情けない姿を見せるわけにもいかないので、立ち上がって出迎えることにする。
「アオイ、ただいまー!」
ミウは元気の良い声で帰ってきたことを告げる。
初めの頃はもっと大人しかったが、今では子供らしい天真爛漫さに溢れていた。食事の心配も命の危険も不要な生活で心身が安定し、元々の気質が表れているのだろう
「おかえり」
ミウから漂ってくる濃密な獣の臭い。その意味は明確だ。
「猪が掛かってたよ」
そう言って、手に持った袋を見せてきた。中身はみっちりと詰まっている様子だ。どうやら内臓を抜いて本体を川の流水に浸すまで既に終えてきたらしい。
「ちょっと早いけど、もうお昼ご飯にしていい? 内臓は鮮度が大事、だし」
「そうだね。お願い」
ミウは上機嫌に鼻歌を口ずさみながらキッチンへと向かった。新鮮な内臓を食べるのが楽しみな様子だ。魚を獲ったりもするが、
料理や獲物の解体といった以前はアオイがやっていたことも、今ではミウが一人でこなせるようになっていた。それもあって、最近はのんびり読書をしていられる時間も多い。
ミウと一緒に住むようになってから、約一年が過ぎた。
あの頃から10cm以上も身長が伸びている。栄養が充足するようになったからだろう。みるみる成長していた。適度な筋肉もついたことで、引き締まってしなやかな体つきとなっており、二次性徴の影響で丸みも帯びてきているように思う。
二次性徴と言えば、少し前に初潮が来た時は流石に焦りを覚えた。
その日は朝から顔を青くしており、様子がおかしいことはすぐに察したが、これまで頭から完全に抜けていたこともあって、その理由にはなかなか思い当たらなかった。
仕方ないので問い質すと、ミウはワッと泣き出した。この一年で泣かせたのはあの時だけだ。
大変な病気かと思って、どうしようもなく不安だったらしい。いざ理由を知った身としては、驚きよりも納得しかなかったが。だって、それは当たり前のことなのだから。
ただ、問題はそのことをどう教えるかだった。アオイ自身、母親に教わったわけではないので、どういう風に伝えれば良いか見当も付かなかった。学校の授業で得た知識と家政婦に対処法を教えてもらったくらいだ。世の母親がどんな風に伝えているのか、想像も出来なかった。
悩んだ末に、経験でなく知識となってしまう点も多いが、知ることを一通り話すことにした。月経の仕組みから、その先にあることまで。
この世界で人類が生きていくには出産は不可欠だ。ミウもいずれは子を為す営みが必要となるだろう。それを避けた先に待つのは絶滅しかないのだから。別に詳しくなる必要はないが、どういうことがあるのかは知っておいた方が良いはず。
これまでで一番長い話をすることになったが、理解してくれたと思う。その後はちゃんと自分で対処できているようだ。こんなに長尺で喋ったのは人生初めてかもしれない、という程にした甲斐があった。
その出来事はアオイにとっても不思議な感覚を与えた。
ミウの身体は今も日に日に成長を続けている。変化し続けている。鮮烈に生き続けている。それを強く実感させられた。自分の子供を傍で見守る楽しみ、とはこういうことなのかもしれない。
けれど、それは罪深い想いだ。そんな資格は自分にはない。許されてはいけない。
だから、蓋をする。一定の距離を置く。決して近づこうとはしない。そう自らを強く戒めた。
彼女と過ごす時間の終わりはもうすぐそこまで迫っている。
午後の前半はミウの射撃練習を見ることにした。
今はもう予備のSFP9とホルスターを渡しており、彼女一人で行うことも多い。十分に扱いに慣れているので、怪我の心配もないと判断している。
初めは狙い定めて撃つ練習として空き缶を狙わせていたが、今は人型の標的に変更していた。
人間は根源的に殺人への忌避感を持つが、それを可能とする為に有効なのが、人型の標的を対象とすることだ。人の形をしていることで、実際に人を撃つ時と似た感覚で練習できる。むしろ、敵をただの人型の標的と思うようにすらなる。
これは第二次世界大戦以後、実際に各国の軍で取り入れられた手法の一つだ。
出来れば、急に色々な場所から時間差で飛び出してくるような標的にしたいが、流石にそれには専用の機器が必要となってくる。人型の標的を見れば撃つ、という動作を反射的に出来ることも大切な為だ。仕方ないので、当たったら倒れるタイプを複数作って、並べるようにした。
当然、たったのそれだけで人を迷わず撃てるようになるわけではない。もっと様々な手法を併用することで、ようやく安定して可能となるものだ。それでも、出来ることはしておいた方が良い。
ミウの望む復讐を肯定するような発言も行うようにしていた。その殺人は必要なことだった、正しいことだった、と自分の中で合理化できるだけでも、罪悪感は随分と減るのだから。
全ては、ミウが撃つべき時にちゃんと引き金を引けるように。
「っ……!」
ミウは息を軽く吸ってから止めると、片手で握ったSFP9を一気に連射した。
立ち並ぶ標的がパタンパタンと順に倒れていく。一つも撃ち漏らしはなかった。
その結果に彼女はこちらを振り返る。
「全部当たったよ! 凄くない!?」
「悪くないけど、狙いがまだ甘い。当たる場所がバラバラ」
「うっ、厳しいぃ……」
「もし銃弾が逸れて他の人に当たったらどうするの。敵の傍に人質がいる時だってあるんだから」
「はい……」
ミウは悄然とした様子で標的を起こしに行った。
口では批判的に言ったが、実際には上出来だ。拳銃を左右に振るように連射して、全ての標的にしっかり当てるなんて、なかなか出来ることではない。あれでは一つ一つの狙いはブレてしまうのが普通だ。
ただ、射撃に関しては特に厳しくしておいて損はない。高い技術を持つにこしたことはないのだから。
その後もしばらくミウの射撃を見守って、アドバイスをしたり、新しいパターンを試させてみたりした。
やがて、キリの良いところで続けて合気道の練習へと移った。これに関しては今もアオイが実際に相手となっている。一人で出来ることはあまりに少ない。
使える技の種類は増えたが、やることは以前と変わらない。流派にもよるが、合気道では試合形式を行うよりも、技の反復練習を重視する。その為、交互に技を掛けることの繰り返しだ。
受け手は正面から、斜めから、後ろからと様々な方向や角度から迫り、仕手はそれに対して技を掛ける。そうすることで、あらゆる場面で適切な動きを自然と出来るようになるのだ。
「やぁっ!」
アオイが背後から捕まえるような動作で迫ると、ミウは威勢の良い声と共にこちらの両手を真上に引き抜くようにし、その反動で身体のバランスを揺らされ、更に側面から自分の腕を身体ごと差し込むことで、横に回転するように投げられた。
側面入身投げだ。一つ一つの繋ぎが流れるように自然なので、抵抗しなければ勝手に身体が動いていき、気づけば地面に倒れている。
随分と上手くなった。これだけ出来れば、一般人なら為す術なく投げ飛ばされるだろう。
アオイならすぐに技の流れと終着点が分かるので、その流れを断ち切るような動きを選択できるが、そんなことが出来る人間は少ない。自分と同じように合気道を習得している人間か、その使い手と戦う為の訓練をした者くらいだろう。
ミウは身体を使うことに関してはどれも飲み込みが早い。スポンジに水を注ぐような抜群の吸収力だ。幼い頃から良く身体を動かしていたのだろう。確かな才能がある。
ただ、身を守るにはもう十分だ。その才能はもっと別の形で活かした方が良い。だから、そろそろ最後の試練を課そうと思う。それさえ乗り越えられたなら、もう何の心配もいらない。
今の彼女にたった一つ、欠けているもの。
それは、本気の殺意への耐性だ。
夕飯後、ミウはソファに座って小説を読んでいた。読めない漢字が出てきた時の為に手元には辞書を置いてある。
以前は訓練の疲労からすぐに眠ってしまっていたが、最近はそんなことはないし、かといって寝起きに支障が出ているようなこともない。きっと慣れてきたのだろう。
アオイと共に暮らすようになってからもう一年だ。その間には色々あったが、どれも良い思い出だと感じる。こんな風に過ごしていられるだけで自分は幸せかもしれない。そう思ってしまう程に。
「…………」
と、そこでミウは背後から忍び寄る気配に勘づいた。こちらの肩を捕らえるように手が伸びてくるのを感じる。
なので、その前腕を肌感覚で把握した位置でパシッと掴むと、捻りながらその動きに沿うように立ち上がった。
相手の片腕を押さえたまま、向かい合った形だ。ここから様々な攻撃を繰り出すことが可能となる。
ミウは不意を突こうとしてきた相手、アオイの顔を見て言う。
「日常、それ即ち武道、だよね?」
「上出来」
ミウは掴んだ手を放し、褒められたことに喜んでガッツポーズを取った。
アオイは気配を分かりやすくしてくれているとは思うが、もうこういった不意打ちは受けなくなっていた。音や匂い、肌感覚による周囲への警戒は常に怠らないようにしている。
彼女がいつも言っていることだ。技も大事だが、それ以上に大事なのはその精神だ、と。この一年で自分の生活そのもの、根本的な在り方が変わったことを実感する。
そこでアオイは予想外の言葉を口にした。
「ミウ。明日の朝にここを出るよ」
「えっ、どこか行くの?」
それはこの一年間で初めてのことだった。どうやら先程の行いには試しの意味があったのだと分かる。
「先にちょっと仕事していくけど、その後は近くのコミュニティにね。親の仇、取るんでしょ?」
「っ……! うん!」
この家で過ごすことにすっかり馴染んではいたが、復讐心を忘れていたわけはない。
むしろ、それは確かな信念となって胸の裡に根差している。溢れんばかりの怒りと憎しみが沸々と熱く燃えるように滾っているのだ。
「でも、どうしてコミュニティに?」
「闇雲に探したって見つかるもんじゃない。まずは情報収集が必要。彼らも周辺の探索は日々行っているから、何か知っているかもしれない」
「なるほど……」
「明日また改めて言うけど、この家に置いてある物も色々と持って行くから、朝から車への積み込みをするよ」
「わかった!」
ミウは力強く頷いた。そこには自らの意気込みが現れていた。
いよいよだ。いよいよ両親の仇を取ることが出来る。
もちろん前にアオイが言っていたように、既にあの頬に傷跡のある男が死んでいるという可能性もあるし、どこか遠くに行ってしまっていて見つけることが出来ない可能性もある。
それでも、今は見つかるという前提で考えたかった。流石に何年も経てば納得するしかないいくかもしれないが、その時になるまでは分からない。
必ず見つけて、対峙して、殺す。その為にアオイに戦い方を教えてもらったのだ。
もし復讐を終えたならその後は、どうしようか。これからもアオイと一緒にいて、色々なことを教えてもらいたい。そんな風に思った。
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