第207話・巡り巡る

 その日の放送後、渡芽わためは起きて待っていた。眠くならなかったというのもある。そして、不安だったというのもある。

 自分の恋路に、障害が現れるような気がしたのだ。そう、渡芽わためは恋を自覚した。敬愛する恍惚、プルチックの感情の輪における愛の最も深い感情である。


「クー子……」


 起きていた渡芽わためは夜ふかしを咎められる心配に苛まれた。


「待っててくれたのかな? 一緒に寝る?」


 だが、本気でクー子がそれを咎めるはずもない。朝、懸命に起こせばいいだけ。

 それに、渡芽わためは神の体。睡眠不足程度で体調不良になるはずもない。


「ん!」


 だから、渡芽わための顔はパッと華やいだ。


「じゃあー! 夜更かしした悪い子は、抱き枕の刑じゃ!」


 なんとも幸せな罰もあったもので、渡芽わためはそんなことなら毎日でもいい。当たり前だ、最愛の人に抱き枕にされて苦しむのであればその人の寝相に問題のある場合だけ。クー子の寝相は悪くない。寝ぼけてなで回される程度だ。


「うん!」


 よって、渡芽わためは抱き枕に甘んじる。もちろん、こっちから抱きついてもいいのだ。幸福と安心の中で眠りに落ちるだろう。


「寝る前にどうぞ」


 そこに、蛍丸が温めたミルクを持ってきた。

 牛乳の摂取は、古代日本では行われなかった。だが、日本神話にそれを嫌う要素は無い。神であればなおさらだ。


 日本神話において、不浄とされるのは死である。かと言って、生物たちは命を奪わないと生きていけない。よって、その神話に登場する神々が嫌うのは、快楽のための殺戮である。


 牛乳とは縁遠い存在だ。牛乳の摂取が世界で始まったとき、神々もそれを取り入れた。生きるため、食事のための殺生は命の摂理。肉も魚も、その精霊に感謝して食べる。精霊を和魂たちに預けるために、日本では柏手を打って“いただきます”と言うのである。


「ありがとう!」


 蛍丸の温めたミルクには、和三盆が溶かされている。神の世界では、白砂糖の方が貴重で、砂糖と言えばもっぱらこれだ。神事に落雁はつきもので、こちらは供給過多である。よって、これを砕いて入れる。拾えないほどの小さな破片は拾ってはならない。厄を落とすための破片なのだ。


「ん!」


 渡芽わためもそれを受け取って、立ち上がる湯気を少し眺めている。熱くてすぐに飲めないだけだ。


「私は、みゃーこ様にも。道真様に、宿題をせがんでおりましたから」


 みゃーこの原動力は学校というものへの憧れだ。学校で起こることは全部経験してみたかった。だが、あこがれは時に苛むのである。

 クー子は縁側で渡芽わためと二人。


「クー子……どこへもいかない?」


 渡芽わためはふと不安になって聞く。渡芽わための感覚で六年は長い。これまで生きてきた年数の半分だ。


「行く暇がないよ!」


 クー子はそう言って笑った。クー子にとっての六年は刹那だ。これまで生きてきた年数のわずか五百分の一である。

 だから、そんな短い間で恋をしろなんて無理難題。神は交際期間もべらぼうに長いのである。


 もちろん昔は別だ。神々が幼かった頃は、“美人だ、惚れた、結婚だ”などという急展開が多かった。もちろん後から思兼に相性を見てもらったりもする。よって婚姻は長続きするのであるが……。


 閑話休題。


 だからこそ、クー子は六年ごときでは他に恋する暇もなければ危機感もたっぷりだ。六年の間に渡芽わためが恋心を忘れるとは思えない。

 とはいえ、クー子は親のような存在であるわけで、渡芽わためを愛しく思うのは当然だ。だが、恋愛とは違うのだ。


 ふと、他人に嫁ぐ渡芽わためを想像した。嫁ぐなら、石売という少年、彼も良い相手だろう。でもやはり寂しいものだ。

 クー子はわからなくなった。自分が本当に、渡芽わために対して神とコマの間だけの感情を向けているのか。


 よく考えれば渡芽わためは大きなきっかけである。人嫌いを克服するきっかけ、主神に登るきっかけ。なんだか、クー子の世界はこの小さな少女に動かされている気がしたのである。

 だから今はこう結論づける。“如何にあれども、彼女は我が宝”。


「クー子?」


 考え込んだクー子を渡芽わためは心配して覗き込んだ。


「ごめんね! ちょっと、やっぱりクルムは大切だなって思ってただけ」


 恋ではないかもしれないが、恋心を向けられて嫌な気はしない。自分の感情を分析すればするほど、嫌とは思えなくなるのだ。

 クー子はもういいかと思った。どうせ渡芽わためがその気になれば、自分は断れない。六年後改めて申し込まれるのであれば、受け入れる覚悟は決めたのである。


「ん……。クー子……大切! 大好き!」


 その気持ちが六年後も続くかどうかは、未だ闇中にて朧なり。


「私も大好きだよ!」


 ただ、変わらない保証があるのはお互いの愛だけである。形は変わっても、愛があることは変わらないだろう。いつまでも、いくつになれど、母神の、忘れ難しや……である。


 その歌は、宇迦之御魂うかのみたまに宛てたもの。だけど、いつか似た歌が自分に向けられたら嬉しいだろうなと考えた。と思えば、宇迦之御魂うかのみたまに送った歌はきっと喜んでもらえたのだろう。クー子のそれは、確信に近かった。


 不変の愛は誓うまでもない。変えようとすることは無為なのだ。少なくとも、クー子にとってみゃーこも渡芽わためもいつまでも愛しくてたまらない。

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