飛べない魔法使いと笑わない天使
第1話 1日目
家に帰るのが憂鬱だった。
魔法使いになるための修業を空乃はあまんじて受け入れた。それからの日々は少年漫画の修業シーンみたいだった。日葵ちゃんから出された課題はアスリート並みの特訓メニューで、走ったり泳いだり跳んだり投げたり打ったり持ち上げたりと、いくつもの運動をさせられた。空乃が「魔法使いに体力って必要なの?」と質問すれば、日葵ちゃんが「必要ないわ。おかしなこと言うわね。これは空乃ちゃんの精神を鍛えるためにやっているのよ。さあ、あとは町内一周よ。がんばがんば」この時の感情を、もしかしたら殺意と呼ぶのかもしれない。運動のド素人が思いつく限りの運動メニューをただやらせているに過ぎない——これは間違いなく修業なんかではなく、家庭内暴力に匹敵する明らかに不条理ななにかである。辛い。暑い。逃げ出したい。
そんな空乃に比べて、日葵ちゃんはいつになく上機嫌だ。
いいおもちゃが手に入ったから、壊れるまで遊ぶつもりなのかもしれない。
身震いした。
放課後の帰り道、空乃はうんと遠回りをして家に帰っている。家に帰ったら地獄の特訓メニューが待っている。全身の筋肉がきしきしと悲鳴をあげる。夏休みになったら——想像するだけでも恐ろしい。登校、授業、休み時間、下校、そのすべてが修業の時間に早変わる。
空乃は頭をぶんぶんと左右に振った。
いまぐらいは嫌なことを忘れよう。
見慣れない道は、周囲を見回すだけでも気が晴れる。
観察する。
散髪屋の開店を知らせる赤と青と白の立ち昇る螺旋、人なんて見飽きたとばかりにこっちを一瞥だけしてゆうゆうと前を横切っていく茶虎ネコ、古すぎて茶色く変色しているビールのポスターをいつまでも貼り続けているタバコ屋、新しくできたのか異国風の店構えで辺りからめちゃくちゃ浮いている喫茶店、新聞紙でできた剣と兜を装備してどこかへと走っていく子供たち——彼らの行く先にはどうやら公園があるようだった。
小さな自転車がいっぱい停められている、あそこがきっと入り口だ。
公園にベンチでもあれば、時間を潰すにはちょうどいい。
入り口からひょいっと中を覗いた。
変わった子がいた。
なんてことない公園の、なんてことない夕焼けの、なんてことない水たまりの前、女の子はスカートのお尻を汚さないようにちょこんと屈んでいた。背中のランドセルはスタンダードな赤色で、被っている帽子はそのすべてが黄色で、着ている服はシミ一つない白のブラウスとサスペンダー付きのふりふりのスカートだった。ちょっとだけつり目で、なんだか怒っているようなむすっとした表情をしている。
見た目だけでいうのなら女の子はどこにでもいそうなごく普通の小学生だった。
空乃が、女の子が変わっていると感じたのは、見た目ではなくその行動にある。
女の子の視線を辿っていけば、水たまりにカマキリが溺れている。
女の子はそれを、助けるわけでもなくじっとただ見つめている。
なんだか気になった。
女の子のもとに近づいた。
「なにしてるの?」
女の子は視線をカマキリに向けたまま、
「気づいたら溺れてた。自殺志願者なんだろうなあって思って、観察してるの」
「へえ」
空乃はやっぱり変わってると思った。
初対面の相手に——正確にはこっちを見向きもしていない——物怖じすることなく淡々と状況の説明をしている。そんなことは普通の子だったらできないに決まっている。
だからって、
「カマキリさんも生きたいって思ってるかもしれないよ」
空乃はひょいっと溺れているカマキリをつまんで近くの草むらに放した。カマキリは当たり前のように礼も言わず、力なくしばらくうなだれてから、やがてはいそいそと動き出す。
顔を並べて空乃と女の子はその様子を静観していた。体勢としては膝を曲げてしゃがみ込むような感じ。女の子はスカートが短いのにそれを抑えようとはしていないし、空乃だって小学生のころはそんなことを配慮してなかった気もする。
カマキリは草むらと同化するように消えた。
空乃が行っちゃったねえと話しかけると、女の子の静観の対象がどういうわけか空乃に移った。
返事はない。
視線がねばついて離れない。
いったいどうしたらいいのか。こちらから話しかけておいてまさか返事も聞かぬままに立ち去るわけにもいかないし、もしかしたらカマキリを勝手に逃がしたことを怒っているのかもしれないし、もしかしたら空乃の髪になにかついていることを指摘できずにいるのかもしれない。自分の髪の毛をつまんで自分の目の前に持ってきて、髪になにかついていないのかを確認。何度か繰り返したところで、さっきこの指はカマキリをつまんでいた指ではないのかと思い返す。
ものすごく後悔した。
女の子がやっと口を開いた。
「あなた面白いね」
空乃は、一瞬なにを言われたのかわからなかった。つまらなさそうな顔で面白いねと言われてもピンとこない。表情と感情がうまく合致していない。五秒ぐらいのフリーズの後、頭の中でようやく自分に言われたことがわかって、
「そ、そうかな?」
とにかく褒められたと思って空乃はにへらと笑う。
だけど目の前の仏頂面を見ていると、本当に自分の反応が合っているのか不安になってきた。
「この公園にはよく来るの?」
奇妙な沈黙を誤魔化すための質問だった。
それは、答えてくれたらラッキーぐらいの感じだったけど、女の子は馬鹿がつくほど真面目に考える素振りをして、馬鹿がつくほど真面目に過去を振り返り見て、右手にパーを作ってから左手にはチョキを作ってみせた。空乃にそれを見せつけてくる。両手に立っている指の本数で、空乃に公園に来た回数を教えてくれている。——女の子はつまりこの公園に七回訪れている。多いのか少ないのかよくわからない数字だと思った。質問したくせに「へえ」という反応しかでなかった。
逆に、女の子が質問をしてきた。
「次は私の番。質問。あなた、私を笑わせることができる?」
「うん?」
これまた、おかしな質問が飛んできたものだと空乃は思う。
自分のことを笑わせてほしいという質問自体の意味は理解できるが、しかし笑わせてほしいという言葉に含まれたその裏の意味を理解することができない。どうして笑いたいんだろう、どうしてそれを空乃に頼むのか、複雑な思考がとんでもなくシンプルな質問によって生み出される。いやいやいや、——空乃は思考を切り替えてみた。シンプルな質問をされたのなら、それこそシンプルな答えを用意してしかるべきだ。考えてみれば、女の子はたった一人で公園にいて、水たまりなんかをじっと見つめていて、そしてすごくつまらなそうな顔をしている。物事を単純にしてみれば、結論として女の子は退屈しているに決まっていた。
ならば女の子の退屈を晴らすため、空乃はとっておきの面白いジョークを飛ばさなければいけない。
空乃はお姉さんである。
年下の女の子に期待されたらそれに応えるぐらいの器量を持っていないと駄目だ。
さあ言うぞ。さあやるぞ。
右手はグーで、左手はパーにする。
右手は下に、左手を上にする。
カタツムリだ。
出来上がったカタツムリを、空乃は水たまりへと歩かせて、それから水たまりの直前でその歩みを止めさせて、
「カタツムリが~」
カタツムリが立ち往生して、
「行きづまり」
女の子は真顔だった。
カタツムリと行きづまりはそもそもあんまりかかっていないような気もする。っていうか「り」しか合ってないではないか。
死にたくなった。
右手と左手は分解されて、少なくともカタツムリは死んだ。
「それで終わり?」
追い打ちだった。
空乃は心に深い傷を負いながら一言。
「帰ったらお笑い芸人のコントの動画を見るといいよ! サンドイッチマンが私のおすすめ」
そんな言葉を残して、空乃は逃げるようにその場を後にする。
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