第5話

「わかったなら、あとは実行するだけじゃ。夢子よ、覚悟は良いか?」

「え、そんな、もう? ちょっと待ってよ」

「時間をかければ、また獏がお主の記憶を食うぞ。今夜中には片付けたい」

「それは、そうなんだろうけど……」


 そうは言っても、まだねねの話の半分も本当の意味で理解できたか怪しいのだ。躊躇うなというほうが無理がある。


「ふむ。まあ、少し深呼吸でもすると良い。……ああ、そうじゃ。場所を変えよう。ここで獏を呼び出しても良いが、少し手狭じゃしな。夢子、なにか広い場所を思い浮かべよ。周りの景色を変えるんじゃ」


 景色を変えるって、そんなこと本当にできるのだろうか。私は戸惑ってしまう。


「言ったじゃろう。ここではお主が望めばなんでもできる。大事なのは、イメージじゃ。とにかく一度試してみよ。望む夢を頭に描き、『こうあるべき』『こうなったら良い』と集中して何度も思うのじゃ。そのイメージが己の無意識にも受け入れられるほどに強く、そして自然にできたなら、それで夢は変化する。慣れればそう難しいことではない」

「わかった。やってみるけど……」


 言われた通り、私は広い場所を思い浮かべる。学校の屋上とかどうだろう。現実では立ち入り禁止の場所なので行ったことはないが、ドラマや漫画とかでは見かけたことがある。そういう漠然としたイメージとしての、学校の屋上。目を伏せ、心の中で屋上の映像を作り上げ、そしてそれを何度かはじめからやり直す。繰り返すたびに屋上のイメージは詳細になり、自らの意識に焼きついていく。……やがてゆっくりと顔を上げた。気がつけば、周りの景色は変わっていた。私は広い屋上に立っていて、ねねは相変わらずふよふよ浮いている。上は抜けるような青空だ。私は目を丸くする。ここが夢の中なのはわかっていたつもりだったが、改めてそれを実感として理解する。いきなり周りの景色が変わるなんて現実ではあり得ない。それに、この夢の中では私が望めばあらゆることができるというのも、少しだけだがわかった気がした。


「うむ。良いじゃろう。ここなら気分も少しは晴れるか。……いや」


 ねねは屋上の扉の方へ警戒した目を向けた。


「どうやら探す手間が省けたようじゃぞ」

「え……?」


 私もつられて扉を見る。そして感じた。確かに、なにかが来そうな予感がする。ねねと同じ、夢の中にいるには不自然な存在。私とは別の意識を持った存在。それが少しずつ近づいてきていると感じる。


「まあ、お主が獏の存在に気づいた以上、向こうは黙っていればやられるだけじゃからな。先に攻撃をすることにしたようじゃぞ」

「な、なにそれ。私、まだ心の準備とかできてないよ」

「恐れるな、夢子よ。ここはお主の夢の中。恐れさえしなければ、お主が負けるようなことは絶対にない。……とはいえ、しかし」


 急に、ねねは歯切れの悪い口ぶりになって尋ねてきた。


「なあお主。嫌いなものはあるか?」

「へ? なに急に? 食べ物とかで、ってこと?」

「いや、別に限定はしておらん。食べ物でも動物でも虫でも、なんでも良い。天気や映画、ドラマ。過去の記憶。本当になんでも良いんじゃが、とにかくなにか嫌なことや苦手なこと。どうしても耐えられないというものはあるか?」

「いきなり言われても、特には思いつかないけど……」


 私はなにか嫌な予感がしてくる。同時に屋上の扉が、少しずつ開き始めていた。


「お主が思いつかなくても、向こうは気づくかもしれん。……いや、お主の記憶の中を探して、お主の心を揺さぶるものを、必ず見つけてくるはずじゃ」

「ど、どういうこと?」


 不安感が募る。錆びついた屋上の扉が、金属の擦れる不快な音を立てた。さっきまで扉は錆びついてなどいなかったはずだ。いつの間にか夢の世界が変化している。屋上のタイルはひび割れ、手すりも扉と同じように錆つき、茶色く変色していた。それに空も、どんよりと曇り始めている。


「言うのが遅くなったが夢子よ。覚悟を決めるんじゃぞ」

「ね、ねえ! だからなんの話……? なんの話なの!」

「お主がこの夢の世界の主である以上、獏は真っ向勝負では絶対に勝てない。お主は、夢の世界すべてを自在に操れるからじゃ。だから人に危害を加えるような獏は普通、自分の存在に気づかれないよう隠れ潜んでいる。しかし一度気づかれれば、もはや逃げるか戦うしかない」


 ねねが早口で説明をする。


「そして戦うと決めたなら、獏は必ずお主の心を利用する。お主の心を揺さぶり、抵抗する気力を奪うか、もしくは夢の中での覚醒した意識を奪うか、それだけが獏が夢の支配者に勝つ方法だからじゃ。心を揺さぶるものとは様々なものがあるが、しかし一番単純で確実なのは、恐怖じゃ。お主を恐怖させ、心をかき乱させるものがあれば、お主は夢の世界で覚醒した意識を保つことができなくなる。そうなれば、もはや獏に対抗することはかなわん。そして獏は、形を持たず、自らの姿を自在に変化させることができる。つまり、獏はお主が恐怖を感じる存在に姿を変えて出てくる可能性が一番高い!」


 扉が開き、獏が姿を現した。


 私はその姿を見た瞬間、頭が真っ白になって、固まってしまった。


 扉を開けて出てきたのは、ぼさぼさの毛並みと濁った灰色の目をした雑種犬だった。

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