第9話

「む……」


 ねねが階段の上の方を見た。私も耳を澄ませてみると、獣の息遣いが聞こえた。肌が、ビリビリとしてくる。獏が再び現れたのだ。


 狭い場所で迎え撃ちたくはなかったので、階段を下りることにした。だがマンションの部屋が並ぶ開放廊下にまで辿り着いたとき、さらに下の階段から野良犬が一匹顔を出した。


「も、もう一匹⁉」

「こっちじゃ、夢子!」


 ねねに手を引かれ、やむなく廊下の方へ走った。上と下の階段から二匹の野良犬が私たちを追ってくる。


 だが、増えた野良犬は一匹だけではなかった。


 廊下に並ぶ部屋の扉を通り過ぎた瞬間、その扉が開かれ、部屋の中から何匹もの野良犬が飛び出してきた。


「うひゃあっ」


 悲鳴を上げて頭を抱えた。だが足を止めている暇もない。扉を通り過ぎるたび、部屋の中からどんどん野良犬が飛び出してくる。


 廊下は普通の長さではなかった。走り続けても突き当たりの壁が見えてこない。夢の中だから建物の大きさもおかしくなっているのだろう。その分通り過ぎた扉の数は増え続け、そしてその扉の何倍もの数の野良犬が後ろから追ってくる。


 背後の犬の唸り声が幾重にも重なって聞こえる。振り向きたくなかった。振り返っても、狭い廊下に獰猛な野良犬がひしめき合っている恐ろしい光景が目に入るだけだろう。


「っ、まずい」


 ねねが舌打ちをして、進む速度を下げた。なにしてるの、と私は叫びたくなる。止まれば、後ろの犬にたちまちかみつかれる。


 だが、ねねが焦っている理由はすぐにわかった。前の扉からも野良犬が飛び出してきているのだ。前と後ろから挟まれ、私たちは足を止めざるを得ない。


 咄嗟に、一番そばの扉に背中を押し当てた。扉が揺れる。内側から扉を押し開けようとする重い衝撃が何度も繰り返された。この部屋の中にも野良犬が隠れているのだ。


 私とねねは、二人で必死に背中で扉を押さえつけながら、息を呑んだ。


 前と後ろから来た野良犬たちは、立ち止まった私たちを包囲している。警戒しているのか、すぐに飛びかかっては来なかった。無数の野良犬が廊下にひしめいていた。その濁ったいくつもの目が、私を睨んでいる。


 周りはすべて野良犬に囲まれ、背中も絶えず衝撃にさらされている。逃げ場所はどこにもない。


「ど、どうなってるのこれ」

「夢が変化している。敵の獏の仕業でもあるが、同時にお主自身の仕業でもあるかもしれん」


 ……さっき屋上で、獏に追いつかれそうになったのと同じか。私の怯えた心が、無意識に怖い想像を繰り返して、犬の数をどんどん増やしてしまった。私の恐怖心が、夢を敵に有利なように動かしてしまっている。


「そういうことじゃ。でなければここまで大掛かりな夢の変化を獏が一匹でできるとは思えん。ほれ、あれを見ろ」


 そう言ってねねは、くいっと顎を外へと向けた。そして私も気がつく。


「ひっ」


 外に並ぶ他の建物。マンションやビル、学校、民家。あらゆる建物の窓という窓、それに屋上。そこに、何千何万という犬が並んでいた。種類は様々だが、共通していることもある。全員が、どこにいても必ず私を見ているということだ。


「取り乱すな。それこそ相手の思う壺じゃ。言ったじゃろう。恐怖を利用しお主の心を乱すことが、向こうの目的なのだと」

「わ、わかってるけど……。でも……」


 これは流石に……。私は冷たいつばを飲み込んだ。


「夢子」


 ねねが、ドアに背中をつけたまま私の手を握った。


「恐怖を克服する方法は、わしにはわからん。それはお主自身で見つけるしかないことだからじゃ。だからたいしたことはしてやれん。ただそれでも、わしは、こうしてお主のそばにいる。どこまで信用されるかはわからんが、わしは、自分の食事のためというだけでなく、本当にお主の助けになってやりたいとも思っている。わしは、これ以上お主の記憶が、お主の存在が奪われていくのを見るのは、耐えられんのじゃ」

「……ねね」


 私は今の状況も忘れ、隣のねねを見つめた。彼女はこっちを見はしない。ただどこかにいる敵の獏を探している。


 ねねの言葉がどこまで真実なのかはわからない。だけど彼女の言うことを額面通りに受け取るならば、彼女は本気で私を気にかけてくれているようだ。その理由がなんであれ、彼女の言葉が本当なら、これは私だけの戦いではない。私の記憶が奪われることで傷つくのは、私だけではないからだ。その誰かのためにも、私は負けてはならないのだ。


 恐怖に震える心を叱咤する。野良犬は、怖い。昔追いかけ回されたから。でも、その程度のことをいつまでも引きずっている場合ではないだろう。この戦いには私の存在が懸かっている。


 周りの野良犬を睨みつける。この犬たちに攻撃する。もっと言うと、攻撃して……殺す。別に本当に動物を殺すわけじゃない。ただの夢だ。気にすることではない。だから大丈夫。そのはず……。けれど、私の攻撃で野良犬が力なく四肢を投げ出して倒れる、そのイメージが浮かんだ途端、胸のあたりがぐにゃりと歪んでいく感覚を覚えた。弱気になる。どうして。怯えているからだ。でも、それだけじゃない。これは、後ろめたさだ。犬を傷つけることに、私は後ろめたさを感じている。でも、違う。彼らは犬じゃない。夢と、そして私に危害を加えている獏だ。気に病むことはなに一つない。そうだろう……。


 いつまでも考えごとをしている時間はなかった。野良犬たちが様子見をやめて、一斉に襲いかかってくる。

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