18.穏やかな救世主
こんなにも憂鬱な朝は人生で初めてだった。
準備はいつものようにこなせたが、玄関に近づくと、また心臓が嫌な高鳴りを始め、無意識に胸の上で拳をきつく握りしめる。大丈夫、と自分に何度も言い聞かせて、意を決して外に出ると、そこに昨夜の女はおらず、ホッと胸を撫でおろした。
「良かった……」
その安心感は堪らず言葉を漏らすほどだったが、それでも尾行されている可能性は十分にある為、頻繁に背後を振り向きながら職場に向かった。
結局あの女と遭遇することなく、小夜子は無事職場に着くことが出来た。
だが、書店勤務という不特定多数の人間がやってくる場所に居る以上、いつ遭遇するか分からず、その後も客に似たような人物が居ないかを探しながら、気の休まらない時間が続いた。
この問題に芸能人である昴が関わっている以上、店側に事情を説明するわけにもいかず、小夜子は職場まで特定されていないことを祈りながら、仕事をこなすしかなかった。
「……はぁ」
レジに立つ小夜子は、つい溜息を吐いた。すると、隣に居た橋本が、見かねて声を掛けた。
「三井さん、顔色悪いけど大丈夫?」
「え……そうかな?」
咄嗟に頬に触れると、橋本は頷いた。
「うん。溜息も多いし、いつもと違う。何かあったの?」
「……えーと」
意外にも目敏い橋本に異変を見抜かれてしまい、小夜子は言葉に窮した。昨日あった出来事をどう表現したらいいのか、小夜子にも分からなかったのだ。
「別に大したことじゃないんだけど、昨日、ちょっと怖い目に遭って……」
「怖い目って?」
濁して答えたが、橋本はまた更に聞き出そうとする。小夜子はこれ以上なんと答えたらよいのか分からず、迷っていると、レジからそう遠くない入口の自動ドアが開いたのが視界の端に映った。
ふとそちらが気になって、小夜子が入口の方を見ると、全身を流れる血が凍ってしまったかのように、体内が冷たくなった。
(間違いない、あの女だ……!)
店に現れたのは、昨日と服装や髪型が違ったが、紛れもなく、昨日小夜子を脅しに来た女だった。
小夜子は咄嗟にしゃがみ込んで、その身を隠した。
(な、なんでバレたの……⁉ 尾行されてないか確認したのに!)
すると、いきなりしゃがみ込んだ小夜子に驚いた橋本が、心配そうに声を掛けた。
「大丈夫、具合悪いの?」
「あ、あの……入口の所にいる、派手な女の人……見える……?」
「え、見えるけど……あの人がどうかしたの?」
「……っ、私、あの人に、ストーカーされていて……」
「ストーカー……⁉」
橋本は突然の告白に、激しく動揺していた。だが、しゃがみ込んで怯えている小夜子の姿を見ると、橋本は覚悟を決めたように、表情を引き締めた。
「……三井さん、俺、ちょっと様子を見てみるから、ここに隠れていて。もし動けそうだったら、レジから出て、バックヤードに隠れて」
「え、でも……!」
小夜子は止めようとしたが、橋本はそれよりも前にレジを出て行ってしまい、止めることは出来なかった。
こっそりとレジの脇から覗くと、橋本が女に近づいていくのが見えた。女は橋本が着けていたエプロンを見て店員だと気づくと、いきなり不機嫌そうに声を掛けた。
「ねぇ、あんた。この店に、黒髪を後ろで結んでる二十代半ばくらいの女店員いるでしょ。その人にちょっと用があるから、呼んでくれない?」
すると、橋本は持ち前の穏やかな笑顔を浮かべて、申し訳なさそうに言った。
「お客様、申し訳ございません。当店には、お客様がおっしゃられた特徴を持った店員はおりませんので、お呼びすることが出来ません」
すると、女はあからさまに苛ついた表情をして、書店中に響くような大声で怒鳴った。
「すっとぼけてんじゃねぇよ! 居るのは分かってんだよ、いいから出せよ!」
「申し訳ありません、そう言われましても、そのような店員はうちには居ませんので……あと、あまり大きな声を出されますと、他のお客様の迷惑になりますので、お控えください。こちらとしても、然るべき措置を取らなければならないので……」
基本的に下手に出ていたが、橋本が暗に警察への通報を匂わせると、女は眼光を鋭くした。
だが、周りの客が女の様子がおかしい事に気づいてざわめき始めると、女は舌打ちをして去っていった。
「……はぁ」
いくら怒鳴られても申し訳なさそうな笑顔を崩さなかった橋本は、女の姿が見えなくなるなり、緊張の糸が切れたように、深く溜息を吐いた。
その後、周りの客にお騒がせしたことを謝ると、胸を撫でおろしながらレジへと戻って来た。
「あの人、帰ったみたい。三井さん、立てる?」
そういって手を差し伸べられて、小夜子はこくりと頷くと、その手を取って立ち上がった。
「……ごめんなさい、迷惑かけて」
「謝らないでよ、三井さんは悪くないでしょ。でも、どういう事情で、あの人にストーカーされているか、教えてくれない?」
当然の質問に小夜子は唇を噛むが、ここまで巻き込んでしまった以上、説明するわけにもいかず、無理やり顔を上げた。
「……ここでは話せないから、バックヤードでいい?」
バックヤードに入った小夜子は、昴との関係と、事の経緯を簡潔に説明した。昴という有名人の名前が出て来たことで橋本は驚いていたが、次第に納得したように頷いた。
「前、その人がうちの店に来たって宮倉さんからは聞いていたけど、三井さんの友達だったとはね……」
「まあ、色々あって……本当にただの友人なんだけど、写真と週刊誌の文章を信じた人が、私を特定して嫌がらせしているみたい」
「けっこうぞっとするね……それに、家も見つかっているって、安心できないな。実家に避難は出来ないの?」
「実家は電車で数時間もかかるから、あんまり現実的じゃないかな。それに、職場もバレてたら、どちらにせよいつかはまた遭遇すると思う……」
「そうか……とにかく、あの女の人がまた来たら心配だし、今日は家まで送るよ」
「いや、そこまでしてもらうわけには……!」
「あはは、俺みたいなひょろひょろの男じゃ頼りないかな? でも、さすがにこんなに怯えている同僚を一人で帰すほど、情けない男じゃないよ」
頭を掻きながら、橋本は照れくさそうに言う。小夜子は申し訳なさと有り難さがせめぎ合うが、やがて小さく笑みを浮かべた。
「……ありがとう、橋本さん」
「いいよ、いつもお世話になってるし。じゃあ俺はレジに戻るから、落ち着くまで休んでいて」
「ううん、もう大丈夫」
首を横に振ると、小夜子は周りの人に恵まれていることをひしひしと感じながら、バックヤードを後にした。
チャラ男俳優と堅物女 遠野めぐる @tonomeguru
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