第2話

 人々の群れが横たわるアオイを取り囲んでいた。大半は男だが、中には女も混ざっている。

 誰もがどんよりと濁った目をしており、恨めしそうにこちらを見下ろしている。

 すぐに夢だと気づいた。もう何度も同じ光景を見ているから。

 どの顔にも覚えがある。新入りが加わっていた。つい先日、射殺した男が。

 ここに並んでいるのはアオイがこれまでに殺してきた人間だった。彼らは自らの命を奪った者への怨嗟を向けているのだ。

 そうして、その最前に立つのは虫も殺せなさそうな顔をした男、シン。


『君はどうしてまだ生きているんだ? 早く死ねよ』


 彼の視線はそう告げていた。

 ……私に生きている資格がないことくらい分かってるよ。

 そう自嘲したところでアオイは浅い微睡みから目を覚ました。

 身体を起こした段階で、自分が居間のソファで寝たのを思い出す。寝室のベッドは一つしかないので、そちらにはミウを寝かせたのだ。

 時計を見ると、針は朝の五時を指し示していた。まだ日が出て間もないくらいだろう。ただ、電気のない今は暗くなれば寝るのが基本なので、ちょうど良い時間だ。寝室にミウの様子を見に行くことにする。


「パパ……ママ……」


 ミウはまだ眠っていたが、涙を流しながら両親を呼んでいた。

 その様にアオイは胸が苦しくなる。心が切り刻まれるようだった。

 それでも、そんな痛みを何とか押さえ込んで彼女を起こす。


「ミウ。起きて」


 軽く揺すると、ミウは瞼を震わせた。


「……アオ、イ?」

「身体の具合はどう? 痛みはある?」


 半身を起こした彼女は緩やかに首を振った。


「ううん、大丈夫」

「なら、外へ走りに行くよ。今日から訓練開始」


 アオイがそう言うと、ぼんやりしていたミウの瞳は途端に光を宿した。


「わかった」


 彼女はサッとベッドから飛び出た。やる気は十分のようだ。

 アオイはミウに水分を取らせた後、外へランニングに出発した。




 ランニングを終え、ミウの基礎体力は大体把握できた。栄養失調の影響もあって芳しくないが、これから栄養豊富な食事と毎朝のランニングを続けていれば、自然と伸びていくだろう。

 それに、基礎体力がなくとも、筋肉が弱くとも、自分より巨大な相手だろうが打ち倒せてしまうのが合気道だ。

 あらゆる状況に対応する為にはそれらが必要で、アオイ自身も自衛隊時代に相当鍛えられたのは間違いないが、掴むべき武道の精髄はそこにはない。

 朝食後はいよいよ合気道を教えていくことにした。アオイは家の前の平地でミウに指導を行う。


「基本の構えはこう。視線は一点に集中するのでなく、全体を見るように」


 両手を縦に並べるような形で前に出し、足を前後に開いて半身に構える。

 ミウも真似して同様に構えた。アオイはそれを見て、彼女の身体に触れながら細かく修正していく。


「足の幅はこれくらいに開いて、重心も少し前に寄せて」

「……こう?」

「そう。それじゃ次は同じ構えを左右逆でやってみて」


 右半身と左半身を入れ替えさせた。すると、同じ構えでも微妙に異なり、鏡写しにはならない。最初にやった方と比べると、明らかに身体の芯が揺らいでいる。

 一般人は誰しも左右の身体のバランスが悪い。動作を行う上で自然と利き腕や利き足側を使ってしまい、筋肉量が偏ってしまう為だ。細かな動作にも左右で如実に差が出る。

 しかし、格闘戦においてそれは致命的な弱点となってしまう。どちらか片側の攻撃や防御が苦手であれば、戦闘慣れした相手は必ずそこを突いてくる。その為、身体を動かす能力は左右で遜色がないようにしなければならない。

 アオイは改めてミウの構えを修正してから、告げる。


「実戦じゃちゃんと構えられる場面は少ないけど、これが一番色々な攻撃に対応できるから、その状態をきっちり身体に叩き込むこと」


 その後、ミウにはしばらく同じ構えを取らせ続けた。こういうことは初めの内に厳しくやっておかなければならない。後からでは修正も難しくなってしまう。

 ただ立っているだけでも両足への負担は意外と大きい。ランニングで疲弊した後では猶更だろう。

 アオイはミウの体勢が崩れる度に修正を促し、疲労で両足の震えが抑えられないようになった辺りで終了にした。


「うぅ……ただ立ってるだけなのに難しい」


 その場に座り込んだミウは弱音を漏らす。

 先日まではなるべくエネルギーを使わない為に動かないようにしていたはずだ。それゆえ、朝からこんなにも身体を動かすのは過酷に感じるだろう。


「別に辞めたきゃ辞めてもいいんだよ」

「……ううん、やる。だから、もっと教えて」


 ミウはプルプルと全身を震わせながらも立ち上がる。

 やる気があるのは結構なことだ。しかし、この状態で続けても能率が悪い。日も随分と昇って来ているので、今はここまでにしておく。


「そうかい。まあ、とりあえずは昼食にしよう。ほら、中に入るよ」


 昼食、という言葉にミウは嬉しそうな顔をする。少し前から彼女の腹は悲鳴を上げていたので、待ち望んでいたのだろう。身体が順調に健やかとなっている証拠だ

 昼食後は疲弊した身体を休める為にも、家の中で座学的な指導をしていく。

 居間の家具が置かれていない辺りで立ったまま向かい合った。


「日常、それ即ち武道」


 アオイがそう言うと、ミウはキョトンとした表情で小首を傾げた。


「私が祖父から教わった言葉なんだけど、元は祖父の師匠の言葉。簡単に言えば、普段からあらゆる物事に気を配って修行の場としなさい、ってこと。例えば、ミウは歩く時に何を意識している?」

「何って……別に何も」

「普通はそうだろうね。でも、今からは変えてもらう。さっきの構えで足の裏のどの辺りに力が入っていたか分かる?」


 ミウは思い出すように構えてみてから答える。


「えーと、前になってる足の親指の根本?」

「その通り。だから、今後は普段歩く時もそれを意識するの」


 ミウは実際に少し歩いて確かめていた。僅かに前のめりになるような姿勢だ。

 初めは少し違和感があるだろうが、やっている内に慣れてくる。意識せずとも自然と出来るようにならなくてはならない。


「理想はどれだけ体勢が崩れても、その重心の掛け方が維持できること。まるで足の指を地面に吸いつかせるように」


 アオイは片足を浮かすと、そのままゆっくりと上段蹴りの高さまで持っていく。それでも身体が一切揺らがないのは、軸足の特に親指付近でしっかりと地面を捉えており、同じ重心を保っているからだ。


「すごい……」

「これくらいはすぐに出来るようになるよ。結局はバランスの取り方の慣れだから」


 足をそっと下すと、話を続ける。


「それで、だ。今のは自分自身の歩くという日常の一動作に関する話に過ぎないけど、他にも自分以外、つまり外界にも意識を向けること。目に映るもの、耳に聞こえてくる音からは分かることがたくさんある。もちろんいきなり上手くは出来ないだろうけど、やってれば少しずつ身に付いていくから」

「うん、わかった」


 ミウは頷くが、どのようにすれば良いかはあまり分からないだろう。ただ、意識的に周囲に気を配るようになるだけでも随分と違う。

 人の脳は五感が受け取った情報の多くを勝手に遮断してしまうものだ。しかし、それを鋭敏に獲得できるようになれば、傍からは超能力者のように思われることも少なくない。

 気配り上手。人の心が読める。そんな風に言われる人間は得てして、それを理解しているに過ぎないのだ。

 アオイ自身、常に外界へのセンサーは鋭敏な状態で保っている。そのお陰で誰かに不意を打たれるようなことはまずない。早い段階から察知することが出来る。


 日常、それ即ち武道。日々の生活全てを武道に取り込む。

 それが自然に出来るようになった時、通常の人とは別の位相へと進むことになるのだ。武道の精髄とはそういった領域の先にあるのだろう。

 合気道においても、技はなきに等しい。そう言われている。アオイ自身、実戦で技を使うことはそれほど多くない。相手が格闘の素人なら綺麗に決まるが、慣れた相手に対しては当身あてみが中心となる。


 それでも、合気道をやってきた上で学んできたことが一挙一動全てに通底している。川が流れるよう、どこまでも滑らかに、身体を動かす。そして、相手を己の流れの内に取り込むことが出来れば、自ずと勝負はこちらの勝利で決まる。

 こうして、ミウに色々と教えていると、道場の師範である祖父に教わっていた頃のことが少し思い出された。その教えは確かに今もこの身に息づいている。それは自分が唯一、誰かから受け継いだもの。


 だからこそ、なのかもしれない。ミウに教えようと思ったのは。

 祖父から受け継いだ合気道が、ここで失われて欲しくない。少しでいいから誰かに受け継いで欲しい。その願いは自分の数少ないエゴだと自覚する。

 もしそれを終えたなら、もうこの生に思い残すことはない。これまでに犯してきた罪を償うとしよう。命ぐらいしか投げ出せるものはないが。だから、自分が命を奪った者達にはそちらに行くのをもう少しだけ待って欲しい。

 アオイはそんな風に思うのだった。

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