第12話 動き出した時間

 千草は目を覚ました。何か夢を見ていた気もするが、それを思い出すよりもはやく体は現在の状況を理解していた。遅刻だ。寝すぎたせいか変に疲労感の溜まっている体が良い証拠で、目覚まし時計の十時六分というデジタル表記が覆すことのできない決定的な証拠となった。いつもは、朝のベッドであと五分などとほざいている千草だが、今日ばっかりはベッドの上で跳ね起きて学校に行く支度を始めた。どうしてお母さんは起こしてくれなかったのかと愚痴をこぼしていたら、家中にこだまするお父さんの遅刻の声とはやく準備をしてくださいなという急かすようなお母さんの声を聞いた。


 どうやら一家で寝坊をしたらしい。


 遅刻する旨を、自分で学校に連絡しようとしたが、誰も出ない。八回ぐらい電話をかけたがやっぱり誰も出ない。時間が過ぎていくことに耐えられず、千草は朝ごはんも食べずに家を出た。


 家の外は異様な光景だった。


 みんなが遅刻だと急いでいたのだ。


 高校に着くまでに、スーツ姿のサラリーマンも、工事現場で働いてそうなおっちゃんも、パジャマにランドセルを背負った小学生も、さらには学校の先生までもがすべての人が例外なく遅刻だ遅刻だと呪文のように唱えていた。


 なんか周りが焦っていると、心が妙に落ち着いてきた。走ることもばかばかしくなってくる。そして千草は、いつものようなおっとりマイペースで歩き始めた。仏のような視線で周りを見ると早送りみたいな周りの光景になんだかおかしな気持ちが湧いてきた。


 そこに千草の隣を駆け抜けようとした自転車が、後輪の浮き上がるような急ブレーキをかけて止まった。


 いったいどうしたのだろうと、自転車に乗っている人が誰かを確認した。


 磯貝果澄。千草の通う高校の生徒会長であり、小学校からの顔馴染みである。


 まさかと思う。真面目な彼女も遅刻をしたというのか。


「なにのんびりしてるの。遅刻するでしょ! はやく後ろに乗りなさい」


 果澄は今にもペダルを漕いでしまいそうな雰囲気で、千草はその圧に押されて自転車の後部の席にお尻を乗っけた。


「でも二人乗りは駄目じゃない?」


「そんなこと気にしてる場合じゃないでしょ」


 走り出した。その勢いに負けないように、千草は果澄の背中に抱きついた。


「それにどう頑張っても遅刻だと思うな。だってもう四時限目が終わりそうな時間だし」


「そんなのわからないでしょ。さっき学校の先生の車をいくつか見かけたから、まだ授業の準備ができてないかもしれない。授業が始まってないならそれは遅刻じゃないでしょ」


「それはたしかにそうかも。やっぱり頭がいいね果澄ちゃんは」


 ここでふと、果澄と話すことが何年振りであるのかを思い出す。きっと小学生以来だ。いつかの放課後に一緒に遊んでいたら、果澄のお母さんがやってきて強引に連れて行かれた時以来。あれから、果澄は変わってしまった。友達と遊ぶこともなく、ただひたすらに勉強に取り組むようになった。千草は何度か果澄を遊びに誘ってみようと思って、時機を見計らって、そうしたらずるずると引っ張っていつの間にか高校生になってしまった。


 だけどいま、彼女のほうから声をかけてくれた。自転車の後ろにだって乗っけてくれた。


 たまに見る夢を思い出す。それは、遊びの誘いを受けてくれる果澄の姿だった。


 今ならその夢が現実になる気がする。


「ねえ果澄ちゃん」


「なに?」


「今日の放課後一緒に遊ばない?」


「こんな時になにを言ってるの」


 次の言葉は無かった。


 妙な沈黙が、密着しているはずの二人の間に流れた。失敗してしまった。功を焦りすぎたのかもしれない。


 だけど気を使ったように、果澄が沈黙を破った。


「また折り紙でもするの?」


 憶えててくれた。それだけのことが嬉しくて、千草は調子に乗って何度も果澄を遊びにいくようにせがんだ。果澄はそれに折れたのか、


「まあ考えとく」


 千草は純粋に喜んだ。そしてそのついでに思い当たることがあった。


「そういえば今日って夏休みの前日だから授業ってないよね。夏休みの宿題が出たり、体育館で校長先生の話を聞いたり、クラスの掃除をするだけでしょ」


 あ、という風に果澄が気づいた。授業がないということがわかって、果澄の自転車を漕ぐ足がペースダウンした。そしてブレーキをかけて、それからいまさらのように、

「二人乗りは危険だから、ちゃんと自分で歩きなさい」


 ええ、と内心で思って、自転車を降りた。息を切らした女子高生が隣を通り過ぎた。


「たとえ授業がなくても、遅れるわけにはいかないの。だって私は生徒会長だから」


 そして果澄が颯爽と自転車のペダルを漕ぎ始め、ちょっとだけ振り返って、


「またね」


 小学校のあの日から止まっていた時間が、動き出したような気がした。

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