Beautiful life

吉野玄冬

プロローグ

 夕焼けがじゃくとした町並みを染め上げている。荒廃の様相を覆うそれはまるで、ドロリと濁った赤褐色の血液が裡側から染み出しているように見えた。

 今日はここで夜を明かすしかないか。

 そう判断したアオイは運転していた車を傍からは見えにくい場所に停めると、1/2tトラックパジェロのオリーブ色の車体へと闇夜に溶け込むような黒のカバーを被せた。


 そうしてから軽く周囲を見渡した。

 走ってきた道路はパッと見ただけでもひび割れと亀裂だらけだ。ただ、なだらかな路面を保っているだけまだマシな方で、場所によっては崩落していたり倒木で塞がれていたりする。今や道路はどこもそんな状態なことに加えて、外灯も機能していないので光源は星や月のみとなっている。夜に運転することは自殺行為だ。

 この辺りは元は住宅地域だったようだが、まともな外観を保っている家は少ない。窓ガラスは当たり前のように割れており、中も散々に荒らされているのが大半だろう。黒焦げとなって原型を留めていない物もある。


 少なからず住人もいるはずだが、路上には人っ子一人見当たらない。日中なら多少は表に出る者もいるかもしれないが、夜が迫れば誰もが隠れ潜むのだ。略奪の憂き目に遭わない為に。

 この辺りには前も来たことがあった。完全に秩序が喪失した地域だ。周辺には他者との協調を是とする善なる人々が形成した共同体コミュニティも存在しない。だからこそ、他者からの略奪を是とする悪党どもが蔓延っている。


 嫌な記憶もある場所だが、仕方ない。夕飯にはまだ少し早いので、まずは一服しよう。

 アオイは適当な段差に腰かけると、取り出した煙草に火を灯した。


「ふぅ……」


 紫煙をくゆらせながら一息吐く。この間だけは色々なことを忘れられる。

 しかし、そんな安息の時間は遠鳴りに聞こえてきた怒声によって瞬く間にぶち壊された。


「──このガキッ! さっさと吐きやがれッ!」


 アオイは苛立ち交じりに煙草を揉み消すと、声の出所へと向かった。

 そこでは見るからに粗暴な男が、襤褸ぼろを纏った少女に対し暴力を振るっていた。倒れて動けない様子の相手に容赦のない蹴りを浴びせている。


「どこかに食い物隠してんだろ? そいつを素直に出せば楽にしてやるからよ」


 男は少女の身体を軽々と掴み上げると、そんな風に言った。

 けれど、少女はそれに答える余裕はなく、全身を襲う痛みに呻くだけだった。


「おい、あんた。そこらへんにしときなよ」

「あぁ? 何だ、てめぇはよ。ぶっ殺されてぇのか!?」


 アオイが口を挟むと、男は不愉快そうに顔を歪めて、少女の身をその場に落とした。

 そして、何の躊躇いもなく、こちらに向かって拳を振りかざしてきた。

 息をするように暴力を振るう。もし少女がこの男から食料を奪ったなら、生かしておいてやろうかと思ったが、同情の余地はなさそうだ。


 アオイは男の拳を冷静に躱してその腕を軽く掴むと、捻りながら相手の側面に自らの身体を入れた。生じた力の流れに逆らわず滑らかに、自分も相手も一切の抵抗を感じないように。

 そうすると、男はくるりと半回転し、その場に尻をついた。呆然とした表情。何が起きたか分かっていない様子だった。

 四方投げ。合気道における最も基礎的な技だ。派生形が無数にあり、今のも実戦で使いやすくした内の一つとなっている。


 アオイは服の内に付けたホルスターから9mm拳銃のSFP9を取り出した。その銃口を緩やかに男の額へと突きつける。そこでようやく自らの首元に死神の鎌が触れていると気づいた様子だった。


「や、やめっ……!?」

「悪に堕した者には死を」


 アオイは裁きの文言を告げると、無慈悲に引き金を引いた。タンと軽快な銃声が鳴り響く。

 男はビクンと一度だけ痙攣し、横に倒れ伏した。脳天に穴の空いた死面が視界に焼き付くが、動じたりはしない。人を殺すことへの抵抗など、とうに失われている。


 この男のような略奪者をこれまで何十人も殺してきた。今でこそ消極的にしか殺していないが、以前は積極的に狩りに出ていた。悪を野放しにしておくことは出来ない。僅かだけれど、確かに残っている善を守る為に。

 ……私に出来ることは、これくらいだから。

 そう内心で呟いたアオイの脳裏にふと祖父の言葉が蘇る。


『手にした力は正しく使わなければならない』


 それを聞いたのはもう十五年以上も前だが、今もこの心中に深く根差していた。

 アオイは拳銃を仕舞うと、少女に目を遣った。身体を起こすことも出来ない様子だ。

 自分で切ったと窺える乱雑な髪。長い間、洗っておらず取り替えてもいないであろう衣服。体躯は骨と皮だけというように痩せ細っており、日々に必要な栄養が欠如していると分かる。

 背丈からは小学校低学年くらいだと判断できるが、健全な成長が損なわれている可能性が高いので、正確には不明だ。

 ただ、そんななりにも関わらず、こちらを向いたその大きなひとみだけは炯々とした火を灯しているように見えた。


 両親が既に死んでいる子供は珍しくない。その大半は飢餓と暴悪に晒されて短期間のうちに死に至るが、時には逞しく懸命に生き延びる者もいる。アオイはこれまでにそんな子供を少しは見つけたことがあり、保護してきた。

 しかし、今回に関してはざわつくものを感じていた。他の場所でなら何も思わなかっただろう。だが、ここは忌まわしい記憶を想起させるには十分だった。

 何とか不快感を抑え込みながら、アオイは訊く。


「動ける?」


 とりあえず車まで連れて行って、手当てする必要があるだろう。

 しかし、少女が掠れ切った声で初めに呟いたのは、こんな言葉だった。


「わたしに、人の殺し方を教えて」

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