第231話・ただ側で
天井から囲炉裏に吊られている鍋。だがそれも一つでは足りない。やはり旅館のようにいくつもいくつも吊ってある。
それをそれぞれ数柱で囲んで、宴会をしようということなのだ。火を入れてしばらく後、グツグツと落し蓋が揺れる。漂うえも言えぬいい香りが立ち込めて、食欲は今にも爆発寸前だった。
春の旨み、それをまるで煮こごりのように煮詰めたものが鍋の中でふつふつと煮えているのだ。そもそも、土すら香るこの季節である。旨みが無臭であるはずなどない。冬のあいだに蓄えたそれを、力いっぱい解き放っている。
『ぐぅうぅぅぅ』
という音すら聞こえる。
開けた瞬間、さらに香りが襲ってくる。もはや爆発だ。美味以外の全ての可能性を吹き飛ばすほどの爆風が吹き荒れる。
「いいみたいですよ!」
許しが出ると、皆一斉に、自分が座る囲炉裏の鍋に箸を突っ込む。
神通力で箸を使っているのだ。ぷにぷに肉球は添えるだけである。
「あっふ! はっぐ!」
「ふにゃあああああああ!」
そして様々な声に溢れるのである。
火にくべられているのだ。家守たちは元々から人間ではなく、他の種族である。
よって、猫舌なのだ。アツアツが苦手なのは何も猫だけではない。人間以外は大抵そうである。
「うーん! 美味しい!」
しかし、人の姿を取れるようになってから訓練され、克服する場合もある。
また、そうでなくても長いこと毎日のように、熱い料理に触れていると克服ができる。人間もそういう経緯で猫舌を克服するのだ。
「ん! 美味しい!」
「
どうにも
よって、そのように助言したのである。
「ん!」
「く、クルム……?」
やはり、新婚というより親子としての感覚ばかり大きくクー子は赤面した。
だが、永久にそうでいるわけにはいかない。結婚したのだから、いつかは夫婦の自覚も必要である。
「ん!」
クルムは強行する。それと、少しだけ寂しげな表情に変わりつつあった。
神が選んだ婚姻であり、いつかは必ずうまく行き。一度うまくいけば永遠にうまくいく。そんな相性を持つ二人だ。
「ん……」
頬に朱を刺し、目をつぶって、髪をかき分けては、観念してそれを口に含んだ。
心臓の音ばかりがうるさく、クー子の味覚は麻痺していた。羞恥に紛れてほんの一粒別の感情。
そうして、互は互いに食べさせあうような夕飯になったのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
食事が終わると、家守達はクー子達に祝辞を述べて帰っていった。夜は、できるだけ二人きりにするのが、新婚さんへの礼儀である。
「では、お二人共。こちらでごゆっくり」
クー子たちが案内されたのは、とても広く、良い部屋なのではないかと思えるところだった。これでは本当に旅館である。
「ん!」
「はーい!」
それぞれに返事をすると、案内をしてくれた
障子を開けると縁側で、えも言えぬ日本庭園である。桜が植わっていて、五分咲きといったところだろうか。
縁側で、二人でそれをゆったりと眺めた。
僅かに月がすでに顔を出していて、空には星々が光っている。月見桜も乙なもの、中秋には及ばないが、月自体も美しい。
さらりと風は吹き抜けて、だが咲き誇ったばかりの桜の花はほんの少し揺れるだけ。まだまだ咲いていてやるとすら言っているかのように思える。
「まだ、ちょっと冷えるね?」
クー子が静かな声で言うと……。
「ん! でも、いっしょ。あったかい」
今は隣で温めてくれる人が、
「もう! お茶、入れてくるね」
その部屋にも、旅館の定番があった。梅昆布茶である。旅館といえばこれであろう。これがない旅館は旅館ではない。
電気ポットのような神器も最近はあって、それがおいてあればいつでもそれを入れることができる。
翡翠の容器をあけて、クー子は中の粉を匙に取る。その粉は手作りである。昆布出汁を干して、粉にしたものに後から梅干をくだいて干して混ぜた。だから、塩気は全部梅から出る。
クー子はそれを持って縁側へ。
「ありがと」
「いいえ」
クー子は破顔せずにいられず、
「幸せ……」
だが、そんなつぶやきも狐と月は聞いているのだ。
クー子は安心した。しかしすごいことだった。
おそらく12年ほどであろう年月を六年で全て塗り替えてしまったのである。
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