40-2 開発薬と同級生と

 ――俺の親、菊地記世子はこの世を去った。

 病院に来ていた来須刑事は、俺の心中を察して、後日事故の詳しい経緯を説明すると言って病院を後にした。

 俺は二度と目の開かぬ母の遺体を見つめた後、やるせない気持ちを心に押し込んで帰宅した。

 ポケットのスマホは常に振動しており、開いてみたらLINEの未読は500を超えていた。しかし、どれもが馬鹿らしい遊びの誘いだった。だから、既読無視をすることにした。

 家に帰るまでの道のり、暗い住宅街には明かりが灯って、夕飯を作る匂いが漂い始めた。

 だが、俺の家には明かりも灯っておらず、夕飯を作る人もこの世から消えた。

 部屋の明かりをつけながら、テーブルに目を移すと置手紙と見覚えのある風呂敷が目に入った。

「――ッ」

 置手紙には「唐揚げ弁当」と母の筆跡で書かれていた。風呂敷の包みを開いてみると、二段弁当が現れた。一段目は俺の好物の唐揚げと、いつも親がつくる謎に美味いソース。そして、二段目には冷め切った白米があった。多分、一段目の底についた水滴を見るに、朝は温かかったのだろう。

「――いた…だきます」

 何年ぶりだろうか。食べ物に感謝をしたのなんて。「いただきます」なんて言うのはダサい。勝手にそう決めつけて母への感謝も、食べ物への感謝もしてこなかった。

「美味いじゃねぇか…」

 あんな400円も払って購入した学食の唐揚げより、断然こっちの方が美味しかった。このソースの味を再現できるのは、母親しかいなかった。

 いつの間にか、唐揚げは残り一個になっていた。

 亡き母が作った最後の唐揚げを見ていると、頬を水が伝った。

「――なんで、死んじゃうんだよ」

 真面目に親と向き合って話し合ったのは、いつが最後だろう。「いってきます」って元気に言ったのは、いつが最後だろう。いつも、微かに耳に入る「行ってらっしゃい」を無視し続けてきた。

 俺は振り返りなんてしなかったけど、きっと母は悲しげな顔をしていたのだろう。

 『成長』を言い訳にして母を避け、その上他人に迷惑しかかけない遊びに呆けて。これは親不孝以外の何物でもない。

「――ん?」

 食べ終えた弁当箱を洗おうと席を立った時、ふとカウンターの上にあるものが目に入った。

「――なんだこれ」

 それは薬が入っている袋だった。袋の説明欄はすべて空白で、中には一枚の紙と赤と青のカプセル錠剤が入っていた。

 紙には訳の分からん英語がびっしりと書かれていた。そして、その紙の最下部には、ボールペン書きで「遡及効果及び将来効果」と書かれていた。結構角ばっているため、母の字ではない。

「――遡及?」

 母親は病気を患っていないはず。父が死んでから、母は常に健康に気を遣うようになったからだ。

 ――ならば、この薬はなんだ。

 遡及効果。この言葉がこの薬のどちらかを指しているとすれば、それは過去に戻る効果を持つ薬なのかもしれない。

「お前に、賭けるか」

 紙に書いてあるボールペンの色が青だったから、青い方を飲み込んで、赤い薬はポケットに突っ込んだ。


 後日、俺は椅子の上で目が覚めた。昨日はベッドで寝たはずなのに。妙だと思ってスマホを確認すると、今日は水曜日だった。そう、母が死んだ日である。

「じゃぁ、やっぱあの薬には確かな遡及効果があったのか」

 どうやら青い錠剤の方で正解だったらしい。だとすると、俺は大智らがいる世界から、1日遡ったことになる。じゃぁ、昨日の俺はどこへ?今日の俺の扱いはどうなっている?そんな無駄な考えに、時間を割いている暇はなかった。


 リビングに降りると、そこには母の姿があった。

 俺はいつもとは違って、線香に火をつけて刺した。

「ねぇ、今日も学校なんでしょ?お弁当作ったから持っていきなさい」

 カウンターの上には、唐揚げ弁当然り、茶色い風呂敷の弁当が置かれていた。

 俺は弁当を受け取り、リュックの中に突っ込んだ。

「あら、今日は食べてくれるのね。いつも学食でいいって言うのに」

 いつもの母の声より少し明るい声だった。無論、俺は小恥ずかしくて何も返答しなかった。

 母が作った朝ごはんのトーストを口に放り込み、俺は玄関へ向かった。

 俺はいつものように、何も言葉を交わさずに玄関を開けた、その時だった。

 母が食器を洗うのを止めて玄関へ走って向かってきた。

 俺は、昨日の俺を思い出した。母と話すのが嫌で、億劫で、だから母を避けてさっさと家を飛び出した。だから、昨日はこの言葉すらまともに聞いてなかった。

「――行ってらっしゃい」

 俺は玄関のドアを開け、後ろを振り返った。

 生まれてから十数年、ずっとこの顔がそばにあったんだと自覚した。

「行ってくる」

 とても弱く小さな声で、母の耳に入っていたかすら分からない。でも、珍しく母の口角が上がっていたということは――。きっと、そういうことだろう。


「亘也、食堂行こう。って、お前、今日は弁当なのかよ」

 昼食の時間、大智は俺の机の上に置かれた弁当箱を見て驚愕していた。

「あぁ、たまにはな。だから、今日は他の奴と行ってくれ、それと――。今夜の遊びには付き合えねぇ」

 大智は「つれないな」と少しキレた口調でそう言って、他の奴らと食堂へ向かった。

「――珍しいね、亘也君がお弁当なんて」

 俺の隣の席の女、涼宮琴裡すずみやことりが話しかけてきた。多分、こいつはいつも弁当を食べているのだろう。

「あぁ、いつまでこの飯が食えるか分からないからな」

「――そういえば、亘也君のお父さんは既に故人だったよね」

 そう。俺の親父、菊地昌は一昨年に事故で亡くなっている。

 道路に飛び出した少年の命を救うために、その少年を突き飛ばして自分が車に撥ねられた、名誉の死だった。

 元々、癌を宣告されていた親父だったが、最後まで母に弱い姿勢を見せることはなかった。俺も、いつの間にかそんな親父を見習おうと思っていた。

 結局、見習おうと思っただけで、俺はただの親不孝息子に成り下がっただけだった。

「でも、お前の母親も故人だよな」

 だいぶ前に琴裡が言っていたのを思い出した。自分の母はもう亡いと。

「そう。でも、あれは亘也君のお父さんほど勇敢な死じゃない。ただの、自業自得」

 まるで母親から愛など貰わなかったと言った鋭い口調で、話を締めた。

 過去に琴裡は、母親と何かいざこざがあったのだろうか。

「――そうだ、亘也君。青色で塗ったものは、後で赤色で塗り直さないと酷い目に合うよ」

 そう俺に言った後、琴裡は教室の後ろでじゃれている藤田茉祐と羽弥田紗雪を睨んだ。そして、早々に弁当を食べ終えた琴裡は、意味不明な言葉を残したまま教室から姿を消した。

「青で塗ったものは、赤で塗り直す」

 この時の俺は、何の話だかさっぱりだった。

 教室から出て行った琴裡のことを睨む錦田愛海の恐ろしい形相もまた、謎だった。


 やがて空はオレンジ色に染まりつつあった。今日の遊びは断ったから、大智たちが俺に絡んでくることはなかった。

「――帰るか」

 何日ぶりかに、寄り道をせずにまっすぐ家に向かった。

 昨日はなかった家の明りも、今日は灯っていた。魚を焼く匂いが嗅覚を刺激する。

 俺はリュックを下ろして、手を洗い、リビングに向かった。

 そして、母の顔を、目を見て――。

「――ただいま」

「おかえり、亘也。今日は早かったのね」

 何年ぶりかの「ただいま」を、母に聞かせることができた。


 母の作る夕飯を食べて、脱衣所に行ったところで、ズボンのポケットから何かが落ちてきた。

 昨日、ポケットに入れた赤い薬。

「まさか、青を赤で塗り直すって、これのことか?」

 手に取った赤いカプセルを見て、昼に琴裡から言われた言葉がフラッシュバックする。

『――そうだ、亘也君。青色で塗ったものは、後で赤色で塗り直さないと酷い目に合うよ』

 青い薬が遡及だとすれば、赤い薬は将来の効果を持つ。

「――遡及したままだと、何かしらのタイムパラドックスが生じるのか?」

 俺が朝、一瞬考えて難しすぎて考えるのを止めた問題。では、なぜこの薬のことを琴裡が知っているのだろうか。

 とりあえず、俺は赤い薬を服用してから眠りについた。


 目覚めてスマホを見れば、曜日は金曜日になっていた。つまり、元の時空で考えれば、水曜日、水曜日、金曜日になったというわけか。本来の木曜日は遡及した水曜日に置き換えられて、何かしらの間接的原因によって母は事故に遭わなかった。どの道、今日も学校はある。

「母さん弁当まだ?」

「あと少しでできるからちょっと待ってなさい」

 自然と、母の顔色が今までより良くなった気がする。いや、確実に良くなっている。

「じゃぁ、行ってくるから!」

 母親が玄関に来なくても、俺がキッチンに聞こえるまで大きな声でそう言うと、母も「行ってらっしゃい!」と大きな声で返してくれた。

 今回の件を受けて、俺は早起きをするようになった。ゴミみたいな生活を抜け出し、誰よりも早く学校についたつもりだった。

 しかし――。


 教室の状況は明らかに異様だった。

 階段を上った先にある教室からは明らかな異臭が立ち込めていた。火薬と腐臭が混ざり合ったかのような臭い。

「入らない方がいいよ、菊地亘也」

 普段から制服を着てこないうちのクラスの異端児、五十嵐迷はそう言った。

 教室の机は意図的になぎ倒されており、その中央にぶら下がる異様なモノ。

 首を吊り、心臓と脳天を撃ち抜かれた、涼宮琴裡の遺体だった。

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