第2章
第5話
両親を交通事故で失ったのは、アオイが五歳の時だった。
最も長い時間を共に過ごしてきた家族の喪失は、子供心ながらに世界から切り離されたような気分だった。どこにも拠り所がなくて泣いてばかりいた。そんなアオイに手を差し伸べたのは父方の祖父だった。
「おじい、ちゃん……?」
「アオイ。今日からお前は儂の家に住むんだ」
そう言って、付き合いのある親戚が少なく行き場のないアオイを引き取った。
祖父は合気道の師範として道場を開いていたが、昔は伝説の合気道家、塩田剛三に師事していたらしくその界隈では有名だったようで、近隣住民だけでなく遠方からわざわざ指導を受けに来ている人がいた程だ。
祖母は既に逝去しており、広々とした家には通いで家事を行う家政婦だけがいた。
そんな場所でアオイの新しい生活は始まった。しかし、それはこれまでとは全く違う、息苦しい日常の始まりでもあった。
祖父は体格こそ平均よりも小さいくらいだが、不愛想で寡黙という昔気質の職人のような人間だったので、両親と共に来訪していた頃から怖かった。家政婦もそんな祖父が選んだ人なので、余計な口を利かず自らの仕事に徹するタイプだ。
家中に漂う迂闊な発言が許されないような重々しい空気は、両親を失った悲しみも相まって、幼いアオイを酷く萎縮させた。ビクビクと怯えるようにしながら毎日を過ごしていた。
そんなある日のこと。家に併設されている道場の前を通りがかったアオイは、門下生に合気道の指導を行う祖父の姿を見た。
その瞬間、アオイは自分の中で何かが弾け、昂揚が全身を駆け抜けたように思えた。
自分よりも巨体の相手を意のままにしてしまう祖父。一切の無駄や抵抗が存在していないような、澱みのない清水がさやさやと流れるような、そんな動きに目を奪われた。生まれて初めて、何かを美しいと感じたのだ。
夕飯時、アオイは机を挟んで向かい合う祖父に対して、珍しく自ら口を開いた。
「おじいちゃん、わたしも合気道やりたい」
「……いいだろう」
祖父がその場で口にしたのはそれだけだったが、翌日からは指導が始まった。
道場では小さいうちは様々な受け身や身体の動かし方が中心だった。家の中では精神の涵養に通じるような所作だったり、「日常、それ即ち武道」といった言葉を教えられた。
門下生の人達は祖父の孫ということで良くしてくれ、アオイにとっては貴重な話し相手だった。
後にその一人に聞いた話だが、父も子供の頃は教わっていたようだ。ただ、それは自ら望んでという形ではなかったようで、すぐに辞めてしまったらしい。それもあって、祖父は喜んでいるんじゃないか、と言っていたが、実際のところは良く分からなかった。
相変わらず家では重苦しい空気が充満していた。それでも、祖父に合気道やそこに付随する精神を教わっている時間は嫌ではなかった。
そんな日々が続き、小学校高学年になった頃、アオイは一つの事件を起こした。同級生を怪我させてしまったのだ。
切っ掛けは授業参観だった。アオイは祖父に案内を見せておらず、クラスで一人だけ誰も見に来ていなかった。
その頃には自分の両親が死んだという意味を明確に理解していたし、当たり前に両親が生きている同級生に対しては妬み嫉みがあった。それでも、何とか呑み込むことが出来ていた。
しかし、そのことを揶揄してくる同級生がいたのだ。アオイは自分の感情がコントロールできず、怒りに身を任せて思わず祖父に習った合気道の技を喰らわせていた。
綺麗に決まった瞬間は心地良かった。ざまあみろ、と思った。けれど、すぐに相手が起き上がらずに床の上で呻き苦しんでいることに気づいて、自分の行いに戦慄した。
それは当然のように大事になって、すぐに祖父が呼び出された。生憎、治療を必要とするような怪我こそなかったが、相手方には謝罪することになった。祖父が頭を下げる姿を見て、自分が情けなかった。
普段の祖父はアオイを叱るようなことはまったくなかったが、この時に関しては厳しく叱られた。といっても怒鳴られたりはしない。ただ滾々と諭された。
「持った力は正しく使わなくてはならない」
それは何度も言われてきたことだったが、改めて強調していた。
正しさとは何か、アオイには分からなかった。技を振るった瞬間は間違いなく自分が正しいと思っていた。それでも、相手を怪我させようとは思っていなかったし、後悔する結果になったということは、やはり間違っていたということだろう。
いつだって何が正しいか分からずに惑いながら生きてきた。それは今も変わらない。
その後のアオイは同級生に怯えられ、孤立したまま小学校生活を終えた。
ただ、それは楽だった。他人と関わるのは苦手だ。言葉だけでなく表情や仕草から表面的な部分では理解できても、深層的な部分で何を思っているかはさっぱり理解できない。
だから、誰かと関わるということは、傷つけ合うということだ。衝突は不可避的で逃れられない。
それなら一人で本でも読んでいる方がずっと心穏やかに過ごせて良いと思えた。
その為、アオイは中学校に上がってからも他人との関わりを最低限にし続けた。
唯一の関わりは祖父の道場の門下生とだけだ。そんな彼らにはアオイが年を重ねるにつれ、祖父に良く似ていると言われることが増えた。そこに自分はどんな感情を抱いていただろう。何とも言えない気持ちだった。
そこそこの成績で家から近い高校へと進学したが、将来の展望は皆無と言って良かった。いずれは祖父の道場を継ぐこともあるのかもしれない。そんな風に思いながら漠然と日々を過ごしていた。
しかし、高校二年生の冬、祖父が亡くなった。一度体調を大きく崩してからはあっという間で、アオイからすれば突然のことだった。
まさか未熟なアオイが祖父の道場を受け継ぐわけにもいかず、門下生達は蜘蛛の子が散るように離れていった。
両親を失った時と同じ、世界から切り離されたような感覚。
それからは常に足元が揺らいでいるようだった。別に祖父や周りの人間に特別な思い入れがあったわけでもないのに。実際、涙なんて一滴たりとも流れなかったのだから。
『持った力は正しく使わなくてはならない』
アオイの胸中にはその言葉だけが楔のように突き刺さっていた。
しかし、何が正しいのか分からず、自分の生きる理由が見当たらない。かといって、自らの命を絶つことも何故だか出来ない。
その理由も今なら少し分かる。きっと祖父から自分が受け継いだものを無に帰すことに怯えていたのだろう。だから、拠り所が何一つなくても自死の決断だけは出来なかった。
そんな風に心を彷徨わせていた時、町中に貼られた自衛官を募集するチラシが偶然目に入った。それはまるで天啓のように思えた。
自分の国の為に身を賭して戦うことはきっと正しいことだ。たとえ命を落とすことになっても。
そうして、アオイは大義による死を求めて自衛官を志すことに決めたのだった。
アオイは十七時の終礼後、迷彩柄の隊員服を着たまま建物の壁にもたれ、煙草を吸いながら本を読んでいた。
夏場なので、日はまだ高い。加えて、この場所は日陰になっているので涼しくもある。
駐屯地内は喫煙室以外は禁煙だ。無論、ここは喫煙室ではないので、バレるとまずい。とは言え、まず人が通らない隠れ家的な場所なので、別に気にしていなかった。最悪、バレても懲罰を受けるだけだ。個人的には大したことではない。
「……ふぅ」
アオイは気の緩みから自然と一息吐いていた。
自衛官になってから二年余りが過ぎた。細かな出来事は色々あったが、これといって特筆するようなことはないまま、半ば自動的に陸士長となった。今のところは問題なくやれている。
ここでこうしている理由の一つは、食堂や生活隊舎にいると他人が寄ってくることがあるからだ。一人でいられる時間というのは貴重なのである。
しかし、そんな憩いの時間はその日に限ってはすぐに邪魔されることになった。
複数人が近づいてくる気配を感じ、煙草の火を消してこっそり様子を見ると、何やら一人の男が三人の男に強引に連れて来られていた。
「いつもいつも足を引っ張りやがって。迷惑してるんだ、いい加減分かってくれよ、なぁ!?」
リーダー格らしい男がそんな風に言うと、すぐに殴る蹴るの暴行が始まった。その狙いは主に胴体だ。顔を殴らないのは事が露見しない為だろう。
殴られている男は確か同期だった。如何にも体育会系な雰囲気の男が多い中、明らかにこれまで運動をやって来ておらず、弱々しく頼りない雰囲気。初めて見た時はすぐに辞めそうだと思ったものだが、意外に根気はあるらしい。
他は恐らく先輩に当たる連中だが、リーダー格らしい男には見覚えがあった。以前、駐屯地全体での格闘戦の力比べをしたことがあり、その際にアオイが戦って勝利した相手だった。女にあっさり負けたということで羞恥に震えていた気がする。ちなみに力比べの結果は女では唯一、最上位のグループとなった。
それにしても、夕食も食べに行かずに後輩への
どうやら彼らは同期の男の能力に不満があるらしい。実際、その言い分自体は間違っていないのだと思う。とは言え、どんな理由があろうともリンチが許されるはずもないが。
まあ、これは彼らの問題だろう。介入して妙なことを思われても面倒だ。
初めはそう考えたが、男達が気分良さそうにしているのは癪に障った。
「そこらへんにしときなよ」
アオイが忍び寄って背後から声を掛けると、ビクッと全身を震わせてこちらを向いた。
「な、お前どうしてこんなところに……?」
「遠目に怪しい奴らを見つけてしまったからね。これ以上やるなら、私も報告しないわけにはいかない」
アオイは、ここで引け、と暗に示す。本来は敬語で喋るべき相手だが、この状況下でそんな気は起きなかった。
「ちっ、女に助けられたな、この腰抜け野郎」
そんな捨て台詞を残すと、暴力を振るっていた男達は抵抗もせず退散していった。仮に抵抗されても鎮圧する自信はあったが。きっと懲罰沙汰は避けたいのだろう。それなら、初めからこんなことしなければ良いのに。
アオイは倒れ伏した男の傍に寄って行くと、見下ろした。
手を貸して起こしたりはしない。そんな義理はないからだ。
「あんた、向いてないよ。辞めた方がいいんじゃない」
単刀直入に告げると、彼は「痛っ……」と呻きながらも何とか身体を起こして答えた。
「そうかもな。でも、俺には他に行く場所なんてないんだ」
微笑を浮かべていたが、そこには悲哀の色が見て取れた。何か事情があるのだろう。
「難儀なことだね」
別に興味もないのでそれだけ言うと、その場を立ち去ろうとした。
しかし、彼の言葉が背に届く。
「なぁ、君はどうしてそんなに強いんだ? 前から気になっていた。相手が自分より大きく体格も優れた男でも一切怯まずに倒してしまっていて、何か秘訣があるのか?」
無視しても構わなかったが、別に隠すことでもないので、仕方なしに立ち止まって答える。
「私は昔から祖父に合気道を教わってたから。理由なんてそれくらいだよ」
「合気道、か……道理で他の人とは違った、綺麗な身のこなしなわけだ……」
こちらの言葉を聞いて納得したように頷いた彼は、すぐに覚悟を決めた表情で言う。
「頼む、俺に──」
「嫌」
アオイは彼が言い切るよりも前に拒否した。何を言おうとしているかはすぐに見当が付いた。
「私は人に何かを教えるなんて柄じゃないし、格闘戦なら他にもっと適任がいるでしょ」
実際、男女の隔たりはそう単純ではない。骨格といった部分が根本的に違っているのだ。女の身体なら自然に出来ることも、男の身体なら難しいということがあったりする。逆もまた然りだ。その為、指導するなら同性の方が基本的には都合が良い。
「確かにそうかもしれない。けれど、俺は君に教わりたいんだ。君が戦う姿に憧れたから。俺もこんな風になれたら、って」
「…………」
アオイは彼の言葉に自分が祖父に頼み込んだ時のことを思い出した。
沈黙していると、彼は俯いて言葉を継いだ。
「あの人達が言っていることは全部正しいよ。俺が弱くて何も出来なくて役に立たないのが悪いんだ。今のままじゃ駄目なことは自分でも分かっている。だから、強くなりたい……誰かの為になれるように」
そう語る彼からは切実さと悲愴さが感じられ、不思議と他人事には思えず、自分達にはどこか似たものがあると思えた。それはアオイに一つの決断をさせた。
「……分かった。ただし、加減はしないよ。これまでと同じ生活が出来ると思わないで。あんたにその覚悟はある?」
「あ、ああっ! もちろんだ!」
彼は了承されたことに驚いた様子で慌てて答えた。
アオイは未だ立ち上がっていない彼のもとに足を戻すと、手を差し伸べた。
今後は自分の弟子になるというのなら、これくらいはしてやっても良いだろう。
彼は嬉しそうな表情で立ち上がり、犬が尻尾を振って寄って来るような様子で言う。
「これからは師匠って呼んだ方がいいかな」
「馬鹿。普通にアオイでいい」
「分かった。なら、俺のこともシンって呼んでくれ」
翌日はちょうど休日だったので、早朝に会う約束だけしてその日は別れた。
これがアオイとシンの交流の始まりであり、師弟関係の始まりでもあった。
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