一瞬、身体の輪郭が失われるような感覚。

 公式では、ニューロデバイスの干渉によって、脳の認識が現実から仮想現実へ移るのに要する時間は、ミリ秒にすら満たないレベルの非常に短い間隔に過ぎないらしいが、人によってはその一瞬の麻痺を知覚するのだという。

 

 身体の輪郭を取り戻す。確かに自分が一つの世界に立っているのだという自覚を得て、釘屋は目を見開いた。

 網膜を突き刺す、毒々しいまでの妖しい光。

 いや、サイバークラフトの世界──このアーカムシティに居る間、釘屋の眼窩に収まる眼球は、生身のものではない。

 眼球ばかりではない。

 必要とあらば、可視光線以外の光も視認する視覚素子を埋め込んだ、頭蓋骨を含む全身の骨格も、合金を金属繊維で補強した強靭なフレームになっている。

 骨格だけでなく、筋肉繊維や内臓器官すらも、サイバネ技術を駆使した強化義体。頭蓋骨の揺籠で微睡む脳髄も、ナノマシンによる電脳化処理を受けている。サイバークラフトのプレイヤー達は皆、全身サイボーグの肉体を得て、このアーカムシティで現実とは別の人生を送っているのだ。


 あらためて、辺りを見回す。

 荒廃した未来都市──サイバーパンクの世界観が、目の前に広がっている。

 灰色の摩天楼を彩るネオンサインやホログラム、ただのペンキではなく蛍光塗料を用いて描かれた落書きグラフィテ

 匂いを嗅げば、汚染された大気の、発酵しすぎた酒に似たえた臭いがするようだ。しかしあいにく、この身体には嗅覚が存在しない。

 嗅覚と味覚の麻痺は、サイボーグ化の代償──というのはサイバークラフト独自の設定で、実際には現状のVR技術の限界である。においと味を再現するのは、難儀なものらしい。


 視界の隅に映る、停車されたホバリングカーへ視線を留める。偏光処理を施された車窓には、釘屋の姿がくっきりと映し出されていた。

 サーモスタット内臓の耐候コートを羽織り、金属装甲で補強している軍用ブーツを足許に履いた、無精髭を生やす、ぎらりとした面貌の壮年男。いかにも往年のSF小説に登場するハードボイルドを気取った探偵のような出立ちだ。

 

 これは、釘屋が仕事用に使っているアカウントのアバターである。本来なら、わざわざ仮想現実の世界で、むさ苦しい男の姿を取る趣味は釘屋にはない。実際、口調まで変えるほど熱心なクチではないものの、プライベートアカウントでは女性のアバターを使っている。

 仕事用アカウントに男性アバターを選んだのは、オンオフのスイッチを切り替えるためだ。このハードボイルド探偵風の風貌に、ロマンが入っていないとは言えないが。


「さてと」

 肉声とは違う、ボイスチェンジャーによる、いぶし銀然としたバリトンの声。

「まずはクエストのフラグを立てない事には始まらないな」

 釘屋──あらため“Deckard”は、そうつぶやいて、足取りを目的の場所へ向けた。

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