夏とともに君は死ぬ。

しがない

1

「夏の終わりに、私を殺してよ。もし、約束をしてくれるなら付き合ってあげるからさ」

 校舎の裏の影で、君はそう言って笑った。吹いた初夏の風がそのまま連れ去ってしまいそうな、果敢なく、寂しい雰囲気を抱えていた。

「殺すって、どうして――」

 絞り出したような僕の声は鳴り始めた蝉の声にかき消されそうだった。戸惑いで塗りつぶされたような、自分でも嫌になるほどの情けない声。

 彼女はそれを嘲笑うようなことはなく、疲れ切ったような笑みを浮かべる。

「死にたいからだよ。ただ、それだけ」

 彼女の髪が揺れた。肩ほどまで伸びた艶やかな黒髪は、いつものような美しさではなくどこか不安になるような妖しさを纏っていて、名状の出来ない不安のような感情が胸の中をかき回す。

 あるいは、この妖しさは今まで僕が都合よく見ようとしてこなかったものかもしれない。引き摺り込まれそうな、仄暗い雰囲気はそう思うほど彼女に馴染んでいた。

「君はさ、死にたいと思ったことってある?」と彼女は週末の予定でも聞くみたいになんてことなく、僕に言った。

 今まで、死にたいと思ったことはなかった。ただ、それをそのまま口にすると彼女のことを否定してしまうようで、そして陽炎のように朧気な彼女はそれだけで消えてしまいそうで、僕は婉曲な言葉を探す。

 けれど、無言は時として言葉以上に物を語るわけで、彼女は察したように「うん」と小さく頷いた。

「別に、負い目を感じるようなことじゃないよ。死にたいと思っている私でも、死を美化するつもりなんてないもん。怖いし、暗いし、死なんて誰だって真っ平だよ。でも、それでも、私は死にたいと思っちゃうんだ」

 彼女は校舎の壁に寄り掛かった。灰色の、コンクリートの壁は初夏の日差しを避け影に埋まっている。触っていないながらもひんやりとした、無機質な冷たさを思い出した。

「私は死にたいけど怖い臆病者だから、誰かに殺して欲しいの。自分勝手な話だけどさ」

 それに、と彼女は悪戯っぽくはにかむ。

「恋人に殺してもらうって、なんだかロマンチックでしょ?」

 僕には、その価値観は分からなかった。どうやって彼女を殺すにしても、その光景はきっと不気味で、醜悪で、残酷にしか過ぎないように思えて、僕は始めかけた想像を断ち切る。

「それで、どうするの? 付き合う? やっぱやめる?」

 あどけないように聞こえるその言葉の奥には僕では抱えきれない何かが見えるような気がして、「はい」か「いいえ」の簡単な答えを、僕は答えあぐねる。

 死ぬとか、殺すとか、僕にはあまりにも遠すぎる話だった。葬式にすら未だ出たことのない僕にとって、人間の死はフィクションの中にだけ存在するもののようで、実感が湧かない。

 そもそも、言葉面だけで見れば、婉曲なお断りにも見える。交際と人殺しは、月よりも離れている言葉のひとつだ。冗談だととる方が自然なのかもしれない。

 しかし、彼女は至極真面目に言っていた。おどけるわけでも、緊張するわけでもなく、今日の天気について述べるように、ただそこに在る事実を言っているように僕には思えた。

「……僕がやめたら、君はどうするの? 他に殺してくれる人を探すの?」

「多分、一人で死ぬんじゃないかな。よく分からない人に殺されたいと思うほど、私はヤケじゃないよ。死に際くらい、自分で選びたいから」

 それを言えば、僕だって今はよく分からない人だろうけれど、付き合えば、これから互いを知っていく。良いところも悪いところも、癖も好みも、僕らは向日葵のようにひと夏をかけて知り、秋になる前に散る。

 僕は、彼女のことを殺せるほどに愛せるだろうか。

 彼女の後ろに見える、目が痛むような空の青を仰ぎ、それから彼女に目を落とす。

「ひとつだけ、僕からも条件をつけていい?」

「ものによるけど」

「どうして君は死にたいの?」

 そう尋ねると彼女は少しの間目を瞑った後、コンクリートの壁から背中を剥がし、シャツのボタンを上から三つ外す。

 そうして露わになった肌は未使用のキャンパスのように真っ白で、しかしその中に青黒い痕が幾つも乱雑につけられている。

「これでいい?」

 彼女は何も語らなかった。痕を見せただけで、それは何かを察するには十分なものだったけれど、その何かは未だに何も分かっていない。

 ただ、僕は「うん」と頷いた。それ以上を聞く必要はなかった。

 彼女はシャツのボタンをかけ直して、改めて僕の前に立つ。ぴんと背中を伸ばして、にこりと笑う。僕は今更になって恥ずかしさがぶり返して、彼女の肩まで目線をずらした。

「それじゃあ、よろしくお願いします」

 彼女はそう言って手を伸ばした。付き合うって、こういうものだっけと思いながら僕はその手をとる。

 細く、脆く、冷たい手の感触。強く握ってしまうと崩れてしまいそうで、けれどしっかりと握らないと零れ落してしまいそうで、ゆっくりと包むようにその手を握る。

 僕らの夏はそうして始まった。

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