虚実入り交じる怪奇譚

朝本箍

手形

 以前勤務していた会社は自社ビルで、築40年以上経過した古びたビルでした。床が傾いているのでボールペンを落とすと転がるというのは有名な話で、新入社員は必ず先輩に教えられます。

 5階より上は他社に貸していましたので、地下から5階までが私の勤務する会社のフロアでした。地下には管理人室、空調や暖房の設備室、そして倉庫があります。管理人室と設備室はビル全体のものでしたから、他の会社の方もよく出入りしていたようでした。

 倉庫は非常に広く、ふたつに別れていました。ひとつは内部が扉のない小部屋のように分かれており、それぞれ各部署が管理していました。のぼり、扇風機、使い古した販促品、雑然として埃っぽく電気をつけても窓もない場所だったので薄暗く、大体探し物がありそこへ行くので私はいつも焦燥感に駆られていました。

 ここの鍵は総務課が管理しているものの、上記の理由で持ち出しは自由でした。バッティングをして他の部署の方と鍵を探し回ったこともあります。

 問題は、もうひとつの倉庫でした。そこは大きなひとつの倉庫で、歴代社員の履歴書などを保管している関係で総務課でも出入り出来る人は限られていました。今は個人情報保護法がしっかりとしているものの、私がいた頃は管理が甘く、嫌いな上司の履歴書が段ボールから飛び出していたことを覚えています。抜き出してどうにかしてやろうか、とも思いましたが活用法が思い浮かばなかったので止めておきました。

 私はこの限られた人だけが入ることの出来る倉庫へ、一度だけ入ったことがあります。理由は単純で、先輩の探し物を手伝いに行ったのです。私も総務課ではありましたが選ばれた人間ではなかったので、その日まで倉庫の存在は知りもしませんでした。

 地下にあるにしてはやけに天井が高いな、というのが第一印象でした。埃っぽさや薄暗さはもうひとつの倉庫と変わりなく、荷物の量は遥か倍以上あるように見えました。よくよく見ると量が多いのではなくひとつひとつが大きいのです。段ボールは120サイズ以上のものが積み重なり、カラーコーンは転がり、スノーダンプや、どこから入れたのかと思う位巨大な台車が床を隠していました。

 私は先輩と共に一枚の書類をその中から探していました。詳細はよく判りませんでしたが、書類にはタイトルがあり、見れば判るという先輩の言葉を信じて段ボールを開けたり、棚を覗き込んだりしていました。

 入った瞬間から、先輩が焦っていることは感じていました。確かに今日見つからなければ明日からの仕事に支障が出ることは明らかで、ここ以外も探すことになるとすれば時間が足りません。それにしても、先輩は急いでいました。不自然な程に。

 何か用事があるのか、私は先輩に尋ねました。もしもそうならば私が鍵を預かって探しておくとも伝えました。私は本来鍵を持てる人間ではありませんが、先輩からの貸与であれば鍵を閉めて戻すくらいは許されると思ったのです。

 けれど先輩は首を横に振り、段ボールを開ける手を止めませんでした。やはり大事な鍵なのだ、落胆して次の段ボールに手をかけた時、先輩はぽつりと呟きました。


「ここ、あまり長居したくないんだよね」


 それがどういうことなのか尋ねようとした時、先輩が顔を上げて私の方を向きました。けれど、目が合いません。先輩は私の後ろ、ちょうど倉庫の扉とは反対側の壁を見上げているのでした。

 先輩の視線を追って振り返り、私も視線を天井近くまで上げました。


 そこはやはり、単なる壁でした。天井近くまで物が積み上がり、少ししか見えていません。私はそこでひとつのことに気がつきました。壁が、乱雑に黒く塗られているのです。倉庫はコンクリート打ちっぱなしで全体的に灰色なのですが、私の見ている壁はその上にただ黒いペンキを塗りたくったような雑な黒色をしていました。

 随分雑な塗り方だな、そう思って視線を右にずらした時。

 ちょうどペンキがなくなったのか、黒い壁は掠れたようになり、真っ黒な手形がその横に無数に残されていました。

 色の濃淡はあるものの、全て同じ位の大きさの右手がべたべたべたべたべたべたべたべた。

 天井付近の壁、半分程が手形で埋め尽くされていました。コンクリート打ちっぱなしの上へ不規則に並ぶ黒い手形。

 私は何も言わず、視線を段ボールへ戻しました。無言のまま捜索を続け、程なくここにはないと確信した先輩と共に倉庫を後にしました。

 最後に先輩は、


「塗りかけにしてもさ、あんな風にする? 普通」


 とだけ言っていました。私は頷くことしか出来ませんでした。


 今はあの自社ビルはありません。お盆の時期にはね、誰もいないのに警備システムが作動するんだよ。8月15日、毎年のことだからセコムも気にしなくなっちゃったと話していた管理人さんが元気にしているかだけが気になります。


 ビルの跡地には別のビルが建ちました。

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虚実入り交じる怪奇譚 朝本箍 @asamototaga

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