第8話


     * 


 私たちは屋上の扉を抜けて、マンションの外部階段を下りていた。屋上という高い場所にいるのがなんとなく不安だったからだ。


 しばらく無言で歩く。だが踊り場のところで、私は壁に手をつき足を止めた。


「どうした」

「……あ、その。さっきはごめんね。私、失敗ばかりしちゃって」


 私が怯えさえしなければ、獏は本来簡単に倒せるという話だった。でも、結果としてそうはならなかった。野良犬に化けた獏に追われ、むざむざ逃げ出す羽目になったのだ。


 しかしねねはすぐさま首を振り、


「いや、わしこそ悪かった。説明も、それにお主に覚悟を固めさせる時間も足りていなかった。できるだけ早く獏を倒したいという焦りが、お主に余計な恐怖を与えることになってしまった。本当にすまなかったと思っている」


 そうは言っても、敵は向こうから仕掛けてきたのだ。ねねにはどうしようもなかったと思う。


「恐怖を克服することは、簡単ではない。だが夢子よ。今一度しっかりと理解して欲しい。この戦いには、お主の記憶が懸かっているということを。……記憶を奪われるということは、お主の存在を奪われるということじゃ。お主が今まで生きてきたことで得た、思考や感情、体験、そういったものを奪われ、どんどんお主という存在そのものが薄れ、消えていく。それは、考えようによってはただ死ぬよりももっと恐ろしいことかもしれん」

「う、うん……」


 記憶がなくなる。今はまだその被害は物忘れが酷い程度にしか感じていない。だが私はいま間違いなく、獏によって殺されかけているのだ。ねねの言うように、もっとその自覚を持つ必要があるのかもしれない。そうしなければ、獏に対抗できない。


 私はいつの間にか自分が、ねねの話をさっきよりもずっと真剣に受け止めていることに気がつく。初めは半信半疑だったが、実際に野良犬に化けた獏と相対して思った。敵は実在する。私を攻撃し排除しようとする意思は、確かにこの夢の中に存在している、と。獏の実在を証明するような客観的証拠があるわけではない。ただの感覚、それも原始的、あるいは野性的とでも言うべき直感だ。でも赤ん坊だって、近くにいる者が自分に敵意を持っているかどうかくらいはわかる。それと同じだ。私の中の動物的な感覚、本能が敵の実在をはっきりと感じている。


 けれど、考えているうちにこうも思った。たとえ獏の存在がすべて真実だったとして。ねねが私を騙そうとしているという可能性はないだろうか。犬の獏は私の敵かもしれないが、それはねねが私の味方であることを保証するものではない。もしかするとねねの言うように敵の獏を倒してしまうことで、私が不利益を被るということだってあるかもしれない。


「なんじゃ。人を疑いおって」

「げ……」


 そうだ。夢の中で、獏相手に隠し事をするのは難しいのだ。向こうはこっちの考えてることが読めるのだから。


「ふん。言っておくが、わしは自分が潔白だと必死になって主張したりするつもりはないぞ。そんなことに意味はないからじゃ。世の中、疑おうと思えばどんなことでも疑える。いくら道理を語って聞かせてみたところで、結局はお主の気持ち次第じゃ」

「じゃあ、私はねねを信用しないほうが良かったりするの?」

「そうではない。お主の度胸の問題だと言っているんじゃ。信頼するというのは当然裏切られるリスクを背負う。だが誰も信用しないなら、一人で問題に立ち向かっていかねばならん。リスクを承知の上で、相手を信頼する度胸を持てと言っているんじゃ。それができないなら、一人で立ち向かう覚悟を決めろ」

「怖いこと言うなあ……」

「どうする。度胸か覚悟か、今決めるんじゃ」


 ねねに迫られ、私はため息を吐きたい気分になった。ねねが私を騙そうとしているかどうかなんて、わかるわけがない。そんなことをしてねねになにかメリットがあるのかと考えようとしても、判断材料が少なすぎる。ねねの話していない、私の知らない獏の秘密があるかもしれないからだ。


 けれどそのとき、踊り場に風が吹きこんできた。ねねの髪がはためいて、毛先がそばにいた私の頬に触れそうになる。くすぐったさと一緒に甘い匂いが漂ってくる。その匂いに、私はふと懐かしさを感じた。同時に、頭の中に一瞬だけ、なにか古い映像が蘇った。映像それ自体は、ほとんどぼやけていて、意味を成すものではない。ただそれでも、私はずっと昔から彼女を知っている……。あり得ないはずなのに、そんなことを思った。


「どうした?」


 立ち尽くす私を、怪訝そうにねねが覗き込んだ。私は慌てて首を振る。匂いと一緒に、さっきの思いはすでに風に飛ばされ消えていた。ただの気のせい、だろうか。


 でも、その幻想のような懐かしさが私の背中を押した。


「あ、えっと、やっぱり信用するよ、ねねのこと」

「……うむ。そうか」


 ねねは頷いただけだった。どっちにしろ私の選択はそれしかないと思う。犬の獏を倒すのは、とても私一人ではできる気がしない。一人でいたらきっと、またさっきみたいにパニックになって、最後は夢にとらわれる。ねねの協力は不可欠だ。

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