第3話 幽霊の声

 三人ぐらいならぜんぜん無理なく座れそうなソファ、ティッシュ箱とテレビのリモコンと小さな観葉植物の置いてある机、家庭用ゲーム機とブルーレイ再生機の入っているテレビデッキとその上には薄型テレビが乗っている。いわゆるリビングのくつろぎスペースがここで、他には、食事用の四人用テーブルとか、冷蔵庫やら電子レンジやら食器乾燥機やらの置いてあるキッチンがある。案外普通の家なんだねというのが大体の家に招待した友達の感想だ。魔法使いの家だからとどのような期待を抱いているのかは知らないが、リビングまで日葵の部屋みたいにされたらたまったものじゃない。だからこの普通は、空乃が上手くお父さんを利用して勝ち得た戦利品だった。


 ソファには空乃と凜花が座る。


 カーペットに対面するように直座りの日葵は、机に肘をかけてそこにぐったりと顔を乗せている。ほっぺたがぷにいっとなっている。


 そんな日葵に視線を向けて、凜花は話を始めていいのか悪いのか、そんな風に悩む素振りをみせる。


 空乃が促すと、凜花はおずおずといった様子で語り出す。



 その内容はいまから約三か月前にさかのぼる。



 高校の入学式の日、季節外れのインフルエンザにかかった凜花は大人しくベッドで寝ていた。その時はどうして私ばっかりこんな目に遭うのか、運命というものはどうあっても私に味方をしないのか、自分に友達を作る機会を与えないつもりか、こうなったら運命論について真剣に論文でも書いてやろうか、「私に降りかかる友達不在の運命」みたいな題名にしてやろう、そんなことを半ば真面目に考えていた。


 だけどそんなものを書くわけもない。


 凜花は天井に向かって「ああ不幸だなあ」って呟いた。


「そんなことないよ」


 声がして、ベッドの上から跳ね起きた。


 呟いたのは誰もいないからこそのものだった。まさか返答があるだなんて予想だにしなかった。辺りを見回した。ベッドの下まで見た。クローゼットの中だって探してみたけど誰の姿もなかった。


 たしかに声を聞いたはずなのだ。


 だけど、声の主がいないのなら、さっきの「そんなことないよ」は幻聴に決まっている。インフルエンザにだってかかっている。三十八度以上の高熱は、凜花の脳になにかしらの悪影響を与えたのだ。悪影響とはつまりはさっきの幻聴である。うん、きっとそう。


 自分を納得させた直後、凜花は部屋の中を動き回ったことによる眩暈を覚える。体がふらついて、ベッドに寄りかかって、


「大丈夫?」


 バネのように跳ねた。


 しかし声の主を探す元気はもう残っていない。


 その場にへたり込んで、

「だれ?」


 尋ねてみた。


「うーん、幽霊ってやつかな?」


 返事があった。


 混乱した。


 現実的な手段によって、今の状況をなんとか解析してみようかと思ったけど無理だった。頭がぐるぐる、視界がふらふら、体がぐにゃぐにゃ。もう本当にわけがわからない。自分がなにを考えようとしていたのかもわからない。えーっと私はインフルエンザで一人で不幸で友達がいなくって、ううんそうじゃなくってこの部屋には一人でいたはずなのになぜだか声がして、だから本当は一人じゃなくって、そうだそうだつまりはこの部屋には、幽霊がいたんだ。やったー私は一人ぼっちじゃなくなったんだあ——ばたん。


 凜花は気を失った。



 目を覚ました。


 さっきのは夢だと思った。床で寝たから体が痛い。赤い痕がほっぺたについている。ベッドのシーツにしがみつき、そのまま這うようによじ登って、仰向けに寝た。柔らかいベッドの感触が背中にあって、体がそれだけでもほぐれたように感じる。羽毛布団を体に引き寄せ、もうひと眠りしようかと考えたその時、


「そうそう、ちゃんとベッドで寝なくっちゃね」


 声がした。 


 凜花は内心でだけ驚き、冷静に自分のほっぺたをビンタした。


 痛い。夢じゃない。


 だったら声の正体は、本当に幽霊かもしれない。


 だけど幽霊がいるからといって対抗する術があるわけでもない。それに見えないんだからやっぱり幻聴の可能性だってあるわけだ。つまり、友達がいなさ過ぎて凜花の脳内で妄想友達が構成され、それがいま語りかけている。そういった解釈が、今の状況の推理として一番可能性が高い気がする。


 そうと決めればやることはただ一つ。


 事態が収まるまで無視をする。


 幽霊だったら凜花にできることはないし、妄想だったらそれが収まるまでの我慢だ。


 インフルエンザが治るまでの四日間をそうやって過ごした。


 だけど、事態は一向に解決に向かわない。


 声は依然として聞こえ続けた。


 声の語る内容としては、ちゃんと水を飲まないと駄目だとか汗をかいたらちゃんと拭かないと駄目だとかちゃんと食事はしないと駄目だとかそういった小言のようなものが多かった。お母さんか。心配性か。


 この声が幽霊だったとしたら、凜花は死人にまで心配される情けないやつだ。もはや救いようがない。


 しかし幽霊の声があるなしに関わらずに、凜花はインフルエンザから快復した。凜花の考えとして、この声の原因は、インフルエンザに由来するものであると考えていた。風邪で弱った心につけこんだ凜花の妄想。もしくはそれを心配してくれた幽霊の気まぐれ。だからもうあの声を聞くこともないのだと思う。ちゃんとクリアに聞こえているくせに、男なのか女なのかも、なぜかわからないあの声は、やけに親身になってくれるお節介なあの声は、もう聞くことができないのだと思うと、なんだかちょっとだけ寂しかったりもする。


 一回ぐらい返事をしてあげればよかったかもしれない。


「いやーよかったね、インフルエンザが治って」


 聞こえてしまった。


 聞こえたら聞こえたで、返事なんてしなくていいんじゃないかと思う。


 だけどまあ会話をすることで見つけ出せる解決策もあるかもしれない。


 そんな成り行きで、凜花と声とのコンタクトが始まった。




 最初は普通に質問をしていた。


 あなたはだれ? 本当に幽霊? 幽霊ならいつ死んだの? 男の人? 女の人? 


 あらゆる質問に「知らない」の一言で一蹴される。


 つまんないから質問することをやめた。相手の答えから色々と探れると思ったのに、知らないで済まされるんじゃなんの意味もない。


 逆に質問をされることが多かった。


 お父さんとお母さんは元気? 元気だけど。兄弟はいるの? いないわよ。 一人っこだとやっぱり両親から溺愛されるもの? まあ、愛されてるほうだとは思う。私みたいなやつを怒ったこともないし。 実は怒られたい? は、なんで。 さあ、なんとなく言ってみただけ?


 おかしなやつだった。


 妄想だったら、凜花にとって都合のいいようなことばかり言いそうなものだが、こいつは凜花にとって予想外なことまで聞いてくる。声とコンタクトを始めて、三日ぐらいしたところでこいつは本当に幽霊なんじゃないかと思い始めた。しかし幽霊だとしたら、凜花は、幽霊に憑かれているということになる。


 だけど害はなさそうだし。


 なんて気楽に考えて、凜花にとっての高校デビューが始まった。


「あの子に話しかけちゃえ」「あれ、教科書忘れたの? じゃあ隣の子に貸してもらっちゃえ」「思い切って男の子に話しかけてみるとかどう?」「あ! 今あの子一人だ。いっちゃえいっちゃえ。一緒に昼ごはんどう? って聞いちゃえ聞いちゃえ」「うおお凜花が話しかけられてる。これはチャンスチャンス。昨日の夜に練習した話術で虜にしちゃえ」


 幽霊は学校までついてきたあげく、ことごとくうるさい。


 しかも馴れ馴れしい。呼び捨てにしてくる。


 害しかなかった。


 一か月が経つと、周りに誰もいないとわかると幽霊と言い争いばかりしていた。


 悪霊である。何とかしなくてはいけない。だけど何とかするにしても幽霊に憑かれているなど誰に相談していいのかもわからない。まず幽霊の声が聞こえるということを人に信じてもらえるのかどうか。


 そんな時、高名な魔法使いの子孫がクラスにいると小耳にはさんだ。名前は高菜空乃。彼女だったら幽霊についての話をちゃんと聞いてくれるかもしれない。しかし、それを知ったからといって凜花には話しかけることはできない。だけどいつかは——それは思うだけのはずだったけど、凜花は下校時間にばったりと空乃と出会った。完全に油断していて幽霊との会話を完全に聞かれてしまった。


 そして、今に至る。

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