夜の散歩

鯖缶/東雲ひかさ

夜の散歩

 私は夜の散歩が好きだ。私は夜の住人なのだ。

 散歩というと何か健康的に聞こえてくるかも知れないがそもそも夜だから周りからしてみれば紙一重の不審者だし、そうなるとそれは徘徊になるし、私自身夜の徘徊に関しては散歩だと思ったことない。どちらかと言えば彷徨に近いと自分でも思っている。

 私の住む場所は田舎だ。だから夜になれば車通りは勿論、人通りもほぼなくなる。

 家は大通りから奥まった裏手にある。

 家を出ると奥の方に自動販売機がある。自動販売機は大通りに出るための道、つまりT字路の歩道にある。

 裏手は暗い。なので自動販売機が何となく灯台のような役割になって大通りに出る。

 大通りに出ると森閑としていて不気味だ。人通りも車通りもやはりない。

 大通りの奥までずっと等間隔に置かれた街灯がもはや何を照らしているのか曖昧だ。それは右を見ても左を見ても同じだ。

 私は意味なく道を渡り反対側の歩道を進み始めた。

 風もなく草の擦れる音すら聞こえない。私の足音と衣擦れの音だけがこの世界を支配している。

 そう思うと手持ち無沙汰な街灯は私を照らすためにあるのではないかと思えてくる。過言だし頭上を見ると街灯に虫がたかっていたので街灯は虫のために光っているらしかった。

 そんなことを思うとデジャヴを感じた。ここ最近も、どころか去年もこんなことがあった気がした。というか確実にあった。

 そして私は漠然とした記憶を頼りにデジャヴの意味を引くのだ。するとデジャヴの意味は『初体験にも関わらず体験したことがあるように感じること』とそう書かれている。

 やはり私のデジャヴは誤用だったのか、そう思って既視感ならどうかと調べると丁寧に誤用の欄が設けられて私の『既視感』の意味が記されていた。

 言葉は生き物というように誤用だって言葉は言葉だ。意味は通る。

 そんなふうに結論づけて私はデジャヴを感じ直す。頭の中の話なので既視感ならぬ既思感だなと思ってみたりする。

 私は街灯から目を離して辺りも見てみる。すると不思議と既視感があった。いや、不思議じゃない。最近も去年もその前から見続けている景色だ。

 私は歩を進めながら思索する。

 そうか、私は繰り返す時間軸を生き続けているのか、と気づいた。

 それは朝起きて夜寝てのことは勿論、季節も同じように巡り、それに代わり映えは基本ない。私はその巡る朝晩を日として、巡る季節を年としてただ数えているだけなのかもしれない。それはただ単調に、陸上のトラックを回り続けるように繰り返されているのかもしれない。

 ぼけーっとしているとノラ猫が目の前を走り去っていって驚き、私は忘我から返った。いや、忘我と言うには自分の生活と向き合っているような思索だったので微妙なところか。

 自分の生活を思案と鑑みるとそこまで繰り返しの日々ではないことにも気づいた。

 何故だろうか。それにはすぐ答えが出た。

 繰り返しの日々の中にもある程度変化があるのだ。落ち込んだり笑ったり、ときめいたり、例えば慣れない筆を執って小説を書いてみたり、非日常を嗜む。

 言うなれば別時間軸に飛び乗っているようなものか。

 そう思うと基準の退屈な時間軸があるのも納得というか何というか、存在してもしかるべきだな、なんて思えた。

 私はふと横の車道を一瞥したのち、すぐ車道をまじまじと見直した。右、左と車が来ていないのを確認する。人の気配も感じられない。

 魔が差してしまった。

 私はひょいとジャンプして別時間軸に飛び込んだ。

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