9.雪融け、ラーメンの湯気
興奮した女子高生達から逃げるようにバックヤードに入ると、小夜子は迷惑そうに言った。
「何考えてんの、ここであんたの素性がばれたら大変な事になるって分かるでしょ!」
「そんなに目くじら立てんなよ、周りには殆ど客が居なかったし、あれくらいで騒ぎになんてなんないって」
怠そうに服のポケットに手を突っ込んで、何を怒っているんだと言わんばかりの口調に、小夜子は眉を寄せた。
「大体、こっちはお前の所為でリハーサルに遅刻して屈辱な目に遭ったんだ、多少はそっちも同じような目に遭ってくれないと割に合わねぇよ」
「は、どういうこと?」
「昨日、帰った後に意地で取り置きした本を読んでたら、目覚まし付けずに寝て、現場に着くのが遅れたんだよ!」
小夜子は驚いた。あんなことがあったのに、小夜子が渡した本など読むはずがないと思っていただけに、昴の行動は想像を超えていたが、八つ当たりに変わりはなく、すぐさま反論した。
「……なにそれ、八つ当たり? そんなの私の所為にされても困るし、あんたがちゃんと目覚ましを設定しなかったのが悪いんでしょ。子供みたいなこと言わないで」
その通りとしか言いようがない正論をぶつけられて、昴は顔を歪めた。そして、どうにか言い返したいのか、苦し紛れに返した。
「そ、そもそも読書なんて元々苦手だし、文字をダラダラ読むだけでつまんねえんだよ。こちとら四ページも経たずに寝たっつーの。どう頑張っても、あれ以上読む気にはなれないね!」
ハッキリと言うと、すぐさま反論されるかと思えば、中々返って来ず、昴は不思議に思い小夜子の顔を覗き込もうとする。
すると、小夜子が突然前のめりになり、昴に近づいて来た。
「わっ、なんだよ!」
職業に関することを貶され、まさか本気で怒ったのかと身をのけ反らせるが、顔を上げた小夜子の瞳は、興味津々に輝いていた。
「苦手って、例えばどんな風にっ?」
「ど、どんな風って……」
何故急に、こんなにも熱を持ち始めたのか分からず、戸惑いながらも昴は答えた。
「とにかく、文字の羅列を読むのが苦痛なんだよ。台本なら読めるけど、びっちり文字が詰まっていると、読んでいるだけで頭痛がしてくるし、それに台本読みの癖のせいで心の中でいちいち音読して、それで無駄に時間がかかって途中で飽きることが殆どなんだよ」
すると、小夜子は思案顔をした。数秒の沈黙の後、小夜子はエプロンを脱ぐと、自身のロッカーから鞄を引っ手繰り、真剣な顔で言った。
「ちょっと付いてきて」
「おい、今度はなんだよ!」
理解が出来ない昴は小夜子を問いただすが、そんなものはお構いなしにバックヤードを出て、レジ前を通ると、そこに立っていた店長が驚いた顔をした。
「あ、三井さんお疲れ……ってその人誰⁉」
「お疲れ様です!」
何故、後ろに謎のイケメンを連れているのかを説明することも無く、小夜子は店を出ていってしまい、店長は戸惑いを隠せない様子で、首を傾げた。
「なあ、せめてどこに行くかだけでも教えろよ!」
手首を掴まれながら、早歩きで夜の街を歩く昴は、無言でどんどん先に行こうとする小夜子に問いかけた。
「もうすぐ着くから、大人しく付いてきて」
小夜子は答えようとせずこの一点張りで、昴は軽く息を弾ませながら、ハッと何かに気づいたような顔をした。
「も、もしかして、スキャンダル狙いでホテルにでも連れ込もうとしてんのか⁉」
「バカな事言うなら黙って歩け!」
本気で危惧していたことだが、小夜子に一喝されてしまう。すると、本当にすぐの所だったようで、小夜子はようやく足を止めた。
「……本屋?」
立ち止まった先には、小夜子の職場とはまた違う書店があった。なんでまた、と聞こうとするが、小夜子は昴の手を離すと、店内に入っていくので、仕方なく付いていった。
規模は蓬丘書店と変わらず、一体ここに何の用があるのだと思っていると、小夜子はまるで自分の庭かのように本棚の森を抜けていき、とある場所で立ち止まった。
「なんでまた、児童書コーナーになんか来るんだよ。もしかして喧嘩売ってる?」
「えーっと……あった!」
嫌味など耳に入っていない様子で、小夜子は目当ての本を抜き取ると、昴に渡した。
「……これ、岡野貞宗の本だろ。俺が演じるのは田内の方だけど?」
小夜子が渡したのは漫画で分かる歴史本で、表紙にはしっかりと岡野貞宗と書かれていた。だが、これで合っているようで、小夜子は早口で説明しだした。
「メインにしているのは岡野だけど、作中では彼の臣下にもけっこうスポットを当てていて、その中でも田内の描写が一番多かったの。文字を読むのが苦手な人でも、漫画なら読めるって人も居るから、いいと思って」
我を忘れて説明している小夜子に、昴は困惑した。こっちは嫌がらせをしに来ているというのに、こんな風に親切にされてしまったら、まるで立つ瀬がない。
「あっ、漫画も苦手なら、オーディオブックって手もあるから。最近はサービスが充実しているみたいだし、音読癖があるなら、却って音で聞いた方が頭に入るのかも……」
「ちょ、ちょい待ち」
「え?」
「あんた、もしかしてお人よし?」
いつまでも止まらない小夜子を慌てて制止すると、昴は問いかける。小夜子はぴんと来ていないようで、小首を傾げた。
「だから、こっちは嫌な顔見に来たってのに、あんたに親切にされたら変な感じになるだろって」
「あ……そ、そっか。そういえばそうだった……」
わざわざ説明してやると、本の魅力を伝えたい余り先ほどまでの喧嘩など頭から抜け落ちていたようで、小夜子は恥ずかしそうに顔を赤らめた。
途端、昴は脱力すると、呆れた顔で深く溜息を吐いた。
「……はぁ、やめだ、やめ」
「な、何よ」
「なんか、あんたとバトるのが一気に馬鹿らしくなっちゃった。ガキみたいに意地張るのは、もうやめる」
そういって、昴はすっかり毒気が抜けた顔で小夜子を見下ろすと、ばつが悪そうに言った。
「……あの時は、怖がらせて悪かったよ。俺とメシに行きたがる女の子なんて、大体そういうの目当てだから、付いてきた癖に拒絶されたと思って、つい腹が立ったんだよ」
小さな声だったが、しっかりとした謝罪に、小夜子もつられてばつが悪くなる。
「……わ、私もごめんなさい。ついむかついて、色々といらないこと言った気がする」
「じゃー、喧嘩両成敗ってことで」
昴はゆるく言うと、会計してくる、と、一人、レジに向かっていった。
その後、二人は無言のまま、本屋を出る。これからどうするのか、と考えていると、本屋の紙袋を小脇に抱えた昴が、片腕で伸びをしながら問いかけた。
「なー、腹減らねぇ? 暇ならどっか行こうぜ」
突然の誘いに、小夜子はつい身構えると、昴はくすりと笑った。
「ばーか、違うって。今度はマジでメシ食いにいくだけ。この近くで良い店知ってんだよ」
「……まあ、それなら」
「よし、決まりだな」
「でも、次に何か仕掛けてこようとしたら、週刊誌に売り飛ばすから」
「脅しかよ、こえー」
軽口を叩き合いながら、ものの数分で辿り着いたそこは、大通りから少し外れた所にある、下町風情溢れるラーメン屋だった。
「ここが、良い店?」
「そうそう、ここのメニューはマジで全部美味いぜー」
引き戸を開けると、店主らしき男性が勢いよく挨拶をしてくれる。客足はそこまで多くなく、昴は勝手知ったる我が家のように、店の一番奥のテーブル席に座った。
「大将、中華そばと餃子、二人前ね!」
「あいよー」
腰かけるなり、昴が小夜子の分まで勝手に注文すると、厨房の大将はテキパキと動き出す。それをまじまじ見ていると、昴は気づいたようで不思議そうな顔をした。
「何、別のが良かった? ここに来るなら最初はこの二つだろって、勝手に頼んだけど」
「いや、注文は別にいいんだけど。あんたがこういう所来るの、ちょっと意外だったから」
「そんな、毎食洒落たコース料理なんて食ってらんないって。それに、ここは下積み時代の俺の胃袋を支えてくれた、思い出深いラーメン屋なんだよ。ここの先代は、バイトの給料握り締めてたまの贅沢にって、一番安い中華そばを頼んだら、黙って大盛りにしてくれたりさ、とにかく優しい人だったんだよ」
「へぇ……」
普段から煌びやかな芸能界で活躍している昴に、そういうイメージが湧かなかったが、彼にも苦労した時代があったのだと、小夜子は不思議に思った。
「……ねぇ、なんで今日、私を誘ったの?」
ふいに疑問が浮かび、素直に問いかけると、昴はあっけらかんと言った。
「いや別に、深い意味はないけど。俺、一人でメシ食うの嫌いだし、丁度良く人が居たから誘っただけ。割とよくやるけどなー、周りの人適当に誘ってメシ食いに行くの」
「ふーん……」
すると、ものの数分でラーメンと餃子が届き、昴は無邪気な笑顔を浮かべた。
「おーこれこれ、うまそ~」
嬉しそうに割り箸を割って、昴は透き通ったスープに沈む麺を掬い上げる。小夜子もそれに倣うように箸を割ると、ぼそりと呟いた。
「……それで適当に誘った女の人と二人でご飯食べに行って、そのまま流れでそういう関係になった事、何回もあるでしょ」
「えっ、なんで分かんの⁉」
昴は啜っていた麺を吹き出さんばかりに衝撃を受けていて、小夜子は呆れた顔をすると、深く深く溜息を吐いた。
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