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僕は彼女のことを深く知らなかったし、彼女も僕のことを深く知らない。人間の関係なんて特別なもの以外は大抵がそんな風で成り立っていて、その事実自体は取り立てておかしいものではなかった。だからこそ、人は特別な関係というのを築きたがるのだろうから。
ただ、僕らに残された期間はせいぜいが一か月と少しと言ったところで、互いのことを知るためにはあまりにも短い時間だった。そこらへんのカップルと同じように、週末だけ出かけに行くなんていうゆったりとしたお付き合いをしようものなら、僕は何も知らないままで彼女を殺すことになってしまう。一日であろうとも、無駄にするわけにはいかないということで、僕らの意見は合致した。
幸いなことに、高校生の僕らは夏季休業に入った。本来であれば、三年生は受験勉強に精を出すべき時期で、恋人に現を抜かす暇なんていうのはないんだろうけれど、今の僕らには勉強に現を抜かす暇がなかった。
全力で恋人をしようという意気込みと、夏特有の焦燥感に押され、僕らのやる気は十分だった。ただし、僕らにはやる気しかなかった。
僕も彼女も、交際経験は一切ない。そういうわけで、何をすればいいのかという問題に、まず僕らは当たることになった。
案外、いざ付き合って何をするか、というのは難しい問題のように思える。僕らみたいな初心な人間が知っている恋愛というのは大抵が当然のようにフィクションのものになるわけだが、僕らは食パンを加えながら曲がり角でぶつかったわけでも、いがみ合っている家の子供同士というわけでもない。ようするに、ああいうのは結局エンターテインメントに過ぎず、現実の参考になるものは少ないのだ。
そうなると、僕らの恋愛知識はあっという間に底を尽きる。安いコーヒー一杯を片手に冷房のよく効いたカフェに居座って、今日で三日目だった。学校はないのに制服姿の彼女は少し目立つけど、カフェでたむろする学生なんていうのは最近では少なくないので取り立てておかしいというようなことはない。
「そもそも、土台無理な話ではあるよね。あと三十日、毎日デートに行くって考えたら、週に一回デートに行くカップルの七か月分くらいなんだよ?」
そう言ってから、彼女はちう、とストローでアイスコーヒー飲んだ。反論のしようもないくらいにごもっともな意見だった。
「うーん、難しいよなあ。大体世の中何をするにしてもお金が必要なことが多いからね。僕らみたいな高校生にはなかなか世知辛い世の中ですよ」
「資本主義社会って冷たいねえ」
「全くだよ」
僕はこくりとコーヒーを飲む。少しでも長く居座るために、舌を湿らす程度の、なんとか味が分かる程度のわずかな量の嚥下。店には申し訳ないと思うし、なんてせせこましいことをしているんだろうと思うけれど、ひと夏遊び尽くすには懐にどれだけあっても不安なのだ。少しでも出来るところで節制しなければならない。
「ええと、今までの会話を整理しようか。行けそうなものとして挙げられたのが映画、ショッピング、水族館、動物園、美術館、博物館、遊園地、寺社巡り、お祭り、山登り」
スマホに箇条書きでメモした文字列を順に読み上げていく。かろうじて十個挙げることが出来たのはなかなか褒められる出来なのではないだろうか。
「最後のはヤケクソで挙げたからなしで。私、山登りなんて無理だよ」
「僕も無理だね。山登りなんて小学校の遠足でしかやったことないよ」
メモ欄から山登りの三字を消す。これであっという間に九個に減ってしまった。
「取り敢えず挙げたけど、改めて考えるとなんで登山者はこんな炎天下の中で山なんて登るんだろうね。私にはまるで理解が出来ないよ」
「んー、そうだな。ランナーズハイって言葉があるみたいに、身体を追い込むことによって脳の妙なところが刺激されて一種の興奮状態に陥る。それが癖になってやめるにやめられないっていうのはどうだろう」
「多分、正解じゃないし、そんな中毒者みたいな推論は登山者に聞かれたら怒られそうだなあと思う」
「まあ、幸い君は登山者じゃないしいいかなって」
「それはそうだけどさ」
彼女はストローでくるくるとコーヒーをかき混ぜながら笑う。その何気ない動きが、表情が眩しくて、僕は頬を綻ばせかけるけれど、あんまりだらしない顔をしたら気持ち悪がられるような気がしてなんとか平静を装う。
彼女は身を乗り出して僕のスマホを覗き込む。
「山登りは除くにしても、さっきいった通り他は殆どお金がかかるよね。寺社巡り以外は全部かかるかな?」
「とはいっても寺社巡りだってここら辺にまともな寺社がない以上、遠出するしかないしな。交通費だって馬鹿にならないよ」
「だよね。というかさ、君は神社とかに興味あるの?」
「いや、ないけど」
御朱印巡りの特集をテレビでやっていたからなんとなく提案しただけだった。そもそも、寺社巡りはカップルというよりも老夫婦向けなコンテンツな気もする。
「じゃあ、これも却下でいい?」
「そうだな」
更に減って八つ。
「ショッピングは、検討できるものに入るかな。ウィンドウショッピングにすればお金もかからないだろうしさ。他は、美術館とか博物館だと場所によっては高校生無料のところがあるかも」
「え、そんなとこあるんだ」
そういうインテリジェンスな場所に足を踏み入れたことのない僕は当然のようにそんなことを知らない。
「うん。ここの近くにもちょっとあったはずだよ。あとの映画、水族館、動物園、遊園地はやっぱりどうしてもお金がかかっちゃうかな」
「そうだよなあ。そもそもお金がかからない美術館とか博物館に毎日通うのも飽きるだろうし、やっぱりもっと考えないと駄目っぽいよね」
「そうだね。といってもお金かけないで遊べるところって言われてもそんなないから難しいんだけど」
「んー、ある程度なら僕が出すからもうちょい金銭面に関しては緩く考えようか。そうしないとどこへも行けない」
手元にはないけれど、確か銀行に八万円くらい預けられていたはずだ。二人で割って一人四万。こう考えると結構遊べそうな気がしてくる。
「でも申し訳ないよ、それは。恋人ってフェアな関係だと思うんだけど、それだとアンフェアじゃない?」
それに、と彼女はひと口コーヒーを飲んでから言葉を続ける。
「どうせあとひと月で死ぬ人にそんなお金を使うのはもったいないよ」
彼女は、時々こうしてからりとした言い方で自らの死に触れる。いつもそこには自虐も哀愁もなくて、ただ淡々とした言葉があるだけだった。
僕は、未だに彼女の死との距離感を掴みかねている。思いつめるほど誠実に向き合うことも出来ていないし、嘲笑うほど見放しているわけでもない。寄り添い、世界を見捨てた方が良いのか、あくまでも冗談だと受け流して軽く付き合った方がいいのか。
僕がこうしてカフェで彼女と今後の計画について話しているのは、彼女と親密になりたいというのもあるけど、彼女を知り、そしてその奥にある死について知りたいのかもしれない。
彼女の顔を見る。スマホに落とされたその目は前髪に隠れてちゃんと見ることは出来ないけど、それでもその深淵のような虚には腐乱死体のような、不可抗力的に引きずり込まれそうな力があった。
「ん、どうかした?」
僕の視線に気づいたのか、彼女が顔をあげた。ふわり、と髪が揺れる。ただの物理法則に一々逆上せそうになるあたり、僕は相当彼女に参っているんだなと改めて思う。
「……フェア、アンフェアという話に関しては、男っていうのはそういう性分なんだよ。女にカッコつけたがるんだ。こういう時は、奢られるのも彼女の礼儀だよ、多分」
それから、と僕はひと口コーヒーを飲んでから言葉を続ける。
「そもそもあとひと月で死ぬことで何かを気にしているようなら付き合ってないよ」
彼女の死は未だに実感が湧かないが、彼女との関係に終わりがあるということは実感している。実感して、嚥下して、そのうえで僕は今も彼女と一緒に居る。もったいないとか無駄だとか、そういう反駁は既に自分の中で終わっていることだった。
なら、どうしてそういう結論に至ったのかと問われると、今度は困ることになる。立派な哲学とか意思があるわけじゃない。居たいと思ったから居るだけで、その理由まで突き詰めれば恋とかいう陳腐な言葉に落ち着いてしまうんだろう。ただ、恋という言葉はあまりにも暴力的で、その言葉で括るだけで精巧な細部の感情を見落とすことになる。
恋なんて曖昧に言わずに、僕の本当の理由は、いつかもっとうまく言葉に出来るかもしれない。けれど、まだ分からないから今は取り敢えず、そういうことにして心の中に仕舞っておく。
「それはまあ、確かに」
うんうんと彼女は頷く。
「なら、甘えさせてもらうけど、無理はしないでね。死ぬ人間よりも、生きる人間の方が大事なんだからさ」
僕は「うん」と頷きつつ、それは、死ぬ人間の論理なんだろうと思う。残される人間からすれば、死に際を彩ってあげたいと思ってしまうものだ。それに意味なんてないとしても、残される者の自己満足に過ぎないとしても。
死に際というのは大事だ。厠で死んだ武将にはなんとなく情けないイメージがつくし、どれほどの悪人でも老人を庇って死んだら実はいい人だったのかもしれないなんて勝手な期待をする。
それは見送る側も同じで、どれだけ死んだ時にその人を悼んだかでその人に対する想いを決めつけられるし、自分でも決める。生前どれだけ親交があっても葬式で涙ひとつ流さなければ薄情者だし、殆ど関わったことのない人でも死んだことに涙すれば情深い人間ということになる。
結局、エゴなのだ。生きる人間特有の、言葉にならない底流を蠢く、冷たい戦争。
生きている人間と死んだ人間が交わらないように、自分の死に余計なものを背負わせたくない、死ぬ人間のエゴとはまるで交わらない考え。多分、空と海が交わらないように、朝と夜が混ざらないように、仕方のないことなんだろうけれど。
閑話休題。
「そういうわけでお金の問題は横に置いておくとして他に行きたいところとかある? ……と言いつつ、僕はネタ切れなんだけど」
「んーと、行きたい場所か」
彼女は左上の方を見ながら「むう」と思い悩む。可愛かった。こんなくだらない所作のひとつで幸せになれるなんて、単純な人間だ。けど、世の中単純な人間の方が得をする。知識は甘い毒だ。見たくないものまで見えてくる。それなら、いっそ単純な方が楽しく生きることが出来る。
コンピュータの思考がゼロとイチで出来ているみたいに、僕の思考も彼女と僕だけにならないだろうか。あれ、これじゃあ好きすらなくなるから駄目か。二人きりの世界なんてロマンチックな感じもするけど、事実だけの世界なんて面白くない。感情とか、そういう無駄なものが入ってようやく世界は面白くなるのだ。
「あっ」と彼女が声を上げて僕を見る。「ん?」と尋ねてみる。
「海行きたい。夏だし」
「あー、いいね」
海なんて行ったことないけど、確かにいいかもしれない。カップルがよく行くイメージあるし。
「ただ、泳ぐのはナシですね。私、泳げないので。海辺をこう、歩く感じで」
「はいはい、了解です」
まあ、僕も泳げないのでそこら辺に異論はない。山の案が即却下されたことといい、意図していたわけじゃないけど見事に二人揃って運動出来ないし出不精だった。
あるいは、彼女の泳げないというのは見せて貰った痣のせいなのかもしれないと少ししてから気が付いた。痛々しいあの痕は見せたくないし、見せられもしないだろう。
あの傷を美しいと思ったと言ったら、彼女は怒るだろうか。一か月も待たずに別れを告げられるだろうか。
そんな疚しさから逃げるためにコーヒーを飲むと、カップが空になった。一杯で粘るにはそろそろ限界のようだ。
結局、今日もカフェに籠ってしまったなあと思いつつ、振り返ってみると彼女と話せて、彼女のことを見れて、結構幸せだったことに気が付いた。そりゃあ、イベントと呼べるようなものはなかったけれど、ささやかな、けれど確かな幸せを噛み締めるような時間だった。
もしかしたら、こうして計画立てているこの時間も、それなりに恋人らしいことが出来ているのかもしれないとか思いながら、彼女の顔を見た。
夏は進む。残った時間は減ってゆく。
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