第3話

 ミウがアオイのもとで過ごすようになってから一週間が過ぎていた。

 毎朝のランニングも少し慣れてきて、初めよりは長く走れるようになった。世界が今みたいになってしまう前に比べれば、全然だ。もっと身体が良く動いていたと思う。それでも、自分が成長していることを実感できるのは何だか嬉しかった。

 両親の仇を取る為に強くならなければならない。だから、立ち止まってなどいられないのだ。


「それじゃ昨日仕掛けた罠を見に行くよ」


 同じ距離を走ったはずなのに、息一つ切らしていないアオイが言った。長い髪はゴムで雑に纏めていて、無地のTシャツとジーンズを着ている。彼女は大体こんな格好だ。夜になって冷えてきたら、上に何かを羽織るくらい。

 こちらを見下ろすその顔は無表情。笑った顔も怒った顔もまだ見たことがない。

 けれど、怖くはなかった。アオイは善い人だ。もう駄目だと思っていた時に助けてくれて、更にはこうして復讐の手助けをしてくれるのだから。


「うん」


 飲んでいた水を置いて頷くと、後に付いて行った。

 アオイは長い木の棒と大きめの袋を手にし、鬱蒼とした山道に入っていく。


「…………」


 でこぼこだらけで草木も密集しており、歩きにくい中を黙々と進んでいく。

 アオイは用件なしに自分から何かを喋ることは少ない。なので、こうして何かをしている時は基本的に静かになる。

 鳥が鳴いており、風で葉が揺れている。他にも色々な音が耳に飛び込んでくる。

 前に教えられたように、見えるものや聞こえる音を意識するようにしていた。そうしていると、確かに分かることがたくさんあった。


 例えば、アオイはとても静かだ。それは喋らないからではなくて、動いて立てる音がとても少ないから。

 ミウ自身は歩いているだけでも、着ている服が擦れたり、地面の枯葉や枝を強く踏んだり、様々な音を立ててしまっている。

 アオイはまるで周囲に一体化しているようだ。それだけ自然に溶け込んで見えた。


 どうすれば、そんな風に動けるのだろう。疑問に思ってより注目してみると、発見があった。

 アオイは歩く時に手をほとんど振っていなくて、右足なら右手、左足なら左手、と同じ側で出している。行進でやると笑われるやつだ。けれど、彼女が意味もなくそうしているはずもない。それにどのような意味があるのか。


 ミウは実際に試してみる。何となくぎこちなくて違和感があった。だが、服の擦れる音が減った気がする。それは恐らく、身体をほとんど捻らずに歩けているから。

 一つ、アオイの動きの秘密に気づくことが出来たかもしれない。そう思うと、嬉しい気分になれた。もっともっと知りたい。だから、彼女の動きに一層集中する。

 そんな風にしていたからか、ミウは足元に突き出た木の根に気づけなかった。


「あっ……!?」


 こけそうになるが、いつの間にか目の前に来ていたアオイに抱き留められた。


「私の動きから学ぶのは良いことだけど、視野を狭めちゃいけないよ。一点に集中し過ぎず、広く見るように」

「……ごめんなさい」


 アオイには視界外のことも全て分かっていたらしい。まるで後ろにも目があるようだ。超能力者じみていて、今まで見てきたどんな人よりも凄いと思う。

 再び歩き始めた。今度はちゃんと視野が狭くならないように気を付ける。

 昨日、罠を仕掛けた場所を順に巡って行った。罠は作り方と設置の仕方を一か所目で教えてもらい、二か所目以降はミウが仕掛けた。

 しかし、何も掛かっていない場所が続いて残念な気持ちになる。もしかして、自分の仕掛け方が悪かったのだろうか。

 最後の場所に向かいながらミウが暗い気分でいると、アオイが珍しく口を開いた。


「ん……ミウ、見て」

「あっ……」


 アオイが指差した先で何かが動いていた。近づくことでその正体が分かる。

 鹿だ。実物は初めて見た。足にロープが掛かっており、その場で藻掻いている。

 ちゃんと捕まえられていることに喜びの感情を抱くも、必死に逃げようとしている姿には胸が痛んだ。


「捕らえた獲物を殺す時、大事なのは迷わないこと。なるべく早く楽にしてやるんだ」


 そう言うと、アオイは持ってきていた長い木の棒を振りかぶって、勢いよく鹿の頭部に叩きつけた。躊躇いのないスイングだ。鹿は甲高く悲痛な鳴き声を一瞬上げてバタッと倒れた。

 続けてナイフを取り出すと、胸の辺りに突き刺した。もう意識を失っているからか、反応はほとんどない。けれど、完全に命を断ったことが分かった。


「…………」


 アオイは鹿の死体を目の前にして、両手を合わせていた。ミウも同じようにして祈る。

 ……ごめんなさい。でも、わたし達は食べなければ生きていけないから。


「殺した後、まずは内臓を抜く。川まで運んでからやっても構わないけど、抜いてからの方が運びやすい。ミウの場合、その方が良いと思う」


 アオイはミウが今後、捕らえた鹿を殺して解体までを一人で行う前提で話をしていた。

 正直、抵抗がある。やりたくないと言えば、アオイは許してくれるかもしれない。

 それでも、自分に必要だと思って教えてくれているのだから、学ばなければならないと思えた。


「今日は私が全部やるから、ミウは見てて」


 ミウは言われた通り、目を逸らさずにちゃんと見た。鹿の皮膚にナイフを入れて胸や腹を開く様子も、内側に手を入れて邪魔な骨を切り落とし内臓を引きずり出す様子も、最後に持ってきた袋に詰める様子も、全て。


「本体はしばらく川で冷やして臭み取り、内臓は置いとけないから今日の昼食と夕食」


 アオイはそう言って、鹿の体を運び始めた。大きいのに軽々と持ち上げている。

 今のミウにはとても持ち運べなかったので、代わりに内臓を詰めた袋を持っている。それもかなり重かった。

 その後、川に行って鹿の体を流水が当たるように繋いでから、家に戻って昼食の時間となった。


 鹿の内臓はどれも塩を掛けて焼いただけなのに、驚くほどに美味しかった。燻製にして保存していた鹿肉ならこの二週間で何度も食べたが、それとはまったく別物といって良い。

 身体に染み渡っていくような感じがする。前の酷い食生活でも生きてはいられたが、あれでは本当に生きているだけだったと思う。

 元気は出ないし、何かを行う気力も湧かない。しかし、今は身体の調子も頭のスッキリ加減もまるで違っていた。お肉パワーだ。


 殺した鹿のことを思うと、複雑な気分にもなる。たとえ鹿ではなくとも魚でも野菜でもそれ以外でも、何かを食べないと人は生きてはいけない。水も飲まなければならず、生きる為には色々な物が必要だ。

 それは世界が今みたいになってから改めて気づかされたことだった。前は当たり前のように毎日飲んだり食べたりしていて、何も思っていなかった。

 生きることは色々な物の犠牲の上にある。それでも、自分達は生きていて良いのだろうか。

 難しい問題だ。ミウには良く分からなかった。そもそも今の自分に他のことを考えている余裕はない。


 復讐。まずはそれを成し遂げなければ、何も始まらない。アオイが言うように両親の仇、あの頬に傷のある男は既に死んでいる可能性も十分にある。だからといって、全てを忘れて生きていくことなんて出来ない。

 ……大切なパパとママを殺した奴を、絶対に許したりしない。

 この胸のうちにはマグマのように燃え滾る怒りが、憎しみが溢れていた。

 十分に身体が回復した今だからこそ、改めて決意する。

 あの男を必ず殺す、その為ならどんな努力だってしてみせる、と。




 昼食後、ミウはアオイと四方投げの練習をしていた。

 三日前から構えも少し様になってきたということで教えてもらっている。四方投げは実戦ではあまり使わないが、合気道に必要な全てが詰まっているらしい。

 基本的なパターンをいくつか教えてもらって、先にアオイが掛けて、次にミウが掛けて、と何度も何度も繰り返す。


 そこで感じるのが、アオイの動きの流麗さだ。掴んだ途端、こちらの身体も自分の物のように滑らかに動かして、気づけば地面に倒れている。

 しかし、いざ自分で試してみると、全然思うようにいかない。自分の身体も、相手の身体も、どこか引っ掛かってばかりだ。

 腕の捻り方一つ取っても、角度や力の入れ加減で動きがまるで違うことが分かる。きっとアオイはそれらが全て完璧なのだろう。だから、その動作の一つ一つに目を奪われる。

 すぐには無理だと分かっていても、そんな美しさに憧れずにはいられなかった。こんな風になりたいと強く思わされる。


「今日はここまでにしとこう。身体が疲れ切った状態でやっても動きが乱れるだけだから」

「はぁっ……はぁっ……うん」


 ミウは息を荒げながら頷いた。全身が棒のようだ。カチカチになっている。

 四方投げの練習を始めたのは日が高い時間だったが、気づけば暮れかかっていた。それだけ夢中になっていたということだ。

 時間の経過を知ると、途端にお腹が空いてきた。早くご飯が食べたい。

 そんなこちらの思いを感じ取ったのか、アオイは言う。


「ミウ、食べられる物集めて来てくれる? 私は準備しとくから」

「わかった」


 食べられる野草や木の実については色々と教えてもらった。まだまだとても覚えきれてはいないが。

 ミウは早速、近くの草むらや山道まで探しに行き、両手に抱えられるだけ集めて戻った。

 いくつか怪しい物もあったが、そういう時はアオイに確認してもらう。大事なのはそれが何だったかを思い出そうとすることで、思い出せないなら答えを聞いて改めて覚え直し、次の機会にまた思い出すことを頑張る。記憶とはそうやっているうちに定着するものだそうだ。


「あれ?」


 家の前まで戻って来たが、アオイの姿が見当たらない。どこに行ったのだろう。

 そう思った途端、コツンと軽快な音が後頭部に響き、少しの痛みが走った。


「あうっ」


 振り返ると、いつの間にか背後にアオイが立っていた。その手にはお玉が握られていて、それで叩かれたらしい。


「今、気を緩めてたね。別に私は気配を隠すまではしてなかったから。たとえ空腹でも周囲への警戒は怠らないように。常に平常心を保つこと」

「ごめんなさい……」


 ぐうの音も出なかった。早くご飯を食べたい一心になって、色々と疎かになっていた。

 ミウが俯いていると、声が掛けられる。


「まあ、慣れたら自然に反応できるようになるよ」


 アオイの声音に変化はなかったが、励まされているように感じた。

 次からは気を付けようと心掛けて、家の中に入った。

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