7.ありがたき洗礼

「……あー、くそ!」

 帰宅して早々、苛立ちを洗い流すようにシャワーを浴びたが、それでも腹の奥底のむかむかが収まらず、昴は濡れ髪のままベッドに飛び込んだ。

(なんだよあいつ、偉そうに……上からモノ言いやがって)

 目を瞑れば、小夜子に罵られた光景時のが思い浮かび、また苛立ちが沸き起こる。今日も忙しかったし明日も早いから、さっさと眠ってしまいたかったが、どうしても腹の虫が収まらず、目が冴えてしまっていた。

 ごろりと寝返りを打つと、サイドテーブルの間接照明の脇に置かれた、田内の本が目に入る。それを見て、昴はまた更に顔を顰めた。

 衝動的に本を掴むと、すぐ傍のゴミ箱に投げ捨ててやろうかとも思ったが、そうすれば、怒りに任せて本を捨てるなんて子供みたい、と見えない小夜子に馬鹿にされたような気がしてしまい、細く息を吐きながら腕を下ろした。

「……いいぜ、読んでやるよ。こんなもん楽勝だ」

 何と戦っているのか、独り言ちた昴は寝転んだまま一ページ目を開く。こんな分厚い本を読むなんて、学生時代の退屈な読書週間を思い出す。強制的に読みたくも無い本を選んで読むのは、正直苦痛だった。

 冒頭に目をやれば、当たり前だが、細かい字の羅列がずらりと並ぶ。その時点で一気に眠くなって、睡眠薬代わりにはいいかもしれないと、余計なことを思ったりもした。

「……、……?」

 台本ならいくらでも読めるのに、どうして文章となるとこんなにも抵抗を感じるのだろうと思いながら、本を間近にしてみたり、逆に遠くにしてみたりと、昴なりの工夫を凝らしながら読み進めていったのだが。

「……ぐぅ」

 四ページ目をあと半分で読み終えるという所で、ついに昴は、襲い掛かる睡魔に負けてしまい、なすすべも無く夢の世界へと旅立ってしまった。


 翌日。カーテンの隙間から差し込む朝日が瞼に刺さり、昴は眠りについていた意識が覚醒した。

 いつもなら目も開けずに暫くぼんやりしていたが、普段目覚ましと共に起きるのに、今日はそれが聞こえないのは少し変で、疑問と共に瞼を開ける。

 枕元に投げ出されていたスマホを手に取って時間を見ると、昴は目を見開いた。

「……もう家出る時間じゃねぇか⁉」

 時間を見れば、普段なら既に家を出る時間になっていて、昴は飛び起きると、急いで身支度を始めた。現場に遅刻なんてしたことが無かったが、まさかこんなタイミングで第一回目を迎えてしまうのかと、心臓がどくどくと嫌に高鳴り、焦燥感が全身を覆った。

 とにかく、タクシーを家の前に呼ぶと、素早く外出の準備をして、服選びもろくに出来ないまま最低限の身支度を終えると、家から飛び出した。

 幸いにも、家を飛び出した直後に呼んだタクシーが現れ、それに飛び乗ると、間に合えと念じながら、タクシーが現場に着くのを待った。

 程なくして現場に到着すると、脇目も振らずに廊下を走ってスタジオに向かい、勢いよく扉を開けて入ると、既にスタッフや演者が全員集まっていて、昴は口元がひくついた。

 現場の時計を見ると、集合時間から数分過ぎていて、ギリギリ遅刻だった。

「……すいません、遅れました!」

 その場で頭を下げると、心配顔のスタッフ達があからさまにほっとした顔をしていた。遅刻してきた昴がどういう態度をするのか心配していたのか知らないが、そこまで落ちぶれちゃいなかった。

「良かった、昴くんはいつも遅刻しないから、何かあったのかと思ったよ」

 頭を下げる昴に、優しく言ったのは、主役の岡野を演じる槙野勲だ。彼は魑魅魍魎が溢れる芸能界の中でも人格者として有名で、スタイルも良く、何より常に浮かべている笑顔がとても爽やかな、昴が尊敬している俳優の一人であった。

 こうして主演が気遣ってくれることで、たとえ反感を覚える者が居ても、態度に表しづらくなる。そういう配慮が、昴にはとてもありがたく感じた。

「いや、すみません……マジで寝坊したっす……」

「はは、寝坊したのか。珍しいね」

「まあ、ちょっと色々あって……」

 昨日の出来事をどう言い表したらいいものかと言葉を濁していると、不意に、背後から白髪頭の老年の俳優がやってきて、嫌味のように言った。

「色々ってなんだよ。どうせ女遊びだろ?」

「いやいや、今回ばかりは違いますよ~」

「本当か? ったく、バラエティでちやほやされてるからって、天狗になってんじゃねぇか、若造」

 その言葉を投げかけられた瞬間、現場の空気がぴしり、と凍った。大体はこの顛末を不安げに見守っていたが、中にはそれを面白がっているように、繁々と見つめる人も居た。

 厳しい言葉を浴びせられた瞬間、昴は一瞬、目から笑みが消えるが、すぐさま軽薄そうな笑みを浮かべ直した。

「……はは、いやそんな、天狗になんてなってないっすよ~勘弁してくださいって!」

 へらへらと笑うと、老年の俳優はつまらなさそうに鼻を鳴らし、その場を後にした。槙野はそれを見送ると、昴を気遣うように言った。

「大塚さんは厳しい人だけど、注目していない人にわざわざ声を掛けるような人じゃないから、あんまり悪く取らないであげてね」

「いやいや、全然気にしてないっすよ、俺は」

「そうならいいけど……」

「大丈夫っすよ、俺も芸能界に身を置いて、それなりに経ってますんで。これくらいは慣れなきゃ」

 昴はそういって、もう一度頭を下げると槙野の元を去る。

 槙野に背を向けた瞬間、へらへらとした笑顔を消すと、昴は誰にも聞こえないような声で、

「……クソじじぃが」

 と呟いた。

  

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