第6話
ミウは小さい頃から身体を動かすことが好きだった。水泳を習っていたが、毎週楽しみにしていた。その反面、勉強は少し苦手で両親に教えてもらうことも少なくなかった。
父は地方公務員で母は専業主婦だった。裕福というほどではなかったが、安定した暮らしをしていた。休みの日には良く一緒に外食したり、アスレチックのような遊べる場所に連れて行ってもらった。
両親はいつだって優しかった。時には叱られることもあったが、それはこちらが悪いことをしてしまったからだ。だから、謝って反省して次からは気を付ける。そうすれば、父も母も褒めてくれた。
小学校では友達がたくさんいた。男子とは良く外でサッカーをして遊んだし、女子とはダンスや音楽といった動画の話で盛り上がったりしていた。
時には友達と喧嘩してしまうこともあったが、どれもすぐに仲直りできた。その時はムキになってしまっても、少し時間を空けて話せばちゃんと分かり合えるのだ。いつだってボタンの掛け違えのような勘違いが原因だったから。
そんな経験もあって、ミウにはこの世の中に悪人がいるという事実が、いまいちピンと来ていなかった。
誰かを傷つけたいとか殺したいという気持ちがまるで分からない。そういう人が存在するのは間違いないだろう。テレビを見ているだけでも毎日のようにどこかで恐ろしい事件が起きているのだから。
それでも、少なくとも身の回りは善い人達ばかりで悪人はいないと思えた。
なら、自分はそんな善い人達の力になりたい。悪人に困らされている人達を助けたい。漫画やアニメに出てくるヒーローのように。
ミウはいつしかそんな風に思うようになっていた。
十歳の誕生日。母が豪勢な食事を用意してくれて、父は仕事から急いで帰ってきてくれて、一緒に食卓を囲んで祝った。
ケーキの上に刺さった十本の蝋燭、灯った火を一息で吹き消した。両親は共に拍手して、「おめでとう」と言ってくれる。
「ミウは将来、なりたいものはあるか?」
料理を食べながら父は訊いてきた。
最近になって出来た夢があったので、それを答えることにする。
「わたしね、警察官になりたい! それで、悪い人達をたくさん捕まえるの!」
「そうか、それはいいな!」
「ママとしてはあまり危険なことはして欲しくないんだけど……」
母は心配そうな顔で言うが、父がフォローしてくれる。
「まあ、いいじゃないか。こうなりたいって思うことに向かって努力していくのは大切さ。別に後からいくら変えたっていいんだから」
「それはそうね……」
母を納得させたところで、父は一つの提案をしてきた。
「警察官になりたいなら、何か武道を習ってみるのはどうだ? 剣道だったり柔道だったり、合気道もいいな」
「うん、やってみたい!」
これからも今と同じように穏やかな日々が続いていく。その中で自分は中学生、高校生と進んでいき、やがては大人になっていくのだろう。
当時のミウは素朴にそう思っていた。けれど、実際にはそんな日々が訪れることはなかった。
「やあ、お疲れ様」
終礼後、アオイが駐屯地内のいつもの場所で本を読んでいると、シンがやって来た。
平均程度の背丈に引き締まった身体つきは、体格としては他の男性隊員に劣りがちだが、その足取りは軽やかながら重心が一定に保たれており、一目で一筋縄ではいかないことが分かる。
彼とは別に待ち合わせているわけではないが、時間があると勝手にこの場所に来るようになった。初めは鬱陶しかったけれど、今はそうでもない。
彼に合気道を教え始めてからもう四年が過ぎていた。流石にそれだけの期間があれば、多少は気も許す。それでも、まだまだ一定の距離を保ち続けているのは間違いないが。
今では二人とも昇任試験を受けて三等陸曹になっていた。陸士のままでいられる期間は限られており、そのままでは退任することになってしまうので、昇任しないわけにはいかない。
以前のシンでは正直、昇任できるかどうか怪しかったが、今では全体の中で優秀な部類に入る程に成長していた。別にアオイの指導が良かったというわけではなく、当人が努力したからに他ならない。
日常、それ即ち武道。アオイが祖父から受け継いだ精神を、彼は見事に自分のものにすることが出来た。指導はもう休日に軽い手合わせをする程度しか行っておらず、後は訓練を含む日常の中で何を感じて何を学ぶかという状態だった。
「今日は何の本を読んでるんだ?」
「ん」
説明が面倒だったので、本を手渡す。
デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺しの心理学」』。
殺人行為が如何に人間の心理に影響を与えるのか、どのような訓練を受ければ殺人への抵抗が薄まるのか、といった内容に関する研究が書かれた本だ。米軍の士官学校では教科書としても使われているらしい。
「へぇ、面白そうだな」
シンは本に軽く目を通した後、返してきた。せっかくなので、アオイは先程まで読んでいた部分を開いて、興味深く感じた一文を読み上げることにする。
「ある程度の期間、それに参加すると、九八パーセントもの人間が精神に変調をきたす環境、それが戦争なのだ」
「残りの二パーセントは?」
「元から正常じゃない」
「なるほど」
それは自分達にとって決して他人事ではない。自衛隊に所属しているからこそ、上官達の間に漂うピリついた空気感などから、その気配を如実に感じ取っていた。
今この瞬間も世界情勢の緊張は増し続けている。戦争の影は確かににじり寄って来ているのだ。ジリジリと確実に、すぐそこまで。
「……ふぅ」
アオイは本を手元に置くと、煙草に火をつけた。口内で煙を泳がし、心地良さを覚える。
同様にシンも煙草を取り出し、吸い始めた。いつからか、彼も吸うようになっていた。
ある程度の距離を空けながら、壁にもたれて紫煙をくゆらす。その視線は自ずと空に向いていた。暮れゆく空を眺めながら、シンはポツリと呟く。
「そう言えば、アオイに俺の家のことは話したことなかったな」
「……急に何?」
「いや、別に深い意味はないよ。ただ何となく、師匠には知っておいて欲しいと思って。俺の戦う理由を」
話したいというのであれば、止める理由もない。黙って煙草を吸いながら、耳を傾ける。
「ろくでもない家だったよ。傍から見たら立派な家だったんだろうけど。俺が高校を出てすぐに入隊したのも、早く家を出たかったからなんだ。あそこに俺の居場所はなかったから」
シンは吐き捨てるように言った。そこには怒りよりも哀しみが色濃く感じられた。
「うちは両親と兄と俺と妹の五人家族だった。両親は社会的に優れた人間以外を認めない人種でね、小さい頃から兄弟間で常に比べられて育ったよ。世の中は徹底的な競争社会で、上にいられない奴に生きる価値はない。そんな価値観を植え付けられるように。
それでも、初めはまだマシだった。ある程度の平等性があった。けれど、両親はやっていく内に理解したんだろうな。俺を徹底的に下に位置づけることで、他の二人に上に立つことの優越感と下に落ちることの忌避感を与えられることに。全員を平等に育てるのでなく、一人を犠牲にすることで他の二人がより優秀となることを選んだ。
広い家の中に自分の部屋なんてないし、廊下の隅に置かれた布団と机が俺に唯一与えられたスペースだった。風呂は必ず最後まで待たなくてはならなくて、湯を沸かし直すことも許されない。食事は兄と妹を褒め称え、俺の不出来を
アオイには普通の家族というものが良く分からない。幼少期に両親を亡くしており、引き取ってくれた祖父や家政婦とも関わりが薄かった為だ。
それでも、彼の家がまともではないことくらいは分かる。世に聞くような家族からは掛け離れている。
「高校生になって、ようやく家を出なければならないと思ったよ。どこでもいいから、俺の居場所が欲しかったんだ。そんな時に見つけたのが自衛官の募集だった。何も出来ない俺でも誰かの盾にくらいはなれるだろう。とことん使い潰してくれて構わない。この国の為に尽くして、少しでも役に立って、この国の為に死ぬ。それこそ、俺がやっと見つけられた自分の生の意義なんだ」
「……そう」
アオイは何も言わなかった。シンも別に同情や励ましの言葉を求めていたわけではないだろう。ただ、以前似たものがあると感じた理由がようやく分かった。
死ぬことへの怯えがない。むしろ欲してすらいるだろう。それはきっと、世界に自分を繋ぎ留めるものが何もないから。境遇は全然違っている。彼の方が悲惨に思う。
それでも、祖父を亡くしてからのアオイも同じような想いで生きてきた。だから、分かる。
多分、二人とも戦争になることを望んでいる。誰かの役に立ちたいと思いながら、誰かが傷つく未来を願っている。そうしないと、自分の役割を果たせないから。
そういう意味では、元から正常ではない二パーセントな二人なのかもしれない。
シンが話したからと言って、こちらも自分の事情を打ち明けるようなことはしない。それでも、いつかは話す時も来るかもしれない。そんな風に思った。
しかし、その〝いつか〟が訪れることはなかった。
ほんの数日後、守りたいと願った国は瞬く間に瓦解し、残されたのはホッブスの語ったような〝万人の万人に対する闘争〟と、か細い秩序だけだったのだから。
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