第1章
第1話
アオイは少女の身体の手当てを済ませた。車のバックドアを開け、そこに座らせている。一通り調べたが、打撲や内出血以外には特に問題なさそうだった。これならすぐに治るはずだ。
水の入ったペットボトルを渡すと、少女はゴクゴクと勢い良く飲み干した。よっぽど喉が渇いていたらしい。声が掠れていた一因だろう。
「それで、どうして人の殺し方を覚えたいの?」
落ち着いたところで、先の発言への問いを投げ掛けると、少女はポツリポツリと言葉を零し始めた。
「……一年くらい前、わたしのパパとママは、殺された。ここにこんな傷跡がある男に」
そう言って、自らの左頬を横断するように指先で真っすぐ線を引いた。
頬に傷跡のある男。少なくとも、これまでに見た覚えはない。
それを聞いたアオイは自分の気が僅かに緩むのを感じた。
「許せない……絶対にわたしが、殺す。その為に、強くなりたい」
声に張りはなく、淡々とした喋りだ。それでも、そこに強い怒りや憎しみがあることは伝わってきた。
その上で、アオイは首を横に振る。
「復讐、か。悪いけど、私は人に何かを教えられるような人間じゃない。その仇だってもうとっくに死んでるかもしれないし。そんなことは忘れて、生きることに専念した方がいいよ」
「そんな……」
少女はショックを受けた様子で俯いた。
可哀そうではあるが、仕方ない。子供の手が血に染まるようなことはない方が良い。返り討ちに遭う危険もある。
代わりに仇を討てるようならそうしてやりたいが、一年前となれば見つけるのは困難だろう。結局、諦めさせるのが一番だ。
「明日、人々が力を合わせて暮らしている場所に連れて行ってあげる。当たり前に水が飲めて、当たり前に食事があって、ここで暮らすよりはよっぽど良い暮らしが出来るから」
ごく僅かだが、今でも秩序が存在するコミュニティが形成された場所がある。それらでは狩猟や漁獲、農作が行われているので食事には困らないし、外部からの侵入を防ぐ為の疑似的な壁や武装した警備もいる為、略奪や暴行が起こることもほとんどない。
そこでなら子供が子供らしく生きていくことが出来る。叶うこともない復讐なんて忘れてしまうべきなのだ。
「私はアオイ。あんた、名前は?」
そう言えば、名前を聞いていなかったと思い、訊いた。
少女は塞ぎ込んだ態度でボソリと呟く。
「ミウ」
「……そう。ミウ、ね」
アオイは夜の帳が下りてきている空を仰ぎ見て、少し間を空けた後、とりあえず夕食にすることに決める。
車に積んであった箱から中身を取り出した。鹿肉の燻製と食用の野草がラップで包まれて袋に詰められており、他にも固形スープの素や缶詰がある。
ガスバーナーとコッヘルでお湯を沸かすと、固形スープの素と野草を放り込んだ。キャンプで使われるような道具を一通り用意してあるので、最低限の調理は可能だ。
「ほら、食べな」
アオイは中身を別のコッヘルに移してミウに渡した。
空腹に抗えない様子で彼女はおずおずと手に取って、そっと口を付けた。
「温かくて美味しい……」
ミウはしみじみと呟く。ピークは過ぎたがまだまだ肌寒い季節なので、まともな防寒のない彼女には特に染み入るのだろう。
スープにしたのは、彼女の胃に負担を掛けない為だ。今の彼女には栄養豊富な食事が必要だが、その外見から慢性的な空腹状態だったことは明らかなので、なるべく固形物は避けた方が良い。
両親を亡くしてから一年が経過しているということは、何とか食べる物は確保できていたようだが、厳しい日々だったに違いない。むしろ、良く一年も生きていられたと感心する。初めの冬を乗り越えられずに死んだ者も多いというのに。
それはやはり復讐心が支えとなっていたのだろうか。両親の仇を取るという燃え滾るような想いが彼女を生かしたのだろうか。
アオイは地獄を這いずっていくような日々を想像し、胸が酷く痛む。ただ、だからこそ、自分が為すべき役目を決断することが出来た。
「これも食べるといい」
そう言って、ミウに鹿肉の燻製を一切れだけ手渡す。少しくらいなら大丈夫だろう。
彼女はとても珍しい物を見たようにその大きな
「っ……!」
噛み締めることで溢れ出した肉の旨味に喜色を示す。年相応の表情にようやく張り詰めていたものが少しだが緩んだように見えた。やはり美味な食事は心のゆとりに大切だ。
やがて、アオイは食事で僅かながらリラックスした様子のミウに告げる。
「やっぱり、教えても良いよ、戦い方」
「えっ……ほんと……?」
ミウは信じられない様子だった。
先程は無下に扱ったので不審がるのも無理はないが、食事中に色々と考えた結果だ。
無条件に教えるわけではない為、アオイは釘を刺す為に言う。
「ただし、二つ条件がある。まず一つ目、最低でも一年は私の指導を受けてもらう」
ミウはコクリと頷いた。なので、言葉を続ける。
「二つ目、親の仇以外は決して殺さないこと。私はあくまであんたが身を守る為に教える。例外として、自分か誰かの命を守る時だけは構わない。この条件、守れる?」
そう問いかけると、ミウは迷いなく再び頷いた。
「約束する。だから、わたしに戦い方を教えて欲しい」
「分かった。それじゃ、明日は私の家に連れて行く」
ミウは思わぬ展開に頬を綻ばせていた。そんな彼女を見ながら、アオイは思う。
……ああ、ようやく見つけた。私がこの世界で最後に為すべきことを。
それから日が完全に落ちると、眠る準備に入った。ミウは車内で寝かせ、アオイは外で寝袋を使う形だ。
別に彼女がいるからではない。晴れの日は基本的にこうしている。車内だと外界への警戒が少し鈍くなってしまうが、外なら近づく者がいても確実に察知できる為だ。
アオイはぼんやりと空を見上げる。夜空に瞬く星々がくっきりと映っていた。家もビルも外灯も一切光を灯していないからこそ、今ではどこでだって鮮麗な星空を眺めることが出来る。
それは世界がこんな風になってしまった中で唯一、良いと思えることだった。
窓の外をビュンビュンと景色が流れていく。アオイは車を運転しながらふと目を遣った。
立ち並ぶ建物はどれも廃墟然とした外観と化している。火災と地震が合わさったことで崩落しているものが多く、原型を保っていてもその壁面は雨風によって黒ずんでいた。その中は草木が深い部分まで侵食し始めているだろう。これまで様々な場所を探索してきたので分かる。今はどこもかしこもそんな状態だ。
糞尿や腐敗した死体の臭いも漂っている。ただ、もはやそれが当たり前なので、大した不快感はない。慣れたものだ。アオイ自身はそれなりに身綺麗にしているが、ミウの汚れた姿や体臭もさほど気にならなかった。
自然体。ありのまま。そんな言葉を感じさせる。むしろ、以前までの様子がどれだけ異常だったのかが良く分かる。人の過ごす領域はその手を離れてしまえば、瞬く間に自然に呑まれていくのだ。
エントロピー増大の法則。万物は不可逆的に無秩序へと向かっており、抑止する為には多大なエネルギーが必要となる。その為、人類社会も秩序を保つ為の存在が失われてしまえば、こうして崩れ去ってしまうのは自明だ。まあ、本で軽く読んだだけなので、適当だが。
そんなアオイからすればありふれた景色でも、助手席に座るミウは物珍しそうに眺めていた。きっと彼女はあの町を離れたことがなかったのだろう。少なくともこの二年間は。
二年。そう、まだたったの二年だ。にもかかわらず、人類の住んでいた世界はこんなにもボロボロになっている。今、この世界には何パーセントの人間が生き残っているのだろう。これまで見てきた範囲で言えば、一パーセントも残っていないように思う。
全ての原因は太陽で生じた
とはいっても、あくまで蓋然性のある推論でしかないが。実際に調査することはもはや不可能なのだから。アオイ自身、後に上官の口から聞いたことや本で軽く学んだ程度に過ぎない。
当時のアオイは自衛官として駐屯地にいた。普通科に所属で階級は三等陸曹。高校卒業後に入隊し、五年余りが経過した頃。
国際情勢は深刻な状態となっており、いつ第三次世界大戦が起きてもおかしくなかった。
そんな状況のある日、突如として全国各地で電波通信障害が発生し、間もなくして同時多発的に飛行機が墜落した。それだけでも未曾有の惨事だ。
しかし、その数時間後、災禍は無情にも次の段階へと移行した。
突然、下り切った夜の帳が真紅に染まった。夜空自体が発光していた。オーロラだ。それは夜空にたなびき、煌めいていた。人類に破滅をもたらす光のように。
オーロラは全国各地で鮮麗に見えたことだろう。なぜなら、その時には電力が全て喪失していたのだから。更に飛行機墜落とはまた別の形で火災が多発していた。
以上がその日に起きた出来事だが、それぞれスーパーフレアを発端とした原因がある。
まず初めに太陽から第一波として電磁波が到達した。それによって人工衛星の基盤が破壊され、通信にも様々な影響を与えたようだ。
続けて、第二波として放射線粒子が襲い掛かった。それは高高度の飛行機内の被曝を致死量へと至らせたのだろう。パイロットが死んでしまえば、まともな着陸など出来るはずもない。
最後に遅れて地球圏に飛来したのは巨大なプラズマの塊だ。
スーパーフレア以後に起きたことは筆舌し難い。惨劇としか言いようがなかった。
電気、通信、水道といったインフラが完全に失われ、更にはあちらこちらで火災が発生する中に放り出された人々は、すぐさま恐慌状態に陥った。国や政府は機能しておらず、復旧するかどうかも分からない。そんな状況下ではこれまで人類が築き上げてきた秩序は瞬く間に崩壊したのだ。
食料や水の奪い合い、容赦なく襲い来る地震や台風といった天災、過酷な冬の寒波。他にも様々な事象が人々を淘汰していった。
そうして、今に至る。その間にも色々あったが、アオイは何とか生き延びてきた。
各地を放浪する内にコミュニティが僅かながら形成されていることを知り、それからは都市部で使えそうな物資を入手して運ぶことを主な仕事としている。
そんなことをしながらも、定期的に一所でゆったりと休む為、拠点としている場所がある。それが今のアオイにとっての家だ。
アオイが運転する車は山中に入り、荒れた道路をオフロード対応のタイヤが踏みつけ乗り越えていく。周囲の自然が猛威を振るう有様に、ミウは先程の町並みよりも更に興味津々な様子だった。
やがて、立派な木組みの建物の前で停車した。どうやら以前はキャンプ場だったらしく、それは恐らく管理人用の建物だったのだろう。住む為に必要な設備が一通り整っていて、発見した時には誰も寄り付いていない様子だったので、有難く使わせてもらっている。
車でなければ来るのは困難な場所なので、不届き者の心配もない。通常のガソリンには使用期限があり、基本的に半年程度の為、今や車に乗る者は非常に限られているのだ。
アオイは缶詰となったガソリンを保有しており、それならば二年経った今でも使えている。とは言え、如何に缶詰と言えど使用期限があり、あと一年程度しかないのだが。
車が完全に使用できなくなった場合、どこかのコミュニティへの移住も止むを得ないだろう。もしくはこの場所で暮らし続けるか。今は考えないことにしている。
「さ、下りて家の中に入るよ。まだ怪我も治ってないんだから、今日のところは身体を休めること。いいね?」
「はい、先生」
「先生はやめて……普通にアオイでいいから」
ミウの言葉にふと自衛官時代を思い出した。同じような言葉を聞いたのは、もう六年くらい前だ。
これまでの人生で、たった一人だけ弟子がいた。けれど、そいつはもういない。この手で終わらせた。狂ってしまった世界での凶行を止める為に。
それは、アオイが体験した初めての人殺しだった。
家に到着してまず行ったのは、ミウを風呂に入れることだった。
とは言え、電気が通じていない今の世界では、水道は使えなければ給湯器も動かず、浴室が使えるはずもない。
その為、アオイは近くの川の傍にドラム缶風呂を設置していた。川の水を汲み入れて、下から焚き火で温める。設置するのはそれなりに大変だったが、その甲斐あって重宝している。
別にミウの姿や臭いが不快というわけではない。ただ、今後コミュニティで過ごすことも考えれば、やはりある程度は身綺麗にしておいた方が良い。それは秩序立った文明人の証とも言える。
ミウが今後一人でも出来るように教えながら、風呂の準備をした。ちょうど良い温度になれば、後は放っておいてもある程度の時間は保温される。
ドラム缶の底には適当な石を敷き詰めてミウの背丈に合わせた。あちこちに貼っていたガーゼを剥がすのを手伝い、後は一人で入らせることにする。
その痛々しい程に痩せた裸体を見て、ふと問いかける。
「今、何歳?」
「たぶん、十二歳」
それを聞いて、やはり身体の発達が遅れていると思う。目算で130cm程度しかない。スーパーフレア以前の同年代ならあと15cmは大きいだろう。元から低い方という可能性もあるが、この数年の食生活が原因と考えた方が納得がいく。
特にこの一年は一体どんな風に生きて来たのだろう。しっかり聞いておくべきだろうか。
……いや、やめておこう。深入りはしない方が良い。情を持たれては困る。一定の距離を保たなければならない。
「それじゃ、私は離れてるから。ゆっくり浸かると良いよ」
アオイはそう言って離れると、煙草を吸い始めた。昨日から連れ立っていたので、なかなか吸う機会がなかったのだ。
一応、ミウが見える位置にはいるけど、命の危機にでも瀕しない限り手は貸さない。少なくとも、この一年は一人で生きて来たのだから、分かるだろう。
誰も助けてなんてくれない。どんなことでも自分の力で何とかしなければならない。
こちらがすべきはその自立力を高められるように道筋を示すことだ。決して彼女の手を取ることではない。
やがて、大きな問題はなく入浴を終えたので、家に戻ることにした。
ミウが新しく着用している服と下着は、道中に寄った服屋で回収した物だ。服は店がたくさんあり、一つ一つがそれなりの期間着ていられることもあって、今も割と残っている。その中から動きやすそうなのをいくつか見繕ってきた。
風呂に入って服を替えただけで随分と見違えたように思う。だからと言って、何か言葉を掛けるようなことはしないが。
アオイは淡々と用件を告げること以外はせず、時間になれば食事などを済ませるだけでその日は終わりを迎えた。
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