第6話
*
「うわあ……。どうしよう……」
引きつった笑みで私は呟く。余裕ぶろうとしてみたが、本当のところすっかり体の芯から力が抜けきっていた。
「ただの犬じゃな。……お主、まさかあんなのが怖いのか?」
「いやあ、それはその……」
答えを濁した私に対し、雑種犬はばうっと大きく吠えた。
「ひゃんっ」
それだけで、私は腰が抜けて尻もちをついてしまう。咄嗟に顔を覆った両腕を、ゆっくり開く。雑種犬は扉のところから動いてはいなかった。
「うう……」
我ながら恥ずかしく、頬が赤くなるのを感じる。その様子でねねは納得したのか、
「どうやら相当のようじゃな」
と頷いていた。私は恥ずかしさに顔を伏せながら呟く。
「子どものころに野良犬に追い回されたことがあって……。それ以来どうしても……」
ありがちな理由だったが、幼いころに染み付いた恐怖というのは抜き難い。ここは夢の中。たとえかまれたとしても、現実のように傷つくわけではない。だから、怖がる理由もないはず。理屈ではそうとわかっていても、刻み込まれた恐怖心に、体が勝手に反応してしまう。
「ふむ。まあ、苦手や怖いものくらい必ず人にはある。問題は、それを今は克服してもらわねばならんということじゃ」
「克服って、そんな簡単に……」
「できなければ、獏に記憶を奪われ続けるだけじゃぞ」
「う……。そうかもしれないけど……」
頷いてはみるものの、まだ脚に力が入らず立ち上がれない。犬は私をじっと見ていたが、やがてこちらが動かないと見たのか、一気に駆け出してきた。
「……っ!」
ねねが舌打ちをして、さっと手を上に掲げた。すると宙に無数の矢が生まれる。掲げた手を振り下ろすと同時、矢は犬に向かって飛んでいった。
しかし野良犬は、その攻撃に機敏に反応する。その場で跳躍し、空中で縦に一回転した。尻尾の動きに合わせて風が吹き荒れ、矢はすべて床に落ちる。野良犬は着地すると、ねねを睨みつけ身構えた。
「なにあれ。犬の動きじゃない!」
「そりゃそうじゃ。獏だからな」
ねねは冷静に答える。
「というか、今なにしたの?」
「わしの意識で、夢を操った。こうやってお主の夢の中に入り込んでいる以上、わしも多少は夢に干渉し、操ることができる」
それで、なにもないところから矢を生み出して攻撃したりできたというわけか。
「だったら、私がいなくても向こうの獏を倒したりとかは……」
「それはできなかったと言っておるじゃろう。夢を操れると言っても、わしが操れるのはほんのわずか。しかも、わしにできるということは、向こうにも同じことができるということじゃ。現に今わしが放った矢も風で払われたじゃろう。……わしが操れる夢は向こうの獏と同じ程度の規模。それでは、わしにはあの獏を倒しきることはできん。敵の獏を倒すには、この夢の主であるお主自ら相手を攻撃しなければならないんじゃ」
「うう……そっか……」
仕方ない。まあ、そんな都合の良い話はないとは思っていた。
野良犬が唸り声を上げ、もう一度こちらに向かってくる。
「うわっ……」
まずいと思い、今度は流石に立ち上がる。そんな私にねねが言う。
「夢子よ、反撃するんじゃ。正面からやり合えば、お主は絶対負けない」
「そ、そう言われたってぇ……!」
でも、攻撃するってどんなふうに。さっきのねねみたいに、武器でも作って、それをぶつけてやれば良いのか。夢の中では強くイメージできたことはすべて実現できる。だがそれは逆に言うと、イメージしにくいことは起こしにくいということでもあるはずだった。獏に反撃するには、私があの野良犬へ向かって攻撃する強いイメージが必要だ。しかし怯えた心ではそれがうまくできない。そしてさらには、追い打ちを加えるように野良犬が私に向かって吠える。それで、また私の頭は真っ白になってしまう。
「……やむをえんか。とりあえず走れ。一旦逃げるぞ!」
歯噛みして、ねねは私の腕を強く後ろに引いた。私の脚は動き出すまでは重かったが、一度よろめくと、今度は恐怖に背中を押されてか素早く動いた。
しかしどれだけ懸命に走っても、犬と人では速度が違う。背後の野良犬との距離はどんどん縮まっていく。
「追いつかれると思うな。お主が弱気になれば、本当に追いつかれるぞ」
怯えて振り返る私に、ねねは鋭い声で言った。
ねねの言っている意味を、私は少し遅れて理解した。犬と人が追いかけっこをしたら、現実なら、普通は犬が勝つのかもしれない。だがここは夢の中。人が勝つ可能性は充分にある。私と敵の獏の距離、そしてこの屋上の広さ、それを決めているのは私だからだ。私の意識がこの屋上を生み出しているのだから、屋上の広さも私の意識次第で変化する。ねねの言うように、私の弱気で本当に追いつかれてしまう状況にあるのだ。
しかし、同時に思う。人間は自分の意識をすべてコントロールすることはできない。無意識というものがある。後ろから迫る野良犬の息遣いが、気配が、私に焦りを感じさせれば感じさせるほど、犬に追いつかれ、喉笛をかみ切られる嫌な想像が頭の片隅に湧いてくる。そしてその想像を重ねるごとに、私の無意識が勝手に野良犬と私の距離を縮めてしまう。
やがてその嫌な想像が現実になる瞬間が来た。いや、夢なのだけど。とにかく私たちの走る先に、屋上の柵が見えてきたのだ。
「ね、ねね……!」
私は思わず、悲鳴のような声を上げた。
しかし、ねねは毅然と前を見ている。進む速度はまったく落ちない。その視線は、柵を越えて隣のマンションの屋上を見ていた。
「跳ぶぞ!」
「ほ、本気……?」
屋上から屋上までの距離はとても長い。絶対に跳躍できる距離ではない。それにこの建物の高さがどれくらいかは知らないが、落ちれば確実に死ぬ高さであることは間違いない。
……いや違う。落ちても死なないし、落ちる必要もないのだ。ここは夢の中なのだから。だめだ……。どんどんここが夢だという自覚が薄れていく……。
夢を夢だと認識し続けることは想像以上に難しいのだと、私は理解した。感情が揺さぶられるほどに、理性の紐が緩み、気がつくと目の前の景色だけに思考や感覚のすべてを奪われてしまう。
野良犬が私の真後ろへ追いつく。そして体を縮めた。バネのように、押し込めた力を解放して一気に跳ねるために。実際、野良犬は力強く跳躍すると、大きく口を開き私に襲いかかる。
「行くぞ、夢子!」
それとほぼ同時。ねねは高く浮かんで柵の上を通過すると、柵の向こうから私の手を引っ張った。私は彼女に引かれて、転げ落ちるようにして柵を乗り越える。
背中越しの光景がスローになって見えた。私の真後ろで、犬が唾液を散らしながらその口を閉じた。犬の牙は空を切る。
そして強烈な浮遊感。即座に、屋上から離れた体が落下していく感覚。
「い、や……ああああああああ!」
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