第10話
ねねが、私の体を扉に押しつけ、自分の体で蓋をするように覆う。
「ぐっ……」
ねねの細い手脚に、犬の牙が食らいついているのが見えた。
「ね、ねね……!」
「平気じゃ、これくらい……。それより、獏を見つけ出せ。敵は無数にいるが、獏自体はこの犬の中のどれかじゃ。それを叩けばすべて終わる」
ねねの顔が苦痛に歪む。夢の中で怪我をしても私は死なないだろう。だが、獏であるねねは、違う。
そしてこの犬は敵の獏だけが生み出しているのではない。私の無意識が犬を増やしている。だったらそれは、私の怯えた心がねねを傷つけているということだ。
「ぐ……むっ……」
ねねの肩から血が吹き出る。その血が私の顔にかかり、咄嗟に私は目をそらしそうになった。
目をそらす……それを思ったとき、私の脳裏に閃くものがあった。
そう……私はあのときも……。
恐怖の源、それを思い出す。犬の姿に怯える理由に私はようやく気がつく。
子どものころ、野良犬に追い回されたことがあった。そしてその数日後、私は犬の死体を見たのだ。
その死体がどうして死んでいたのか、車にでも轢かれたのか、それとも餓死したのか。それは知らない。それにその犬が私を追い回した野良犬と同じだったかどうかも定かではない。私はよく確認することもなくその場から立ち去ったからだ。死体が放つとてもリアルな死の感触に、私は恐怖し逃げ出したのだ。
だから私が犬に感じていたこの気持ちは、恐怖だけではなく、負い目や罪悪感というものなのだ。死体を恐れ、なにもせずに逃げ出したことに対して、私は申し訳なく思い、そしてその事実を思い起こさせる犬の姿にずっと怯えていた。
死体を見て逃げ帰った日。子どもの私は夜、布団にくるまりながらずっと考えていた。死んだ犬の魂が、その体を供養せずに逃げた私を恨み、憎み、襲いに来るのではないかと。そんな恐怖にずっと駆られていた。月日が経って、いつの間にか死体を見捨てた事実は忘れていた。いや、忘れたがって、本当に記憶の底に沈めていたのだろう。だが出来事は思い出せなくても、そのとき感じた恐怖と後ろめたさだけはずっと私の中に残っていた。
「っ……!」
突然感じた痛みに顔をしかめる。蓋をするねねの体の隙間を縫うようにして顔を押し込んできた野良犬たちが、私の体にかみついていた。太ももや脇腹、腕に、犬の牙が突き立てられる。
かみつく犬と目が合ったとき、私はぞっとした。濁った灰色の目。なぜ気がつかなかったのだろう。瞳孔が開いたままのこの目は、死んだものの目だ。私を追いかけてきたこの犬たちは、皆もう死んでいるのだ。
それに気がつくと、周りから死臭が漂っていることにも気がつく。中には、お腹に穴が空いたもの、毛が血に汚れたもの、骨まで見えるくらい痩せきったものがいる。彼らは死んでなお動いていた。恨みを晴らすために。憎しみのために。その怨嗟が唸り声となって、合わさって、廊下中に響き渡っている。
怯えるな、というのは無理だ。恐怖を感じるな、というのは難しい。私はそれでも戦わなくてはならないと自分を叱咤する。けれど冷静になれない。思考がまとまらず、夢を操れない。それどころか、どんどん恐怖と怯えに心がかき乱され、ここが夢か現実か判別がつかなくなっていく。
そんな私の耳にかすかな声が届いた。
「……恨みも憎しみも、生み出すのは己の心じゃ。死んだものはなにも思わん。誰かを恨んだりすることもない」
言われた言葉を、私は頭の中で何度も反芻する。同時にねねの息遣いを意識した。すると言葉は、ゆっくりと私の胸の内に染み込んでいった。
……そう。きっと彼女の言う通りだ。
恨みも憎しみも、私の思い込みにすぎない。死とは恨むことすらできないから死なのだ。だからなによりも切ないし、悲しいのだ。死んでなお何かが残ると思うのは、私の希望だ。暗い感情であっても、残っているなら報われる可能性がある。恨みと憎しみはやがて癒され、その魂は救われて成仏するとか、そういう想像をすることができる。
でも、そうはならない。暗い感情さえ残らないのがリアルというものだ。であれば、私を恨むこの野良犬たちの存在は、私の心の夢見がちな部分が作り出す幻想だ。幻想は時に生きるのに必要かもしれないが、幻想に怯えて殺されてまでやる義理はない。
自分の頭が少しずつ冷えていくのを感じる。恐怖は消えてはいないが、もうそれに踊らされているだけではない。獏に、自分の中の恐怖と後ろめたさに、立ち向かえる気がする。
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