第3話 夢の世界への旅立ち

 朝になる。


 空乃は目を覚ます。リビングに下りてきて、テレビをつければいつまで経っても砂嵐しか流れない。学校に行く準備をひとしきり済ませ、今日学校に行けばついに明日から夏休みだと喜び勇んで登校を開始する。パンクを直した自転車にまたがる。ペダルを回す。風を感じる。タイヤから伝わる振動が自転車の前カゴのスクールバックを揺らした。朝にいつも聞こえてくる鳥の声がする。あれがいったいどこから聞こえてくるのだろうか。


 周りを見ても、それらしい鳥の姿は見当たらず、それどころか人の姿も登校中にいっさい見かけていない。


 いや、いた。


 住宅街のコンクリートの道に、スーツ姿のサラリーマンがうつ伏せに倒れている。


 もしかしたら急な病気かもしれない。


 空乃は慌てて自転車を下りる。


 サラリーマンに近づき、大丈夫ですかと声をかけ、体を揺さぶり、しかし反応はなにも返ってこない。スマホを取り出して119に電話をかける。誰も出ない。焦る。とにかくうつ伏せの体制をどうにかしようと、空乃はサラリーマンを転がして仰向けの状態にする。サラリーマンはマヌケ面で口からよだれを垂らして寝息を立てていた。


 眠っているだけかと安心する。


 しかし昨日の日葵ちゃんの言葉を思い出す。


 ——世界一静かな世界征服。


 再び自転車で疾走し、道で倒れている人たちを何度か見かけ、学校に着けば自転車庫に誰の自転車も見当たらず、職員用の駐車場にだってたったの一つの車も停められてはいなかった。


 廊下にはもちろん誰もいないし、教室にだって人はいない。


 夏休み前の終業式が行われるはずの体育館には生徒が座るためのパイプ椅子がずらりと並べられてはいるが、もちろん人は座っていない。


 やりやがったなと思う。


 日葵ちゃんには朝に会った。朝にはいつもお父さんがいるからおめかしをして、黙々と空乃の作った朝ごはんを食べていた。妙にそわそわしていたように思う。世界征服をしたら世界を星一さんにプレゼントすると、空乃に常日頃から言っていた日葵ちゃんだから、お父さんに世界をあげると言い出すタイミングを図っていたに違いない。しかし日葵ちゃんは未だにお父さんに話しかけるのに深呼吸を一つ挟む。話しかける度にとんでもない量の勇気を必要としている。だから今回は、言うことが言うことだけに、まったく勇気を振り絞ることができずに話しかけることができなかったに違いない。——このような調子で、どうやって結婚したのかは空乃にとって生まれてからの疑問ではある。が、そんなことがどうでもよくなるほどに今の状況は切迫している。


 スマホの電話帳から日葵ちゃんを呼び出す。


 七コール目で日葵ちゃんが出る。


「なに。どうしたの?」


 どうしたの? と問いかけることのできる神経を疑う。


「学校に誰もいないんだけど。昨日に言ってたことを本当にやっちゃったの?」


「やっちゃった。でも星一さんに言えなかったの。どうしよ?」


「そんなことよりも早く元に戻してよ。終業式ができないし、これじゃいつまで経っても夏休みにならないよ」


「あは。変なこと言うのね空乃ちゃん。夏休みなんて、この状況じゃあってもなくても一緒じゃない。むしろずっと夏休みよ。よかったわね。それよりも星一さんにサプライズパーティーでも開いて、世界はあなたのものですって伝えたいの。ねえ。算段をつけて。ねえ、空乃ちゃん」


 これ以上話しても無駄だと、早々に見切りをつけて通話を切った。


 次の手段を考える。空乃は魔法使いではないから、この状況に対して無力だ。誰かに頼るしかない。しかし誰かに頼るとしても、世界中の誰もが眠っている状況でいったい誰に頼ればいいのか。魔法に関して、頼るべきはたったの一人しか思いつかない。


 スマホの電話帳からおばあちゃんを呼びだした。


 おばあちゃんが一コール目で出る。


「やっと電話をかけてきたかい。遅いんだよ。早く私の家にきな。ちゃんと準備はできているよ」


 電話が切られた。


 おばあちゃんは起きていた。もしかしたらこうなることを、おばあちゃんは事前に知っていたのかもしれない。知っていたのであれば、それに対処する方法も知っているはずだ。準備ができているとはつまり——


 空乃は自転車にまたがり、ケーキ坂の上にあるおばあちゃんの家を目指す。車輪を回し、路地を抜け、地べたに寝転がっている大人たちを横目に通り過ぎ、ケーキ坂の入り口にたどり着くと空乃はゆっくりと自転車を降りた。自転車を漕いで坂を登るのはたやすいことではない。もしも登ったとしても降る時には加速がついて危ない。もはや自転車すらいらないという判断のもと、自転車をその場に停めて空乃はケーキ坂を走って登り始めた。足を動かす。息が切れる。それでも上を目指した。


 坂に阻まれていた視界の景色がだんだんと空に変わっていく。


 ケーキ坂の頂上にたどり着いた空乃の目の前に背の高い鉄柵が現れる。鉄柵の奥にはぽつん、とあまりにも鉄柵の大きさに見合っていない一軒の小屋がある。


 あの小屋がおばあちゃんの家だ。


 自分のようなおいぼれに大きな家など不要だと、慎ましくおばあちゃんはあの小屋に暮らしている。


 鉄柵の一部は門になっている。門の部分が軋むような音を立てながらゆっくりと無人で開いた。手入れのされていない庭に一歩を踏み出し、それから小屋のドアの前まで歩いていく。空乃が、木製のドアノブに手を伸ばしたところで、小屋のドアが開いた。


 今度は無人で開いたわけではない。ドアの奥からおばあちゃんの顔がのぞいた。


「やっと来たね。さっさと入りな」


 言うなり、おばあちゃんはさっさと歩き始めた。


 空乃はどんどん離れていく小さな背中を追う。歩く度に、木床がぎいぎいと音を鳴らす。足元に、ぶ厚い辞書みたいな本がいくつも積み上がっている。できるだけ足場を選んで慎重に歩こうとしたが、ランプの光しかない室内は妙に薄暗くて、どこになにがあるんだかまったくもってわかりづらい。積み上がった本を三回ぐらい崩してしまって、その度におばあちゃんが無言で振り返ってまた前を向いて歩き出す。せめてちょっとした文句ぐらいは言ってほしかった。後で直しとけ、と言われたらちゃんと後で直すのに。


 そして、小屋の外観からは想像できない距離を歩いたところで、おばあちゃんがぴたりと立ち止まった。


「あれを見な」


 おばあちゃんが指をさした方向には、一人用のベッドが置いてあった。


 まさかベッドを見ろとは言わないだろうと決めつけて、空乃は周囲を見回す。壁掛けのランプに遮光のカーテンに象嵌細工のドレッサーに漆塗りのクローゼットにベッドの枕元のベルの目覚まし時計。どこからどう見たってただの寝室で、特に見るようなものは何ひとつだってない。


 じゃあやっぱりおばあちゃんが指示したものは、


「これからあんたには夢の世界に行ってもらうよ。このベッドには特別な術式を組み込んである」


 やっぱりベッドだった。


「夢の世界に行っても自我を保つことができ、さらには他人の夢にも干渉し、あんたはマジカルスカイブルーとして活躍するのさ」


「え、なに。マジカル、なに?」


「マジカルスカイブルーさ。さあベッドにお座り。さあはやく」


 空乃はベッドに急かされるままに腰かけた。ベッドのスプリングがわずかにへこむ。おばあちゃんがベッドの前に椅子を持ってきて、腰を労わるように座った。


「いいかい。夢には核がある。核が生まれ、そしてゆるやかに壊れていくのが夢なのさ。だけどあんたの母さんは一つのでっかい核を作り出し、その中に町のやつらの核を閉じ込めた。でっかい核の役割は、町のやつらの核をエネルギー源として核を修復する。永久機関ってやつさ。だから人の夢は終わらない。たとえ自分の核が壊れても、でっかい核のせいで目が覚めることはない。それにすぐに修復が始まって夢に囚われる。だけどエネルギーは無限じゃない。だから、あんたはなるべく人の夢の核を壊して回って、修復させて、大元の核のエネルギーを枯渇させる。そうすりゃ町のやつらは目を覚ます。わかったかい?」


「町? 世界じゃなくて?」


「これは徐々に広がっていく魔法なのさ。まずはこの町、それがどんどんパンデミック的に広がっていき、やがて世界に広がっていく。逆にそこまでいっちまったら打つ手はない。早くなんとかしな」


「ええと、夢の核っていうのをいっぱい壊せばいいんだよね。でもどうやって?」


「あんたの想像を夢の世界で現実にする術式を組んだ。ステッキの先の宝石を覗きこめば、もやもやしたもんが見える。それが核だよ。それを、原型を留めないぐらいに物理的に壊せばいい」


「ステッキ? んー、まあたぶんわかった」


「この術式にはでっかい核の影響を阻む効果をある。それをあと三つだけ枠を設けているから、核を壊して一時的に夢から逃れた者に渡して、核を壊すのを協力してもらいな」


「え、どうやって渡すの?」


「質問の多い子だね。あんたの思った通りに大体のことはできるさ。さあ、さっさと行っちまいな」


 おばあちゃんがさもめんどくさそうな顔をする。人差し指を空乃のおでこに近づけてくる。——いや、結局マジカルスカイブルーがなにかもわかっ——空乃のおでこにおばあちゃんの手が触れた。


 空乃の意識は、こうして夢の世界に旅立った。

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