蟒蛇さん

鳳濫觴

नाग

「は、何言ってんすか」

 牧は吐き捨てるように言った。

「だから蟒蛇うわばみさんだよ」と、面倒臭そうにつぶやいた。

「啓太くんがいなくなったのは蟒蛇さんのせい」

「なんで」

「最近ちょっと調子乗ってたじゃん。後輩から金巻き上げたり、女の子普通に騙すし、それ誇張して喋るし、平気で嘘つくし」

 確かに彼女の言う通りだが、こいつにだけは言われたくないと思った。

 あくまでも石垣の知り合いなだけであって、牧にとって関係性はまったくないし言うことを聞く義理もない。

 目の前の彼女はがばがばと酒をひっくり返すように飲む。あっという間にテーブルは空のグラスでいっぱいだ。

「悪い悪い、トイレ混んでたわ。あれ? 俺の酒は?」

「飲んだ」

 心地よさげに吐息を吐きながら座布団に座った石垣はきょろきょろとテーブルを見渡した。彼女はドリンクメニューを石垣に手渡しながら残りのビールを飲み切った。がぶがぶと酒をあおっているのにも関わらず一向に酔った気配はない。

「ねえ、ピッチャーで頼んでいい?」

「良いけど、飲みすぎんなよ。この前も……あれ、なんだっけ。なんかあったろ」

「もしかして酔ってます?」

 ぽりぽりとひげの生えた顎を掻きながら小首をかしげた。特に気にも留めずにメニューに視線を落とした石垣に牧は訊ねた。

「ねえ石垣さん、『蟒蛇さん』って知ってますか」

「都市伝説の?」

「そうそう。そいつ、啓太がいなくなった原因だって」

 顎をしゃくって隣をさす。石垣はつまみを食べる彼女を一瞥した。

「蟒蛇さんってあれだろ? 悪いことすると連れてくっていうやつ」

「そう。それで食べちゃうんだって。だから蟒蛇さん」

 そんな子供だましに啓太は巻き込まれたのだと彼女は言う。小学生じゃあるまいしそんな話を真に受ける奴なんていやしない。

「あ、牧信じてないでしょ」

「そうっすけど」

 こんな話で信じる方がばかばかしいと牧はビールに口を付けた。とうとうぬるくなってしまった。ジョッキは大量の汗をかいている。

「つーか、警察は動かないのかね。俺はそっちの方が恐ろしいんだけど」

 相変わらず髭をいじりながら石垣が言うと、通りがかりの店員を引き留め注文をする。

「確かに啓太は最近調子に乗ってました。それは認めます」

「認めますって……」

「でも、だからって犯罪に巻き込まれてるのにその言いぐさはないんじゃないですか。妙な与太話なんか……関係ねえだろ」

 よし、言ってやったぞ。牧は鼻息荒く彼女を見た。しかし、彼女は頬杖をつき冷たく、そして無感情に牧を見つめているだけだった。

「な、なんだよ……」

 まるで時間が止まったかのように感じられた。店内はうるさいくらいだったのにまるで水中にもぐったかのように喧騒が遠い。

「なあ、もうラストオーダーなんだって。お前らなんか頼むもんあるか?」

「じゃあビール」

 石垣の声でようやく現実に浮上することができた。

 石垣を見ることなく彼女はそう言うと「ちょっとトイレ」と起立した。視線が外されたことでようやく大きく呼吸ができた。どうやら息を止めていたらしい。

「おい、牧?」

「水……水でお願いします」

 気づけば大量の脂汗をかいていた。とっさにおしぼりで拭うと石垣をじっと見つめた。

「ねえ、石垣さん。あの人なんなんすか」

「なんなんすかって?」

「知り合いかなんか知らないっすけど……女のくせに生意気っていうか。俺後輩っすけど男立てられないし空気読めないとかちょっと付き合い考えたらどうなんすか?」

 石垣はぽかんとした表情で牧を見つめるとポケットから煙草を取り出し咥えた。

「なに言ってんだよ。あの子、牧の知り合いなんじゃねえの」

「はあ? 石垣さんの知り合いだか彼女だかでしょう?」

 俺たちの間には大量の空のグラス。視線は自然とトイレの方へ向かった。

「俺は石垣さんの彼女だと思ってましたけど」

「はあ? 俺彼女いるけど」

 そういって携帯を見せる石垣。そこにはさっきまでの女とは似ても似つかない女と映る石垣がいた。

「じゃあ、あいつ誰なんすか……」

「知らねえよ……気味悪いこと言うなよ」

「名前知ってます?」

「知らねえよ。あいつ名乗ってねえだろ」

 一気に肝が冷え顔色が悪くなるのが見てわかった。きっと自分も同じ顔をしているのだろう。牧はそう思った。

「……俺帰るわ」

「ちょっと待ってくださいよ! 石垣さん!」

 立ち上がった石垣を慌てて追いかける牧。ちょうど厨房からラストドリンクを持ってきた店員と鉢合わせした。盆にはグラスが三つ。驚いている店員に「もう帰るんで」と断りを入れ店を出た。


 石垣はそのまま彼女の家に行くといい、最寄り駅にあるロータリーのタクシー乗り場に向かって行った。

 街灯だけの静かな住宅街を歩く。まだLED化されていないようでうすぼやけている。アルコールで火照り少し肌寒い。しかし、意識は妙にはっきりしていた。もちろんあの気味の悪い女のせいだ。

 こういう時にはナーバスになりがちでおかしな想像をしてしまうのだ。自分の足音の後についてくる足音が聞こえてきたり。そんな想像をして歩を止めた。しんと静まり返るアスファルトの道。雑木林の葉擦れの音。そこに棲む虫の声。真後ろにじっとたたずむあの女を想像してぶるりと身震いした。居酒屋で見たあの冷ややかな視線をして影の中からじっと睨みつけているような気がしてならない。目の前でちかちかと点滅する街灯が余計に雰囲気を出している。

 ホラー映画なんかだと振り返ると、たいてい悪い方にフラグが立つ。しかし、それは映画の話であって、現実の世界でそんなうまい話があるわけがない。牧はなんでもない風を装って振り返った。

 そこには居酒屋までの一本道が延々と続いているだけだった。門扉の影にも電柱の影にも女はいない。真後ろで街灯がぱちぱちと点滅する音だけが響いている。

 牧はほっと胸をなでおろした。点滅する街灯のせいで影が現れたり影に溶けたりを繰り返している。自分のと

「ひどいな。二人とも置いてけぼりにしてくんだもん」

 がばりと振り返るとあの女。大きく息を吐けば吐息がかかるような距離に立っていた。後ずさり、躓き、尻もちをつく。

「石垣くんは? この前逃がしちゃったんだよね」

「……お前誰だよ。気色悪いんだよ」

「ええ? 自己紹介したじゃん」

 女は「まああとでいいか」とつぶやくと一歩前に出た。ぴん、と街灯が鳴る。

「牧さあ、啓太くんのこといろいろ言ってたけど、あんたも大概だよ」

「なれなれしいんだよ! なんだてめぇ!」

 住宅街に牧の声が木霊した。ずりずりと後ずさるも一向に距離は広がらない。

「女の子に薬盛って売り物にしたでしょう。あの子たち泣いてたよ。」

「適当こいてんじゃねえぞ!」

「さやかちゃん、みさきちゃん、ゆりちゃん、あやちゃん、りんちゃん、れいなちゃん、まみちゃん、ありさちゃん、さえちゃん……もっといたよね」

 ぬるぬると距離が縮まっていく。腰が抜けてまともに立てやしない。

「石垣くんもだめだよね。彼女いるのに。その女の子たち食い物にしてさあ。何人かぼこぼこにしてたよね」

「うるせぇ! てめぇに関係ねえだろ! てめぇも回されてぇか!」

 居酒屋で見た冷たい視線。まるで獲物を睨みつけるそれだった。

「居酒屋でも馬鹿にしてたよね、蟒蛇さんのこと」

 そう言いながら鳩のように小首をかしげ、そのたびに女の体の中でバキバキと骨が鳴る。

 こいつまともじゃねえ。そう思ったとたん。急に酸素が薄くなったような感覚になった。まるで犬のように短く呼吸することしかできない。

「ダメだよ。そんなこと言っちゃ」

 ゆっくりと口を開けた。めきめきと骨が割れる音がする。顔の腱が伸び、引きちぎれ、薄膜となった皮膚に筋が浮き上がる。

「おご、が、おぉ」

 女の肺から押し出された空気が声となって漏れ出ている。逃げ場を失った肉のせいで圧迫され目玉が飛び出してきている。

「ひっ……、か、母さん! 母さん!」

 意味もなく母親を呼んだ。呼んだからと言って何が起こるわけでもない。

 牧は気づくと失禁していた。じょぼじょぼと股間から尻に伝い漏れ、地面を汚す。しかし、そんなことに気づかないほど目の前の怪物に釘付けになっていた。せざるを得なかった。

 目の前一杯に並ぶ歯。そしてうごめく赤い粘膜。それはひしめき合い、ねばつく唾液で糸を引き、こおこおと生暖かい呼気で揺れている。舌の垢のひび割れすらもしっかり見える。

 頭上から、何か降ってきた。とろり。糸を引いた唾液が頭から頬、そして肩を濡らす。しっとりと湿った舌が胸についた。ああ、すでに口の中なのか。健康的な赤い粘膜は影でどっぷりと黒ずみ、わずかな光でぎらついた食道が脈打ち、まるで歓喜に沸いているようだなと思った。



 ――行方不明になったのはN市に住む石垣祐介さん、二十八歳と牧直樹さん、二十三歳です。二名は二日の夜、市内にある居酒屋を出た後、行方が分からなくなったとのことです――

 清潔感のある歯医者の待合には物騒なニュースが連日流れていた。お年寄りが多く訪れるせいか、音量が大きく、診察台に横たわっていてもその音が漏れ聞こえてくる。

「はい、お口を大きく開けてくださいね」

 言われた通り、大きく口を開けた。ぽき、と小さく骨が鳴った。

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蟒蛇さん 鳳濫觴 @ransho_o

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