第201話・日の継承者は恋する
言語を持つ存在は、名前を与えることでそれを捉える。感情も、理も、幻想にすら。言語とは、その生物が命名した物の集合体である。
「道真くん、この教科書いいね! でも、どうしてここまで作れたの?」
昼食の少し前、やってきた道真はクー子に教科書を見せた。その教科書は、今日一日の授業を行うと考えれば十分すぎるものだったのである。
たかだか数千文字であったとしても、それを考えながら書く事は割と大変だ。それが人に教える目的ならば、なおさらである。
だからクー子は一日で出来上がったとはとても思えなかったのだ。
「実は断片的には作っていたのですよ。いつか、使えたらと思いましてね。このようなものを、高天ヶ原蛭子大社にたくさん置かせてもらっています」
道真は熱心な教育者である。というより、他者の知的好奇心を満たすのが趣味なのだ。故に教えるのは仕事ではあるのだが、仕事であるという意識がない。神々は道真の趣味に仕事という名目を与えて、教える場所も用意したのである。
趣味というのは多種多様であり、幼い頃は世界の全てが楽しい。成長する過程でそれが削ぎ落とされ、残ったものや途中で獲得したものが趣味である。
赤ん坊が何でもかんでも笑うのは、世界の何もかもが楽しいから。それを削ぎ落としてしまうのは経験だ。なんでもないことが削ぎ落とされるのは仕方がない。だが、誰かが馬鹿にしたことによって削ぎ落とされてしまうものも多いのだ。
「熱心だね! さすが!」
クー子は笑う。その顔はどこか誇らしげである。
「それほど褒めないで頂きたい。天狗になってしまいます」
道真は、平安の日本人であり、陽の前世である安倍晴明が生まれる前に死んだ人間だ。だから、慎ましさがあって、それでも嬉しくて、照れて笑った。
「クー子……」
それに不安を感じたのは
彼女は初めて感じる感情であった。その感情には嫉妬という名前がある。だが、
「どうしたの?」
クー子は声をかけられればすぐにしゃがんで、目線を合わせながら話した。
「わかんない……」
その顔は、いつもどおり。何を話してもいいしと思えるような、柔らかな表情だった。
「あぁ、なるほど。恋心すら預けてしまったのですね……」
道真はその瞬間に理解した。
「?」
「クルムさん。私は、この高天ヶ原に来る前に、妻がいました。もう、千年以上前なのですがね……この道真、未だ
人で会った時の縁を忘れられない。幼さであり、だがそれもまた貴いことである。よって神々は尊重する他ない。
「あ、道真くんからのお断りはそういう理由だったんだね! 人嫌いの私に気を使ったのかと……」
そしてその縁談当時、クー子は人嫌いであった。もちろん神々の気は長いがゆえに、人嫌いを緩和しつつという付き合いも望んだのである。その緩和があったからこそ、クー子と
それに、道真もその縁談に救われた部分がある。かつての妻、
「これでも貴族でした。懸想したのであれば、毎年文の一つくらい送りましたよ」
そう言って道真は笑う。春は特に貴族の文通の盛りだ。日本人なのだ、桜という花を特別視する文化は何も今に始まったものではない。
ただ、道真世代は菊も重要視されていた。十六葉八重表菊が皇室の家紋なのだ、当然である。
「えっと……?」
この時代の人は、恋に関する言い回しはとても遠まわしだ。
「お互いフリフラれた仲だよ! 今は、クルム優先!」
さらに昔になるとオープンだ。なにせ古代日本は性にオープンだったのである。
ただすごいのが、隠すことによって煽るという高等技術を会得したことだ。
「ん!」
みゃーこはもう成りコマですらない。手をかけ面倒を見に行くという時は終わったのだ。これからは頼られたときだけにせねばならない。
寂しいが神とコマはそういう関係である。
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