第232話・目覚めた道

 渡芽わためはいつものようにクー子の腕の中で目を覚ます。安らかな夜のあくる日、喜びに満ちた朝がやってきた。


「おはよ、クルム」


 クー子はすっかり、渡芽わためを抱き枕として眠るのが日常なのだ。


「ん! おはよ!」


 渡芽わためは抱きしめられるぬくもりが心地よく、だけど満たされる喜びに胸を打たれて意識を覚醒させていく。


 背後からふと、太陽の光の気配。見えてもいない、熱も布団に遮られて、それでも感じた。日司は天道を歩む。太陽の子らすべてを見守る、大いなる母なる光の気配である。幼いからこそ、それは魂に直接熱を届かせるのである。


「お茶入れるね。日向ぼっこしてから、朝ごはん食べに行こう」


 クー子の包容は解かれるが、欠片も渡芽わためは寂しくない。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 クー子と渡芽わためは火のよく当たる縁側に座り、太陽の光を浴びていた。

 感じるのだ。まるで風が精霊たちの歌を運ぶように。神の幽世かくりよだからこそ、小鳥たちの歌はよく響く。


「気持ちい……」


 思わず、ため息の出るような感覚だった。


「よかった。でも、今日もしよ?」


 毎朝やらなくては、ならないこの六年の習慣。最近では渡芽わためが抱いてしまう荒御魂あらみたまとしての神通力は随分と減ってきた。


「ん!」


 やらねばならぬと、渡芽わためは目を閉じて身を任せた。


「行くよ。赤化ルベド屍徃吹荷蔵巣シュブニグラス


 クー子の尾は無数に裂け、そして赤く染まる。それが幾重にも、渡芽わためにまとわりつき、そして荒御魂あらみたまとしての神通力を探した。

 やらねば傷がまた浮かび上がってしまう。渡芽わために苦痛を与えてしまう。だからこそ念入りに。


 だけど、それはどこにも見つからなかったのだ。無数に裂けた尾を撫でるのは、太陽のような暖かな神通力ばかり。


 渡芽わためはこの世に在るありとあらゆる調和の道を悟ったのだ。欲望と己すらも調和していた。なまじ不幸に荒みきった心を持って、人の世から神の世へと渡った。だからこそ、なぜ心が荒むのかを理解できた。


「あれ? ない……。踏破したってこと?」


 だとしたらおかしい。渡芽わための神通力はクー子にも理解できる範疇である。大孁おおひるめの踏破した神の神通力は、世界そのものを包み込むほどになってしまう。在るのが当たり前すぎて、神通力として解釈などできないほどだ。


 なのになぜか、それを感じる。渡芽わためらしい、触れているだけで心が癒されていくような神通力である。


 赤化した屍徃吹荷蔵巣シュブニグラスの力が二つの魂を繋げていた。それはクー子にも影響を及ぼした。

 解けるように、そして諦めてしまった物を呼び起こさせるように、クー子の中で少しづつ浄化され続けていた事変の残滓が消えたのだ。


「え!?」


 クー子は驚いて、術を不安定にさせてしまう。

 繭は解け、渡芽わためがひょこりと顔をのぞかせた。


「ん?」


 それはまるで、天御中主が手助けしてくれた時のような。いや、それすらも超えて強力に。だというのに、渡芽わためは可愛らしくコテンと首をかしげた。


「クルム、帰ってちょっとゆっくりしたら、今度は天照大神あまてらすおおみかみ様に会いに行こうか」


 この存在を理解できるのは、きっとそれ以上の神だけであると思った。天照大神あまてらすおおみかみか、別天ことあまつの神々のみ。


「ん!」


 渡芽わためは肯定する。高天ヶ原たかまがはらに、嫌と思わされる神はいなかったのだ。

 クー子はほんの一抹の不安を感じていた。渡芽わため大孁おおひるめらしく、どんどんと道を進んでしまう。だから、離れてしまうのかと一瞬思ったのだ。


 だが、渡芽わためとクー子は夫婦である。ゆえに分かちがたく、それがクー子を不安から救ったのだ。

 本当に、まるでそのように操られていたと思うがごとく、ベストな婚姻のタイミングだったのである。


「クー子! ごはん!」


 終わったのだと理解した渡芽わためは、立ち上がってクー子に手を差し出した。


「そうだね。きっと、ちーちゃん作ってくれてるね!」


 クー子は渡芽わための手をとって、縁側から部屋へ、それを通り抜けて部屋を出ようとした。

 襖を開けて部屋の外が見えたとき、そこに柱千葉之守神はしらちばのもりかみは立っていたのである。


「昨晩はお楽しみでしたね?」


 開口一番、残念な枝主神えのぬしかみだった。


「ねえ! クルムの前で……ねえ!!」


 クー子は焦りと照れが化学反応を起こし、変なリアクションを取ってしまう。


「お楽しみ……?」


 渡芽わためが知らぬので、柱千葉之守神はしらちばのもりかみは思わずため息をついてしまった。


「クー子様。なぜまだお教えしてないのです? 人の子なら、現代の子でも全てわかっている時期ですよ」


 柱千葉之守神はしらちばのもりかみ、初めての主神への説教である。現代の子は性というものに無知であれとされる。それは、まったくもって惟神かんながらの道的な考え方ではないのだ。


 惟神の道では、性は生きる上で必要な知恵。だからこそ、聖書と言い換えられる古事記にすら、比喩的な性描写が記載されている。


「え……だって……。まだ、そういうの興味ない時期でしょ?」


 三千歳ママの悪いところが出ていた。


「いいえ、人ならとっくに。神になったから、コントロールされているだけです」


 柱千葉之守神はしらちばのもりかみも人との関わりが深い神であり、動けないだけに生活をずっと見ていた。情事に至るまで……。

 だから、よくわかっているのだ。


「そうなの!?」


 では、教えなくてはならない。そう思えばクー子の顔はまたまた真っ赤に染まるのだった。


「あまりボヤボヤなさると、かわいそうなので、私が一肌脱いでしまいますからね!」


 柱千葉之守神はしらちばのもりかみはクー子にせっついたのである。

 日本には昔、筆おろしという文化が存在した。年上の世代の女性たちが、男性に初めての情事を経験させる文化である。


 そもそも性を忌避したことがなかった地域での話である。性病もなければ、それは利益が勝るのだ。尋常な行為で興奮を覚えたのであれば、性癖が極端に歪むリスクを下げることが出来る。それは、その男性たちの同世代の女性にも都合がいい部分も多かったのである。


「だめ!」


 クー子は反射的に強く否定し、そしてすぐに赤面した。

 僅かに沈黙が流れ、やがてクー子は決意した。


「……近いうちにちゃんとする……」


 消え入るような声でクー子は言ったのである。

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