第36話 一夜明けて
▽▽▽
カーテンの隙間から差す朝日に瞼を照らされた俺は、ぼんやりとした意識の中で目を開けた。
俺は眠気を拭い取るように目元を擦った。昨晩は遅くまでテレサと会話に花を咲かせていた。古参ガチ勢を自称するだけあって、テレサのポジティブ太一への想いは熱かった。これまで何度か話す機会はあったが、昨日は人目を気にしないで済む状況だったこともあり、テレサはいつになく饒舌に話してくれた。
俺はテレサの質問に嘘偽りなく答えた。どの企画の何が大変だったのか、実は撮影の裏でこんなエピソードがあったとか、思い出せる限りのことを話した。テレサは楽しそうに耳を傾けてくれた。
労力に見合わない無残な結果を残して引退してしまったが、テレサの記憶のなかでポジティブ太一が鮮烈に残っていると知った。それが堪らなく嬉しかった。
もう思い残すことはない。これからはテレサのために頑張ろう、と気が引き締まる思いだった。
俺は大きな欠伸をした。今日は祝日で学校は休みだ。わざわざ早起きする必要はない。
寝返りを打った俺は、やけに柔らかい抱き枕を抱き寄せて二度寝をしようとしたが、ふとあることに気付いた。
俺は抱き枕を持っていない。
寝不足で重くなっている瞼を擦ってからもう一度目を開けると、目の前に流麗な谷間が広がっていた。
ほんのりと感じる温もりは心地いい。花のような良い匂いが鼻孔をくすぐる。
下着姿のテレサが、傍らで安らかに寝息を立てていた。
俺はその場で跳び上がった。
冷や汗が止まらなかった。心臓も爆音を奏でている。呼吸も覚束なくなってきた。
テレサは俺の混乱など露知らずに眠りこけている。
そんな、まさか、いや、そんなはずは。
俺は頭をフルに回転させて記憶の糸を手繰り寄せた。
昨晩はポジティブ太一の話題で盛り上がった。
外が少し明るくなる頃まで話していたのは覚えているが、そのあとの記憶がまったくなかった。しかし状況を見れば昨晩に何が起きたのかは想像が付く。
「むにゃ……太一くん、おはようございます……」
俺が背中を壁に押し付けながら身震いしていると、起き上がったテレサが瞼を擦った。
俺はごくりと喉を鳴らし、震える唇から言葉を捻り出した。
「あ、あのさ、昨日の夜のこと、覚えてるか?」
「昨日の夜、ですかぁ……?」
テレサは寝起きで意識がはっきりしていないようで、起き上がったあとも目を半開きにして体を左右に揺らしている。そして人差し指を顎に添えると、だらしなく頬を緩めた。
「昨日は、楽しかったですねぇ……」
俺は頭を抱えた。何という取返しの付かないことをしてしまったんだ。俺は一時の情欲に身を任せてテレサを抱いたのだ。しかもそのときのことを綺麗さっぱり忘れている。酔った勢いで女子に手を出して翌朝には酔っていたから覚えていない、と白を切って責任逃れをする男と同じくらい最低だ。俺は壁に何度も頭を打ち付けた。
「太一く!? 急にどうしたんです!?」
「止めないでくれ! 俺はここで死ぬべき男だ! それがはっきり分かった!」
「止めて下さい! そんなに打ち付けたら本当に死んじゃいます!?」
「これでいいんだ。自分の犯した過ちを忘れるなんてあってはならないことだ。こうしていればもしかしたら記憶が蘇るかもしれない。そして思い出した記憶と底知れない罪悪感を胸に抱いたまま死んでいくのが俺に相応しい末路なんだ!」
「昨日のことを忘れちゃったんですか? 確かに遅くまで話してたから最後は二人とも眠気でぼんやりしてましたけど、そこまでして思い出すようなことでは……」
「何を言うんだ! 自分をそんなに安く見るんじゃない!」
「えっ、は、はい! ごめんなさい……?」
テレサは首を傾げている。俺はテレサに毛布をかけた。
「そんな恰好じゃ寒いだろ。体を冷やすと良くない」
「あ、ありがとうございます……えっ!?」
目線を下ろしたテレサはぴたりと静止してから、ゆっくりと顔を上げた。
「も、もしかして私、この格好で太一くんの傍で寝てたんですか……?」
「やっぱり寒いのか? 今コーヒーを淹れてくる。角砂糖は何個がいい? ミルクは入れたほうがいいか? それとも紅茶が良かったか? 家にあったかな?」
「い、いつにも増して優し……そうじゃなくて、これは違うんです。きっと太一くんは勘違いをしてると思うんです」
「勘違い?」
「あの、言いにくいんですけど、私って寝てる時に勝手に服を脱ぐ癖があるんです。だから今回もそうなんじゃないかなーって……」
テレサはもじもじと身をよじった。俺は小首を傾げた。
「それはつまり、俺が考えてるようなことはなかったってことか?」
「は、はい……」
テレサは恥じらうように俺から目を逸らすと、芋虫のように布団に包まった。
俺は気が抜けたように膝から崩れ落ちた。
「よ、良かった……! 昨晩の俺は理性を保ったんだな……! よくやった昨晩の俺!」
「それっていつも私といる時は理性を保つために我慢してるってことですか……?」
「えっ!? ち、違う違う! いや違わないけど! とにかく違うんだ!」
「お兄ちゃーん。テレサ先輩が見当たらないんだけどどこにいるか知らな……」
扉を開けて部屋に入ってきた梓は、俺とテレサを交互に見てから目尻を吊り上げた。
「最低! 私が寝てる隙にテレサ先輩を部屋に連れ込んであんなことやこんなことしてたなんて!」
「ご、誤解だ! これには事情が……」
「言い訳は聞きたくない! ケダモノ! エロの大怪獣! 妹に踏まれて喜ぶ変態!」
梓は部屋にある物を片っ端から投げ付けてきた。この状況では勘違いされるのも無理もないが、これではおちおち弁明することもできない。
「テレサからも何か言ってくれ!」
「は、はい! 昨日は楽しかったです!」
「この状況でその台詞は語弊があるのでは!?」
「信じられない! 今すぐこの家から出て行って! お兄ちゃんとは今日限りで絶縁だよ! これからはパパとお母さんとママの三人で暮らすから! 目一杯ママに甘えるから! 私がママを幸せにするから!」
「お、落ち着けって! 本当に何もなかったんだって!」
その後、誤解を解くまで俺は梓にぽかすか殴られたのだった。
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